2009/06/30

降って湧いた災難

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仕事帰り。そとは雨。


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家に帰るとチャーリーがこんな有様に。


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シッポを噛む癖がなおらなくて。

2009/06/29

青春というひどい時代

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最近は仕事から帰ってきてパソコンの電源を入れると、画面が立ち上がるまでの間デッキチェアでちくま日本文学の内田百閒を読むのが習慣である。その本の後半に「無恒債者無恒心」という短編がある。百閒先生の貧乏譚である。

読み進むうちに貧乏つながりで、ある話の断片が浮かんできた。
何しろぼんやりとしか浮かんでこないが、浮かんでくる断片を順番に書き上げていくと、それは確か大晦日の話で、やはり借金にまつわる話であり、武士が主人公の話だった。たしか井原西鶴。

ようやく立ち上がったパソコンで、グーグル検索をする。
「井原西鶴、大晦日、借金」で調べたが釣れない。
そのうちに小判一両にまつわる話だったことを思い出す。
「井原西鶴、武士、一両」で検索したら「大晦日あわぬ算用」に行き当たる。
ああ、これこれ。

でもネットで原文を読んでもぴんと来ない。内容は一致するが文章が、違う。
さらに「大晦日あわぬ算用」で検索しているうちに「太宰治」の名前が。
そうだ。太宰だ。
本棚の奥から新潮文庫の「お伽草子」を出してきてぱらぱらと目次を繰る。
その中の新釈諸国噺の第一話「貧の意地」。おお、これだ。
すぐに読み直す。あんまりおかしくて、一人でくすくす笑う。

僕の高校時代は、真夜中にたった一人でマネキン工場に閉じこめられたような孤独感と、剥がれた皮膚のまま泥の中を転がりまわるような過剰な自意識のために、笑ってしまうほど酷い時代だったけど、とりわけ酷い絶望のずんどこに落ちた時の命綱は太宰の「人間失格」だった。
僕は底なしの絶望に陥ると決まって人間失格を読んだ。
人間失格を読むことで、底なしの絶望に底板が出来て、その底板を踏むともう一度水面に出ることが出来たのだ。

でもこの本はいざというときのための命綱に取っておかないといけないので(笑)、普段はもっと軽いものを読んでいて、「お伽草子」や、「きりぎりす」や、「新樹の言葉」なんかをよく読んでいた。

太宰の強い魅力は「走れメロス」などに見られる息せき切って畳みかけてくる語りの見事さと、自虐的なアイロニーと、落語に通じる笑いと、ヒリヒリするような皮膚感覚で描写される恥の感覚と、息苦しいほど精いっぱい切望する救いと、尊いものに対する強いあこがれと、と書いてみてこれは青春そのものじゃないかと思った。太宰ってRock'n'rollerだったのか。


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ほんとに。
あの酷い時代を生き延びることが出来たのは、太宰と、安吾と、ビートルズやジミヘンやジャニス・ジョプリンなんかのおかげだったよなとつくづく思う。


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on Sunday

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2009/06/27

2009/06/26

「父」の不在

「Abraham and Isaac」1634年レンブラント



これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(注:燔祭とは犠牲の動物を祭壇で焼き、神に捧げること)

アブラハムは朝はやく起きて、ろばに鞍を置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。
そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
こうしてふたりは一緒に行った。
彼らが神の示された場所に来た時、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべに手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。


これは旧約聖書の創世記第22章からの抜粋である。
神はユダヤ教の祖アブラハムに息子の殺害を命じる。
アブラハムもその息子イサクも咎められる理由はなにもない。
ただ信仰を試すというだけの理由で息子の殺害を命じられる。
命令する神も神だが、命を受けたアブラハムも、「どうして息子を殺さなければならないのか?」などとは問わず、歯向かいもせず、悩むことも嘆くこともせず、こう言ってよければ、まるで事務作業のように淡淡と事を運ぶ。
理屈のない不条理な、非情の世界。
旧約聖書には理不尽な境遇をただひたすら堪え忍ぶ「ヨブ記」などの話もある。
この世界では「父」の「ひと」に対する優位は圧倒的である。


