2007/08/26

stain

昨日の話の続き。

問いを解くというのは、自分が問いの外にあることを意味します。
問題は自分にあるではなく、自分の外にある。つまり悪いのはあの人だ、悪いのは組織だ、悪いのは社会だというスタンスです。

僕はある日の夕方車を運転していて、ある問題のことを考えていました。
その問題は、なかなか解けない問題だったのです。そして車のフロントガラスのずっと向こうにある薄暗がりの中に生えている大きな木をぼんやり見ていました。
この木の枝の上に、枝の上に止まっているフクロウのように、「問題」はあるだろうか?と考えたときに、
ああ。そうか。「問題」は僕の外ではなくて、僕の中にあるんだ。問題を造っているのは、実は僕自身なんだという事に気付きました。
僕の外では確かにいろんな現象が起こっているけれど、それはある意味では物体の移動に過ぎない。それを「ゆゆしき問題」ととらえているのは僕の頭なのだ。
そうか。問題を造っているのも、それが解けなくて困っているのも僕の頭の中だけの話なのだ。
僕は自分でパズルを作って、それが解けずに困っている。
じゃあ、なぜ僕はそのパズルを作ったのか。そしてそのパズルはなぜ解けないのか。
それは僕の中の、溶けることを僕自身に許していない部分だからです。
少なくとも今の僕にとって溶けては困る部分だからです。
その部分は「溶けない」という大事な役割を担っている。
「解けない謎」という役割を担っているから、それは解けないのだ。
解けないものを解こうとするから、問題がさらに複雑になって、苦悩が大きくなっていく。

禅の立場は、「かれの全存在が世界のはじめから終わりまでをおし包む一大疑問符となってしまう」こと。
その問題が、解けないという役割を終えたとき、問題はおのずから溶けている。


stain, originally uploaded by slowhand7530.

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