2009/11/25

写真家としての松尾芭蕉

20080418 002

よく見れば なずな花咲く 垣根かな

芭蕉の俳句です。
写真を撮るようになって、ものの見方が少し変わりました。
例えばこの俳句は、
垣根をよく見たらナズナの花が咲いていた。
というだけの、「それがどないしたっちゅうねん!」系の俳句ですが、
そして芭蕉の俳句は、あの有名な古池や~にしても、同じつっこみをしたくなる系統の俳句ばかりなんですが、写真の目で見ると見え方が変わります。

まず冒頭の「よく見れば」。
「よく見る」というのはどんな行為でしょう。
小学校の先生が理科の実習で生徒を校外の原っぱに連れて行くところを想像しましょう。

「先生!きれいな花が咲いています」
「よく見てみなさい。花の上にテントウ虫がいるよ」

よく見るというのは、身を乗り出して対象にフォーカスをあわせる行為です。
ここで芭蕉はズームレンズを使っていると想像されます。
対象をズームレンズでアップすると同時にピントを合わせたので、遠くでぼやけていた対象がぐっと近づいて画像がシャープになりました。

「なずな花咲く」。
ピントの合った画像はナズナの花。ここで芭蕉はナズナの花のディテールの美しさに心を奪われています。
これはマクロレンズです。

最後に「垣根かな」。
ナズナのマクロに心ふるわせた芭蕉は、次にナズナの生えている垣根をパンで捉えています。これは35ミリ位の広角レンズです。

つまり芭蕉はズーム、マクロ、広角の三種類のレンズによる視覚変化をこの一句にまとめ上げているとも言えます。
彼は単に垣根でナズナが咲いていたという事実の叙述を行っているのではありません。
視覚の変化を通じて心の動きを表現しているのです。
俳句そのものには心の「こ」の字も記述はありませんが。

さらに言えば、おそらく芭蕉は最初縁側で寝ころんで肘枕で庭をぼんやり眺めていたと想像されます。
やがて芭蕉は小さな白い点々に気が付く。
寝転がっていた芭蕉はやおら身を起こし、縁側に座って目を凝らしてみると、それはナズナの花。
そのナズナの花は、何もない、どうということもないと見過ごしていた古びた垣根に咲いていたというわけです。

まとめると、カメラのレンズの変化が作者の視覚の変化や作者の姿勢の変化(横臥→坐位)を連想させ、視線の変化を通じて作者の発見の行程と心の動きを表現しているということになります。
言葉にすると、いと興ざめですが(笑)。

その目で彼のほかの俳句を見てみると、視覚の動きで心の動きを表現するというのが彼の作法のひとつであったことが伺われます。

古池や 蛙飛び込む 水の音

古池や
これは50mmの標準レンズ。
蛙飛び込む
これはズームマクロ。
水の音
波紋が広がる池の広角のショット。


荒海や 佐渡に横とう 天の川

荒海や→50mm標準レンズ。
佐渡に横とう→望遠。
天の川→16ミリ位の超広角。

視覚の変化を面白がる芭蕉の旅は、ひょっとするとカメラを携えた撮影旅行だったのかもしれません。
そのように想像すると、三里に灸を据えていそいそ出立の準備に心を躍らせる芭蕉の心持ちが手に取るようにわかる気がします。



4 件のコメント:

  1. いつの時代にも美しいものを見たときは誰かに見せたい、残しておきたいという気持ちになるんですね。
    なずなってペンペン草でしたっけ?
    とっても懐かしいです。

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  2. >SNOOPYさん。
    コメントありがとうございます。
    うたかたのの心のそよぎはそのままだとすぐに消えてしまいますが
    言葉にしたり写真にしたりすると、それは人間社会のネットワークにつながる。
    するとこんどはネットワークが心のそよぎにアクセスしてきて、もういちど心のそよぎに命が吹き込まれる。
    その往還によるそよぎのreviveを僕たちは楽しんでいるのかもしれません。

    SNOOPYさんはもう随分永く日本から遠ざかっておられるのでしょうか。

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  3. そうですね。この春20年ぶりに日本に帰りました。

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  4. おお、20年ぶり!

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