2010/03/04

政治的ということ

「ヒマラヤの氷河が2035年までにみな解けてしまうという予測には根拠がなかった」
「アフリカの農業生産は20年までに半減するという予測も間違いだった」
「アマゾンの熱帯雨林はこのままだと40%以上が危機に直面するという記述にも科学的根拠はなかった」
「オランダの国土は地球温暖化のためにすでに55%が海抜ゼロ以下になったという発表もミスで、実際にはまだ26%だった」

僕たちは直接ヒマラヤへ行って氷河の厚みを測ったりアマゾンの熱帯雨林面積の年次変化を観測出来ないので、こういった類のアナウンスメントが出るたびに右往左往してしまう。
一体何を信用すればいいのだろう。

政治というのは小学校の学級委員会の規模が拡大したようなものだと考えていると、様々なニセ情報や黒幕や陰謀や裏金の話を見聞するたびに、なぜ彼等はクリーンな仕事が出来ないのかと憤ってしまうけれども、そもそも政治というのはそういった暗部を抜きにしては語れないし、いやむしろ利権と政治は同義語なのだと考えればいろんな事がすんなり腑に落ちる。
きれいな政治というものは存在しない。
それは「きれいなゴミため」が存在しないのと同じく形容矛盾なのだ。

なぜそういうニヒルな発想の方が腑に落ちやすいかは、人類が政治というシステムを導入した経緯を考えればわかりやすい。
人間が自然の暴力に裸でさらされていた頃、自然の猛威に対処するためには一極集中型の圧政的な統治システムが不可欠だった。
だがその後自然に対する人間の統御力がアップするにつれ、統治を一極集中する必要がなくなり、王政から貴族制、貴族制から官僚制へと統御の中枢は分散していく。
それでも基本的に政治というのはその他大勢をコントロールするパワーシステムそのものであり、政治のルーツは「話し合い」ではなく「パワー」なのだ。

大きなパワーを持っているのは誰か。

幸せな人は静かにしゃべる。
怒鳴ったり大声を上げるのは欲求不満がある人、怒っている人、呪っている人だ。
もちろん世界の不合理に対して正義のために立ち上がる人もいるけれども、穏やかな人はたいていの不都合を堪え忍ぶ。
正義の人は普段は黙って雪かき仕事をしているもので、それでもそういう人が立ち上がるときは、あまりきれい事を言わずに黙って立ち上がるものだ。
そういう人が立ち上がるのはよっぽど腹に据えかねる事態があるわけで、そんな事態はそうそうあるものではないし、そういう世紀に一度のイベント以外で、普段からわぁわぁ声を荒げて、実際にシステムを変革しようとするのは、何らかのマイナスのエネルギーが裏にあることのほうが多いと考えるべきだ。

普通の人々は日々を慎ましく忍耐強く穏やかに暮らしている。
良いことを良い姿のままで進めていくだけの強いパワーは、良い人はあまり持っていない。幸せなのだから。
この世界で物事を強く動かしていくのは、残念ながらどちらかといえば暗いエネルギーの方だ。
汚い包装紙にくるまれた汚い利権にうんざりしていた人々は、きれいなデザインにくるまれた負のパワーに簡単にさらわれる。
そういうのを何と言うかというと羊頭狗肉というのである。

いや、僕は今の政権がどうこう言っているのではない。
きれいな政治というのは形容矛盾なのだから。
ただ最も悪いものはしばしば最も美しい姿でやってくるということを心にとどめておくべきだと思う。

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