2008/08/19

プレゼントとしての「時間」

僕はそれほど熱心な野球少年ではなかったが、小学生の時はよく野球をした。
試合を始める前にはキャプテン同士がじゃんけんをして先攻と後攻を決める。
守備は炎天下でじっと相手のボールが飛んでくるのを待つので退屈だしおもしろくない。
攻撃はボールを打って走るのが痛快だ。
だからじゃんけんに負けて守備を守りに行くときはがっかりしたものだ。
攻撃したければ相手の攻撃が一区切りするまで待たなくてはならない。

「会話」も野球に似ている。僕がしゃべり、相手が聞く。相手がしゃべり、僕が聞く。
しゃべりたくても、相手がしゃべっている間はその話が一段落するまで僕は待たなくてはならない。



相手の話を聞くときに僕は何をしているのだろう。
たぶん僕はその時相手に僕の「時間」をプレゼントしているのだ。

精神科医・春日武彦氏との対談の中の内田師匠のことば。

「レヴィナスに『時間と他者』という,1940年代に書かれた書籍があるんですが,そこには「時間とは他者である」と書いてあります」

「おそらく,時間性を取り入れることと,他者を受け入れるということはシンクロしている」

「時計が動くということは交換関係の中に入っていくということだ」


そのことで思い出されるのがマックス・ピカートが「騒音とアトム化の世界」の中で語っている言葉だ。
この中の「愛」を人とのコミュニケーションととらえれば、
コミュニケーションと時間との深い関連性が浮かび上がってくる。

「愛とは立ち止まることだ。
ある一人の前に、しばし立ち止まることなく、時間を使うことなしに愛を交わすことはできない。
愛情のある人間は他の人々やもろもろの事物の前に立ち止まる.
そしてそれらの人々や事物に時間を与える。
それがとりもなおさず愛なのだ。
くりかえしていうが、時間と愛とは相い依って一体をなすのだ」

マックス ピカート「騒音とアトム化の世界」
佐野利勝訳(1971)みすず書房

2 件のコメント:

  1. 匿名8/20/2008

    oh!! yuukoさんの空と雲も見事だが、shinさんの空と雲はさらに見事だにゃん。
    説明文は難しいから、パス。

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  2. >とーしさん。
    yuukoさんの8月13日のエゾニュウの空の写真、素晴らしいですね。
    →http://yamanoomomuki.blog68.fc2.com/blog-entry-505.html
    まるで空にさざ波が立ったみたいです。

    >説明文は難しいから、パス。
    ははは。ひとりごとなので無視して下さい(笑)。

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