2009/09/18

「目的」の終わる場所。

僕たちが日々生活していく上で、目的という言葉は常につきまとう。
何々するために、例えば大学に合格するために。
子供をいい学校に入れるために。健康であるために。
目的地に早く到着するには。
より安く手に入れるためには。
今月の目標を達成するためには。
幸せになるために。
幸せにするために。

目的があると、日々の生活に張り合いがでるし、目的にむかって努力している人というのは素敵です。
努力して、オリンピックで金メダルを取った人のドラマを見るとすごく感動してしまうし、イチローもかっこいい。
目的もなくだらだら生活している人というのは、何だかだらしない。
それに第一、目的のない生活というのは、ちょっと思いつかない。

でも、「目的」という概念にも、ひょっとすると流行があるのかもしれない。
ある目的のために、どのような手段が必要で、どのような機材が必要で、どのような計画を立てるのか。
そういうのはアメリカが得意で、綿密な準備を経て、1キロ先の針穴を通り抜けるような精確さでアポロ11号は月に着陸したけれども、合目的的な努力や、合目的的な生き方というのは、ひょっとすると、単なる一つの文化なのかもしれない。
僕たちは普段から、欧米を中心とするアングロサクソン民族の考え方に強く影響されているので、目的をしっかり持つことはよいことと信じて疑わないけれども、それはある時代、ある地方の民族的信憑に過ぎないのかもしれない。

「目的」にも終わりがある。
もうすぐ「目的」の流行は終わるかもしれない。
そのように考えると、「目的」のない生活というのも「あり」だという気もする。

2 件のコメント:

  1. 世界のシステムも、「わたし」自身にもなにかしら賞味期限のようなものがあって、
    それがたとえば瓦解した時にも軽やかに対応できるような目的があったらいいなと思います。
    とても難しいのでしょうけど。

    今あるこのことが未来永劫変らないという前提での「目的」はすこししんどそうですよね。

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  2. paradisさんありがとうございます。
    「目的」という概念からフリーになるという発想がなかったので、ふと気が付いた時にちょっと興奮しました。
    あー、でもそれはむつかしい。
    無意識にモクテキってしまう(笑)。

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