2012/01/19

主人公探し。

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例えばドーキンスが『利己的な遺伝子』で言うところの「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」という言説に対しても僕は僕なりに落とし前をつけておかなくてはならないのだが、この「何々にすぎない」という言い方がそもそもセンチメンタルなわけで、生命に何を期待していたのか、期待して裏切られたからこそまだ期待しているひとの背中を後ろからバッサリ斬りつけるような言い方もするのだろう。
だが問題は言明がセンチメンタルかどうかよりもむしろ生体と遺伝子の「どちらが主役なのか」を念頭に置いている点にある。

それから話は全然飛ぶけれども例えばヨーロッパの中世には天動説や地動説にまつわる議論というのがあって、地球が不動なのか太陽が不動なのかについてかつて裁判が行われた。
それはつまり地球と太陽のどちらが中心かということについての議論だったわけだが、今や地動説が正しいのは疑う余地は無いけれども、天動説が廃れて地動説が優勢になったのは地球にいる我々が惑星の軌道を計算する上で有利だから地動説が採用されたわけで、地球が動いていなくてその他すべての天体が動いていると仮定してもそれはそれでかまわない。
この宇宙に絶対不動の座標軸というものが仮に存在するとして(そんなものはないのだが)太陽がその絶対不動軸上で固定されているなら名実ともに地動説だが、もちろん太陽も地球も太陽系も天の川銀河も動いているわけで、太陽さえも地球によってその運行に影響が出るように多寡こそあれ星は全て互いに影響しあっている。それで影響の多寡の少ない視点のほうが軌道の近似値を計算しやすいから地動説を採っているわけだろう。

あるいはユダヤ・キリスト教にしても、この世界は神が作ったものなのか神は存在しないのか、そもそもそういう議論が起こってくる事自体が「この世界の主催者は誰か」ということから頭が離れていないことの証左である。
あるいは進化論で生物が多様なのは神がそう作ったからなのか突然変異と適者生存の結果なのかと議論するのがこの多様性という物語の裏で糸を引いているのは誰かというのがテーマだったりする。

我々が現象を説明するために「物語」を導入すると、必然的にそのプロットの主催者は誰なのかという問題が持ち上がってくる。
その物語の主人公は誰なのか。
それは現象にプロットを当てはめようとする行為が必然的に誘導する尋問である。
我々は言語を用いて創造したバーチャルモデルを現象と等価に扱うことで事象を理解する。
いや理解することや解釈することそのものが言語によるバーチャルモデル化であるとも言える。
そしてバーチャルモデルが自動能を獲得するためにはモデルのプロモーターが必要であってそれこそが主人公なのだ。すなわち「理解は主役を欲する」というわけだ。

「理解は主役を欲する」
だが現象は理解に先行し現象に主催者は存在せず、現象は現象だけでそこにある。
この世界に存在するのは現象だけなのだが、それを理解しようとした瞬間に主催者が召喚されるのである。
それがつまり西洋的思考の性(さが)なのだろう。

5 件のコメント:

  1. こんばんは。
    「理解は主役を欲する」というのは実にタイムリーなトピックだと思いました^^
    政治の話が好きなわけじゃないのですが、
    このところの混迷する民主主義の方向性を考えるのは有権者としての義務なのではないかと思ったり。
    大多数が全面的に他人まかせ…というのが、この行き詰まりの原因のひとつなのだと思います。
    でも、何を主軸にすればこの事態が改善するのか分からないのです。
    誰を主催者にすべきなのか。次に間違った選択をすると大変なことになりそうで。
    目の前に並べられた現象を各人が整理して、やはり話し合いなのでしょうか。
    さまざまな主役をシュミレーションして、より良い選択が出来ることを願っています。

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  2. cahier-bさんありがとうございます。

    印欧語は主語を要求する構造になっているので彼らの世界観には必ず主催者がいる。
    彼らは常に主催者は誰なのかを探し求めていて、それが彼らの宗教や科学や思想の基本構造を決定づけている。
    それは西洋文明の宿命的な病気なんだけど、彼らは自分の病気には全く気が付かない。
    そんな気がします。

