2011/03/29

私が私になりにいく。

世の中には仕事が楽しくてしようがないという人もいるけれどやはり仕事というのはつらいものだ。
僕の場合は休みが終わって月曜日が始まるときには潜水で25メートル泳ぎきるために大きく息を吸い込んでから潜り始めるように、意を決しなければ一日を始めることができない。一日が始まれば僕たちは不本意な苦汁を舐めながらひとつづつ波を超えていく。それが単純な仕事であれ複雑な仕事であれ、誰もが自分に担えるだけの荷物を背負いながら生きて行くという意味では、その労苦に軽重はない。それぞれの人が、それぞれの労苦を背負って一日をはじめるのだ。
先日朝眼が覚めて、ああ今日仕事を休めたら幸せだろうなと思いながら布団の中でぼんやりしていたときに、例によって天啓のような言葉がひらめいた。

「私が私になりにいく」

人と会って話をするでもなく家で微睡んでいる私は何者でもない。
人と会って話をすることで初めて「私」というものが立ち上がる。
私は、私になりにいくのだ。

僕はガバっと勢い良く布団をはねのけて顔を洗いに行った。

7 件のコメント:

  1. はい、私もそうです。
    私は「私」という着ぐるみを着ている「何か」であって
    「生」とはそんな着ぐるみを脱いだ存在と着ぐるみ込みの存在の間を右往左往しながら
    どうにかこうにか日常を縫い合わせてゆく織物なのかもしれませんね...
    シンプルにそう思います。この頃、忙しくて写真どころじゃないhiroshipsでした。

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  2. hiroshipsさんありがとうございます。
    >私は「私」という着ぐるみを着ている「何か」であって・・・
    そうですね。僕はさらに着ぐるみこそが私であって、脱げばそこには何も無いのかもしれないと思っています。
    崩帯を解かれた透明人間みたいですね。

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  3. う〜ん、やはりshinさんはひと味違いますね。ゴールドブレンドですね。
    >崩帯を解かれた透明人間みたいですね。
    エッシャーとかメビウスとかクラインの壷とかプラトン立体とか
    人間存在?のノクターンですね、shinさん。

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  4. こんばんは。
    お仕事中のshinさん…、
    実際には拝見していないので具体的には分かりませんが
    ご職業から一般的に想像するに、かなりの緊張感の中にいらっしゃるとお察しします。
    >私が私になりにいく
    なるほど、意気を上げるためには、まさに天啓の言葉だと思います^^

    私は休日のshinさんしか知らなくて
    それは「自分が目指すべき楽しそうなオジサン」というアイコンなのですが
    どうして目指したいのかと言うと、そこに重層的な魅力があるからなのですよね。
    何か背景に重厚なものがあるからこそ、表に見える「楽しさ」の色に深みがあるというか。

    なので休日のshinさんは「何者でもない」というわけではないと思います。
    万年筆で書き耕しているshinさんは言葉を発しなくても、れっきとした御本人です(爆)

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  5. bouquet-nさんありがとうございます。
    多分休日の僕は写真をとったり思いつく言葉をブログにアップすることで
    やっぱりみんなにつながっているんだと思います。
    重層的になれるかどうかはわかりませんが多様で柔軟でありたいな。

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  6. 仕事中の私は演技をしているような気がしてます。
    「私は私じゃない何かになりに行く」感覚です。クライアントと話をしているときもそれは演技で、その演技をどこか楽しんでいます。また、それがいいことなのかに若干疑問を持ってきました。
    そういう意味でもshinさんの「私が私になりにいく」という感覚はとても深く、且つ新鮮で、もしかして自分もそうなのかもしれないと、今、自分を見つめなおしています。

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  7. photosukeさんありがとうございます。
    僕たちは往々にして、オリジナルな自分というものがあらかじめあって、
    その私が環境によって様々に変化させられていると考えがちです。
    だからこういう私のあり方は不本意だとか、本当の私を見失ってしまったとか思ってしまいます。

    でもひょっとしたら「他者との間にしか自分はない」のかもしれない。
    他者とのかかわりの中での変化そのものが私であると。
    photosukeさんの言われるように、演技を楽しめるようになればいいと思います。

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