これに対し新約聖書の「神」は、ひとの弱さを許す神である。
その許しは、イエスの磔刑によってもたらされる。
この許しによって、「父」と「ひと」の位置関係は並列となる。
並列ではあるが、ここには明らかに「父」がいる。
ニーチェが「神は死んだ」と言い、ジョンレノンが「僕らはイエスより有名」と言っても、
それは神が存在するから言えることだ。
存在しないものにとやかくいえるものではない。


「父」の特性とは何か。
(河合隼雄『母性社会日本の病理』より)
「これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。
それはすべてのものを切断し分割する。
主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供をその能力や個性に応じて類別する。
極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。
父性原理は、このようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊にいたる面と、両面を備えている。」

「父」は「区別」し、「評価」し、「裁く」。
「父」は「法」によって「分断」し、「断罪」する。
「父」は「非情」である。

村上春樹はエルサレム賞の受賞講演で「システム」が個人を損なうことについて言及し、自分は「壁」よりも「卵」の立場に立つと表明した。
彼の作品に一貫してみられる「父」的なものの不在と関係がありそうな気がする。
また彼がイスラエルという、まさにユダヤ教の「父」の国のまっただ中でこのような発言をしたことも非常に象徴的だ。
「父」は自分の小さな分身として「システム」というものを作り上げて、自分がいない場所でも自分の機能を発揮させようとするからだ。

では「母」の特性とは何か。
(河合隼雄『母性社会日本の病理』より)
「母性の原理は「包含する」機能によって示される。
それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子である限り」すべて平等にかわいいのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。
しかしながら、母親は子供が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子供の危険を守るためでもあるし、母ー子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を飲み込んでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、飲み込み、しがみつきして、死に至らしめる面を持っている。」

僕は楳図かずおのファンだけど、彼の作品は「母」というものの底知れぬ恐ろしさと、それとは裏腹に「母」への限りない思慕を中心に作り上げられている気がする。「漂流教室」では時空を超えた母の愛が描かれている。

ユダヤ教やキリスト教のような明らかに父を持つ宗教を、我々日本人は持たない。
日本に居るのは母だけである。
「母に捧げるバラード」はあるが、「父に捧げるバラード」はない。
森進一は「おふくろさん」と歌っても「おやじさん」とは歌わない。
かあさんがよなべをして手袋を編んでくれるが、お父さんはその時何をしていたのだろう。
太平洋戦争で特攻隊は「おっかさーん」と叫んで死んでいくが「おやじー」とは叫ばない。
日本では非情な断罪は共感を得ない。
日本で好評を博すのは「正義」ではなく、三方一両損のような大岡裁きである。

「日本」に「父」は居ない。
「日本」というバーチャル世界における「父」という駒の存在は限りなく小さく、「母」という駒の存在は限りなく大きいけれども、その理由はどうも日本語という言語に関係があるのではないかという気がする。

月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」によれば、様々な国の言語を比較すると、母音の比重の大きい言語では主語や人称代名詞が省略されやすいという。
日本語には、胃(い)、鵜(う)、絵(え)、尾(お)などの一母音単語や、
愛(あい)、合う(あう)、青(あお)、言う(いう)、家(いえ)、上(うえ)、魚(うお)、甥(おい)などの二母音単語といった母音だけで出来た単語がたくさんある。
日本語では語尾に母音が来る確率が100%であるのに対し、英語では25%にすぎない(日本語をローマ字で書くとすべての単語が母音で終わり、子音で終わる単語は存在しない)。英語では命令形を除いて主語を省略することはないが、日本語では頻繁に主語を省略する。日本語のほかにポリネシア語も日本語と同じく高率に母音を重視した言語だそうで、ポリネシアも主語を省略することが多いという。そして母音の比重が大きければ大きいほど、その言語では人称が省略される比率が高くなるという。

なぜ母音の比重が高くなると人称が省略されるのか。
その原因を月本氏は以下のように説明する。
母音は声帯を動かす段階で生成され、子音はその後の舌、唇、歯などの形を変えることで生成される。したがって発声の準備は母音が先である。
さて、欧米人は母音にあまりなじみがないので、母音は言語野のない右脳で処理されるが、日本人は母音を多用するので、この音は言語野のある左脳で処理される。
欧米人は母音を右脳で聴くが、母音を多用する日本人は母音を言語野のある左脳で聴くわけだ。

