2010/08/23

セスナのマニュアル

地上三千メートルの上空でセスナのパイロットが突然意識を失って操縦桿の上に倒れ込んだ。
隣に乗っていた男は驚いてパイロットを必死に揺さぶったが、何の反応もない。
いわゆる突然死である。
男は青ざめ天を仰いだ。彼にはもちろん飛行機の操縦に関する知識は微塵もない。
機内には燦々と日光が降り注ぎ、穏やかなエンジンの音と微かな機体の振動がなければ
空中を高速で移動しているとは思えないほど事態は平穏だった。
しかし実際にはその瞬間もセスナは時速120ノットで北北西に向かって滑るように巡航しているのだった。

男はコックピットを眺める。
無数の計器板、無数のスイッチやランプ。そしていくつかのレバー。
操縦桿を除けば、意味のわかる装置は何一つ存在しない。
嫌な汗が、額から眉間を伝わり、鼻の先からぼたりと落ちる。
男は目の前のダッシュボードのラッチを開けてみた。
するとそこには分厚いスパイラルのリングノートがあった。
それはセスナの操縦マニュアルであった。
男は努めて冷静に、第一ページから順を追ってマニュアルを読み始めた。
着座方法。
エンジン始動前の点検事項。
各メーターの位置と意味。
各レバーとスイッチの操作方法。
エンジンの始動方法。
・・・・
男はまずfuel meterを見て燃料が十分あることを確認した。

やがて最寄りの管制塔に驚くべき通信が届く。
ごく短い内容であったが、一葉のセスナ機が当該飛行場に非常着陸するという連絡だ。
飛行場はすぐに緊急閉鎖され、慌ただしく何台もの消防車や救急車が到着し滑走路脇に待機した。
どこから聞きつけたのか沢山の新聞記者や野次馬も集まってきた。

やがて天井が抜けたような青空から一機のセスナがゆっくりと近づいてくるのが双眼鏡で見えた。
少しフラフラしているが、ゆっくりと、確実に、飛行場に向かってくる。
機は右上方から緩やかに滑走路の上空数メートルを滑空し、小さなスキール音をたてて接地し、百メートルほど滑走したあと静かに停止した。

割れるような歓声と、無数にたかれるフラッシュ。
大勢が見守る中、セスナのドアがゆっくりと開き中から男が姿を現した。
男は手に持ったマニュアルの最後のページの「そしてタラップを降りる」という文章を読みながらまばゆい光の中を地上に降り立った。

ことほど左様にアメリカのマニュアルは枝葉を尽くして間然するところがない。
この発想のエッセンスを一度理解してしまうと、旧来の日本のマニュアルの不備が手に取るようにわかる。
それはあまりに文学的で総論的で解釈に幅がありすぎて具体性に欠けており、
従ってそれを手にしたものは文字通り途方に暮れる仕組みである。

ワシントンマニュアルやACLSのテキストやサンフォードガイドを読んだことのある医師なら私の言う意味はわかってもらえるだろう。
私はこれまで病院で様々なマニュアルを作ってきたけれども、それらはいずれもセスナのマニュアル(それはおそらく都市伝説の一つだと思うが)を念頭に作成した。
こういったマニュアルの利点は、一度作ってしまえばあとは忘れることが出来るという点に尽きる。
マニュアル製作に携わったものは、往々にして各部署からの問い合わせに翻弄されるが、セスナ式マニュアルを作っておけばあとはみんなが勝手にタラップを降りてくれる。

教育ということに関して言えば、私はマニュアルというものを信用しない。
なぜ私が教育に関してマニュアルを信用しないのか。

印度の古い諺に、When the student is ready, the teacher appears.
「弟子の準備が出来た時に師が現れる」という言葉がある。
本当に大切な知恵は、受け手の能動性を介してしか伝わらないからである。






4 件のコメント:

  1. みゆ8/24/2010

     まさしく卒啄同時ですね!
     私の父は卒啄同期と言っていましたが、そういう実感が持てる瞬間は本当に幸福ですね。
     人や物や出来事、アートとの出会いでもそういう気持ちになることがありますね。
     準備のできたところにこそ、まるで神が舞い降りるように何かが降りてくるのでしょう。
     
     そして、満月は何か刺激的です。

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  2. みゆさんありがとうございます。
    雛が殻を割ってでる時に親鳥が同時に殻をつつかないと割れないという話は知っていたんですが
    卒啄同時という言葉は知りませんでした。
    お父さんは学校の先生でしょうか。学がありますね!
    こちらに準備が出来ていないと、どんな立派なものを見ても入ってこないというのは僕も実感としてわかります。
    何にでも潮の満ちる時というのがあるんでしょうね。

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  3. みゆ8/25/2010

     shinさん、慧眼ですね!
     そうなんですよねぇ、教育者ってそういうことをいろいろと知っているんですよね。
     でも、旅行に行くとまるで修学旅行生を引率しているみたいに家族を引率している様子がちょっと恥ずかしかったですね。

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  4. おお、やはりそうでしたか。
    >でも、旅行に行くとまるで修学旅行生を引率しているみたいに。
    ははは。その情景が目に浮かぶようです。
    父君としてもおやじと教師、どちらの態度をとるべきか、
    目に見えない葛藤があったのかもしれませんね。

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