2011/01/12

無意識の海

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僕はトイレでおしっこしながら壁のシミを見ていて思った。

本当に知りたい情報がすべて手に入るわけではないが
大まかに言えば今は人類の共有する情報リソースの大幅な底上げ状態が続いている。

例えば僕たちは壁にひっついた鼻くその写真を全世界にネット配信することができる。
誰もそんなものを見たいとは思わないけど(笑)。

今はこういった有象無象の情報のほとんどが水面上にあり、誰でもそれを手にすることが可能だが
かつてはそうではなかった。
手に入れられる情報量が非常に少なかったということから言えば、以前はほとんどの情報が水面下にあり、水面上の情報はごくわずかだった。

僕たちが眼にすることの出来る情報を水面上に押し上げていたのは、主として情報発信者のやむにやまれぬ情熱と受け手の側の強い欲望であり、
それがその他大勢にとっても情報の価値を担保していた。

今は強いモチーフや、長年の経験や、事実の裏付けなしに情報を発信することが出来る。
水面が限りなく下がってしまったので、見せる方は見せ放題だし見る方も見放題だ。

ほとんど明確な意図を持たない情報が無尽蔵にあるという状態は
まるで僕たちが自分や他人の膨大な無意識の海に浸かっているようなものだ。

かつて情報を見えなくしていたインフラの不備が第一の海とすれば
この膨大な無意識の総体は第二の海に相当する。
そしてこの無意識の海の水面に顔を出してくるものはカオスの波である。
我々は我々自身の無意識の波に揺られて舞台の上に引き上げられたり引きずり降ろされたりする。

僕はトイレの壁のシミを見て考える。僕はこれを欲しなかった。
けれども例えば今僕の書いているこの文章だってトイレのシミでないとも言えない。

どの情報もそれぞれがそれぞれの漠然とした価値を纏いながら揺れている。
僕たちは無意識の海に漂うことをよしとしたのだ。
それが結局僕たちが何となく望んでいることなのだろう。

以上鼻くそのような文章でした(笑)。

2 件のコメント:

  1. こんばんは。
    最近、珍しい探検においでになったみたいですね^^
    先日は暗闇を彷徨ってらしたみたいで洞窟探検かと思いましたが、
    ご自身の鼻腔を掘り進んでらしたとはw

    無意識の海水浴について、「その場所」で意識なさったということは何か象徴的ですね。

    私たち共通の興味の対象である写真は、
    個人の美意識というフィルターを通過して世に送り出された排泄ブツとも言えます。
    初心者の無垢な写真あり、プロ並みのこだわりの写真あり、
    それらが無秩序に漂う海の中で自分が求めているものを見つけるのは到底無理なのではと思ったこともありますが、
    まんざら捨てたものではなく巡りあうということもあるものなのかと。
    漂いながらも兆しは見逃さない、やはり何事も諦めの悪さが肝腎…と思ったりしていますw

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  2. うーん、bouquet-nさんのお人柄に対する印象がますます変化しています。
    最初写真を拝見した時は、ああ汚濁にまみれた僕の生活に一服の爽やかな風を招き入れてくれる、きっと汚れを知らぬ清楚な方に違いない。
    と思っていたら、道頓堀篇でのおちゃめな一面。
    そしてさらに白川静読本の文章で松岡正剛や内田樹を読みこなす人と気付いてはっとしました。こ、この人は!
    そしてまた今日は今日とて、この名うてのつっこみ!
    うーむ、かなりハードコアな方ですね(笑)。

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