2009/10/12

小さな芸術

えー、本日は近代の芸術の歴史について一席。コホン。
(素人の浅ましさとはいえ、こんなに大それたテーマで文章を書いちゃって。
ええ、まぁ、ひとりごとですから)

1.西洋の芸術はもともと神の指定席であった。
2.やがて神は退場し、芸術に空席が出来た。
3.神の座席は大きかったので、人間はそこに入ってふんぞり返った(巨匠の時代)。
4.神を坐らせる必要がなくなった座席はどんどん小さくなってゆき、巨匠や文豪という称号はパロディー化した。

日本にはもともと神はいないので、芸術は神の入れ物ではない。
では日本において、芸術とはなんであったか。
それはおもちゃであり、芸であり、道であった。
それは自分にとってだけおもちゃとして存在していて、外の世界に覇を唱える必要はなく、みんながそれぞれ各自で「~流家元」として好きにやっていればよかった。

ところが明治の開国とともに、西洋からグローバリゼーションの大波が日本にも押し寄せてきた。
グローバリゼーションというのは要するに「あんたがたもワシらの流儀に従ってもらわんとあきまへん。
『わしらの』(力を込めて!)やり方でやらしてもらいます!いいですね。これが『世界』の常識なんですから」というわけです。

素直な日本人は、それが単に西洋というある民族集団が自分たちの流儀を押しつけてきただけなのに、その流儀に従って、日本の芸術を大きく変えざるをえなかった。
「ああ、西洋の芸術はなんと大きく、偉大なんだろう。それに比べて日本の芸術はあまりにも小さい!。ここはひとつ、西洋人の作品に学んで、わしらも大きな作品を作らねば!フゴーッ!(鼻息)」
それで日本人は文化の都花のパリへ勉強に行ったり、パリに強くあこがれたりしたわけです。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
(萩原朔太郎「純情小曲集」より『旅上』)

でもやがて西洋の芸術は、どうにもその、自らの大きなガワが気に入らないらしく、どんどんガワを破壊していった。
日本人が外人の巨乳をうらやましく思うのに、外人はむしろ大きなおっぱいをうとましく思って乳房縮小手術を受けるようなものか。
日本人もようやく世界が小さな芸術の方向に進んでいるということに気が付いて、
「そうか。もうあんまり西洋のビッグな芸術にコンプレックスを感じる必要はないんだ。じゃあ、また好きにやらせてもらいますね」という感じで、自分たちのやっていることに自信を持ち始めたというのが今の流れではないでしょうか。

偉大な芸術というのは、歴史の流れの中で一時的に出現した特異な現象である。
それは進化の過程で出現した巨大な恐竜のようなものであり、いまは小さな哺乳類の時代である。
哺乳類は恐竜から学ぶことも多く、尊敬することも大事だけれども、あこがれたりコンプレックスを感じたりする必要はない。
というのが今日の結論です。

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