さて、欧米人が発声するまでの過程を追ってみよう。
欧米人は母音の準備を右脳で行う。
この右脳には自他を区別する認識領域が存在する。
信号はこの自他の認識領域を刺激してから脳梁を通って左脳の言語野に達する。
この間の時間の経過は数十ミリ秒。
欧米人はこの数十ミリ秒の間は文章を作ることが出来ない。
この数十ミリ秒の間に先ほど刺激を受けていた自他の認識領域によって人称が準備され、「I(アイ)」と発声し、続いてようやく文をしゃべることが出来る。
「love you.」

日本人は母音の準備を左脳で行いそのまま言語野を刺激して発声する。
このあいだの信号の伝達は瞬時に行われ、当然右脳の自他の分離の認識領域は眠ったままでしゃべる。
「愛してる。」


さて、では主語を省略することは僕たちの発想にどんな影響を与えるだろうか。
主語を省略すると、発語者の主体の境界がおぼろになり、責任の所在がはっきりしなくなる。
責任の所在がはっきりしなければ、分断し、区別し、評価し、裁くことが困難になる。
「日本」というバーチャル世界では、そこで運用される言語のために「父」が育たない。
抑圧されてきた「父性」や「男性性」はごくたまに激しく暴発し、歴史に禍根を残す。
「父性」や「男性性」が社会の中で生き生きと、あるいは健康な形で息づいていないため、それがごく稀に歴史の表面に姿を現す時には、非常に拙い、粗暴な形で表面化する。
その悪い面だけが、後味として残る。我々はいまだにそれをぼんやりと反省している。
だがこの国は、卑弥呼の時代からそもそも「女性の国」だったし、実は今もそうなのだ。
僕がちゃんとした父親になれなかったのも、それが原因だったのだ。
唐突にあらわれたわけのわからない言い訳で、今日のお話は終了です(笑)。

えー、これは学術論文ではなく、間違いだらけの文章です(それにしてはえらそうな書き方ですが(笑))。
単なる思いつきを文章にしただけのものですので、興味のある方のみお楽しみ下さい。




2009/06/24

Gold on Black

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えー、是非是非 Large view ↑でご覧下さい。

2009/06/21

夢の南洋旅行

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ひとにはやんごとなき事情がいろいろあって


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南の島へは行けないけれど


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せめて想像の羽を広げよう。


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この南方の植物のようなものはなんだ。
髪を金色に染めたロッカーの頭のようなあやしい花。
グーグルで「長髪 花」、「金髪 花」 で検索してもだめ。
mixiの「この花・何の花」のコミュで質問したら15分後にはもうお返事が!
クレマチスの種だそうです。
花じゃなかった。
sakuraさん、鶴遊さん、ありがとうございました。

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そうだ、音楽でも聴こう!
ということで、amazonで注文していた2枚のCDが届きました。


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グールド。
坂本龍一が選曲した28曲が入っています。
これは北極圏への旅という副題があります。
いや、そんな寒いところじゃなくて。


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カルロス・ジョビン。
小野リサが歌う。
そうそう。
行きたいのはこっち方面。


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ジャケットの中のデザインもすごくしゃれています。


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眼下に広がるカリブ海。
マイタイなんか飲みながらハンモックで風に揺られる夢を見よう。

いつのまにか梅雨

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2009/06/20

空いっぱいの空

The sky full of sky
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気分とは裏腹に気持ちのいい青空でした。

2009/06/19

Green & Blue

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しなければならないことは山ほどあるけど
何もする気が起きない金曜日。


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気分はgreen and blue.


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それでも写真は撮りに行くべし。


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半年くらい南の島でぼーっとしたいな。
夢のまた夢。

2009/06/18

Why email is invented



何度見ても可笑しいので思わずアップしてしまいました。

2009/06/17

恥ずかしいという感情の起源について

主なる神はアダムとイブにエデンの園にある知恵の実だけは食べるなと命じた。しかし二人は掟を破ってその実を食べてしまう。その途端、二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉を身にまとった。

恥ずかしいという感情はどこから生まれるのだろう。
素っ裸で外に飛び出したら往来の真ん中だったり、
満員電車の中でおならをしてしまったり、
演奏の発表会で間違って素っ頓狂な音を出してしまったり、
自慢げに話した内容がまるっきり的外れだったことに気付いたり、
外出から帰ってきたらズボンのチャックが全開だったことに気付いたり。