    >大多数が全面的に他人まかせ・・・
    それはそうだと思うけど間接民主主義というのは自分たちが信任した代表に政治を預けるということだし
    それがそもそも間違っているのかどうか、僕にもよくわからない。

    ただcahier-bさんのコメントを読んでいて湧いてくるイメージは「くじらを誘導する数人の男たち」の図です。
    くじらというのは「共通する問題」のことです。
    昔は人間の数が少なかったし、少ない人間の間で小さな問題を共有していた。

    今は日本人全体、いや世界中の人間が問題を共有しているて、いわば巨大なくじらを共有している。
    そのくじらがどの方向に向かっているのか
    その方向を決めているのは誰なのか
    いやそもそも方向を決めている人間などいるのか
    そしてそのくじらの方向を変えることは可能なのか
    そしてそれをhandleする人間が増えればくじらは向きを変えるのか。

    みんなが考えればいいじゃないかといっても、みんなが考えるという事自体が「くじら」ではないのか。
    だからくじらはマスとしての無数の人間の無意識的の思いの総体として無数のベクトルの、全部の足し算としてゆっくり動いていて
    一部の人間が意識でくじらを誘導しようとしても無理なのではないか。
    じゃあ全く打つ手はないのかということになるけど、おそらく人間は、問題を共有する人数を小さくするしかないのではないか。
    マスメディアではなくスモールメディア。

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  3. 例えば重力という束縛があるからこそ骨格や羽が発達していき,無重力であるならより高度な何かがあるかというとそうでもない.宇宙空間のような何もないところでは動いているのかさえもわからず,仮に広大な格子や壁があればこそ相対的に存在が見えてくる.
    宗教は束縛かもしれないが,地面のような基準なのだと思う.

    一方で生物や遺伝子に浅知恵で意味づけしようとすると,如来の手のひらから逃げられない孫悟空に倣ってしまう.

    でも,最近は素直に思うのだけれど,遺伝子,光より早い素粒子,ブラックホールや宇宙の創世期,3次元以上の時空を理解あるいは観察,想像をできる人類の力あるいは遺伝子の奇跡に素直に感動して恐れ入ってしまう.(あるいは文章や絵画,建築物を創作,感動できることや,あるいは感情そのものが存在するということに感激する.)数百年議論されて陳腐化や曲解しているかもしれないが”Cogito ergo sum” も自分に良いような解釈で満足できるし,現象にすぎないというセンチメンタリズムからも解放されて,”自分の驚きを驚け” という言葉に共感し,全てを言い足りていると思う.

    幼稚な解釈かもしれませんが,感じたことを書かせて頂きました.

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  4. とど2号さんありがとうございます。
    おっしゃることはよくわかります。
    もちろん僕達は考えること、理解することをやめることはできないし
    理解し考えるからこそ人間なんですよね。
    ただ東洋人と比較して西洋人は二元論(あれかこれか)以外のパラダイムを持たないために
    あたりかまわず「思考の暴力」を振り回すきらいがあるような気がします。
    そのことを言いたかったのです。

    ところでとど2号さんは最近D700を手放されたとか。14-24mmズームも?
    とど2号さんの広角の写真のすばらしさに目を奪われて
    きのう韓国製(Samyang)の14ミリをニッキュッパで入手したばかりなのに~。

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  5. お返事ありがとうございます.生意気なコメントですみません.
    あまり難しくは考えていなくて,
    かなり的はずれなんですが,最近...人間は地球を汚している害虫ではなくて,すごい奇跡の存在なんだなあと感動することが多いので,無理やり結びつけてコメントしてしまいました.

    D700&14-24はさようならしました.言い表せないほどに良かったのですが,一応はアウトドア嗜好なので大きすぎでした...星空撮影以外は機能を生かせなかったですし... 買うことはないと思っていたマイクロフォーサーズを買っちゃいました.先ほど家に届いたみたいです.

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