共通するのは、
「あらまほしき規範からの逸脱の自覚」である。
自分は本来は調和の側にいるはずなのに調和に対し無頓着な人間であると誤解されるような状況に陥ったこと。
調和とは、あるべき自分にそぐう状態にあること。
あるべき自分とは、私が抱く世界のバーチャルイメージの中における「私という駒」の纏っている姿勢のことだ。

誰がその駒にその姿勢を纏わせたのか。
それはそのバーチャル世界がその駒に課した役割だから、私にその姿勢を纏わせたのはバーチャル世界を想像した私自身に他ならない。

そしてそのバーチャル世界を生み出したのは「言葉」であり、「智恵」である。
智恵の実を食べたというのは、自前のバーチャル世界を生み出す能力のこと、つまり言葉のことだ。
自前のバーチャル世界を持つことは、そのバーチャル世界の掟を自分で作り出すということで、つまり私はバーチャル世界の神なのだ。
人は言葉を持つことでバーチャル世界の神になる。

罪というのは言葉によって人間が自らバーチャル世界の神になることだ。
英語ではすべての文章に主語が必要だ。
私は、で始まる文章はすべてI(アイ)を省略できない。
つまり西欧人はすべてのバーチャル世界に私という刻印を押す民族なのだ。
しかし日本人は主語を使わない。
日本人は極力自分という刻印を押したがらない民族だ。
もちろん日本人もバーチャル世界を作っているのは自分なのだが、そのことに対し私たちは意図的に無自覚だ。
日本人に罪の意識が希薄なのはそのせいかもしれない。

イエスは何をしたか。彼は「私という刻印(=原罪)」とともに死に、いったん「私という刻印」を神に返したのち私のバーチャル世界に「神」という駒を導入したのだ。
「私という神」をいったん神に返さなければ「神」という駒は手に入らないからだ。
以後このバーチャル世界では「神」と「私」が並んで歩くようになる。

「私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7:15-24)

「肉体によって弱められた律法にできなかったことを神はしてくださいました。つまり自分のひとり息子を罪の体のかたちで世に送り、わたしたちが肉でなく律法を全うして生きられるように、肉のうちにある罪を処断してくださったのです。」(ローマの信徒への手紙8:3-4)

(以上は私のひとりごとです。たぶん勘違いしているので放置して下さい)。

2009/06/16

sign of the cross


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キリスト教のシンボルである十字架はイエスを磔にして吊している様子を表している。
だがある宗教が自分たちの宗教の創始者が殺された様子をシンボルマークにするというのは、考えてみると異様なアイデアだ。
例えば獄門打ち首になった晒し首をシンボルにする宗教や、釜茹でにされた創始者が煮えたぎる油釜の中で苦しんでいる様子をシンボルにする宗教を想像してみれば、それがいかに奇妙な宗教かがわかる。

ひどい目に遭わされた創始者の様子をシンボルにするのは「この恨みを決して忘れない」という決意表明以外の何ものでもないが、キリスト教のこのシンボルは、イエスが我々の罪を神に許してもらうために自ら生け贄になってくれたというありがたいしるしなのであって、決して「恨みはらさでおくものか」という決意表明ではない。

みんなの罪はおいらが引き受けた。
おいらがみんなの罪を背負って生け贄になることで、みんなの罪は神様から許されるんだという。

僕自身かつて新約聖書を真剣に読んで、この宗教を通じて世界と和解した経験があるので、聖書にはたくさん感動させられたけれども、一番理解できないのは「罪」、あるいは「原罪」という部分だ。
「愛」については賛同できるにもかかわらず、「罪」を背負ってイエスが我々の代わりに死んでくれたという、おそらくこの宗教にとっては最も根幹の部分こそが同時に僕らが一番「わからない」部分なのだ。
この「罪」という言葉は、僕たち日本人にはどうにもなじまないような気がする。
彼等にとって一番大事な部分が、僕らにとっては一番不可解なのだ。
それはたぶん西欧の人たちの世界認識と、僕たちの世界認識の根本的な違いに起因しているのではないかという気がする。

(後日記:この問に対するひとつの答えを6年後に記す




2009/06/14

運命が扉を叩くのを待つ

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この世界につまらないものなどはない。
だが僕に縁のあるものはわずかだ。
意識をなるべくぼんやりさせて呼ばれるのを待つ。
そのうちに霞のような世界で誰かがドアを叩く。
運命が扉を叩くのを待つ。


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