2012/09/30

Self-Portrait In Kyoto

Self-Portrait in Kyoto
Norita66 with Noritar 2/80 FUJICOLOR REALA 100

何なんでしょう、この不思議な立体感と臨在感は。
たぶんフィルムであることとか、6×6の中判であることとか、
それからこのノリタール80mm f2.0という明るいレンズを開放で撮った時の被写界深度の浅さとか
そういったものが複合的に作用して光の濃密のアンバランスや揺らぎのようなものを生み出しているような気がします。

2012/09/29

京都でノリタ

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フィルムで撮った写真はデジタルのときのようにいじくり回そうという気がほとんど起きないのは不思議な事で
シャープネスを上げたり周辺減光したり暗部を持ち上げたりHDRを加えたりしなくても
ただそれだけで十分面白い。
さらにいえば傾き補正すらしようと思わない(笑)わけで、以前の自分には到底考えられない。
不思議な事だ。

2012/09/28

土俵間空間の住人たち

cloudless sky


内田百閒が山陽本線の、新しい特急の処女運転に招待された。
岡山を通過したあたりで新聞記者が乗り込んできて百鬼園先生にインタビューを始める。

「大阪から乗られましたか」
「いや京都から」
「いかがです」
「何が」
「沿線の風景に就いて、感想を話してください」
「景色の感想と云うと、どう云う事を話すのだろう」
「いいとか、悪いとか」
「いいね」
「しかしですね、今、日本は戦争か平和か、国会は解散と云うこう云う際に、
この様な列車を走らせることに就いては、どう思われますか」
「そんな事の関聯(かんれん)で考えたことがないから、解らないね」
「更(あらた)めて考えて見て下さい」
「更めても考えたくない」
「国鉄のサアヴィスに就いては、どうですか」
「サアヴィスとは、どう云う意味で、そんな事を聞くのです」
「車内のサアヴィスです」
「それは君、今日は普通の乗客ではないのだから、いいさ」
「サアヴィスはいいですか。いいと思われますか」
「よくても、いいのが当り前なんだ。よばれて来たお客様なのだから」
「広島へ行かれましたか」
「行った」
「いつです」
「最近は一昨年」
「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話してください」
「僕は感想を持っていない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になったからさ」
「その理由を話して下さい」
「そう云う分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、
あの塔に就いては、一言半句も触れなかった。触れてやるまいと思っているから、触れなかった」
「解りませんな」
「もういいでしょう」
漸く(ようやく)隣席から起ち上がった。
「お忙しい所を済みませんでした」と云って向こうへ行った。
大阪の甘木君が、にやにやしながら、通路に起っている。
「僕はちっとも忙しくなかった。おかしな事を云いますね、甘木さん」
「口癖なんですね、お疲れの所を、と云う可きだったな」
それから広島に着き、又ホームで一騒ぎして、人が出たり這入ったりして、広島を発車した。
ちくま文庫 内田百閒集成1春光山陽特別阿房列車より。


不思議な会話である。
今日最後のESWL(尿管結石の破砕治療)を受ける前に待合室でこの箇所を読んでいて、ちょっと途方に暮れてしまった。
ここでは、一体何が起こっているのだろう。
僕は治療を受けながら、と言ってもただ寝転んでいるだけなのだが、ぼんやりとこの問題について考え続ける。

普通の人なら新聞記者に対してこんな態度はとらないだろう。
質問者の意図を読み取った上で、
肯定するにせよ否定するにせよ時尚を配慮しながら注意深く返答することだろう。
だが彼はそうしない。

それは単に新聞記者という存在が疎ましいというよりも
そもそもまるで、質問の意図が理解できないという様子である。

こちらからすれば新聞記者の意図は明白である。
当然百鬼園先生もその意図は丸見えのはずで、
おそらく彼はそれをわかったうえでしらばっくれている。
そして「あなたは何を聞きたいのか、さっぱりわかりませんな」という阿呆を演じているわけだが
記者にはその裏が読めない。
なぜ記者に裏が読めないのか、それこそが百鬼園先生の疑問であり苛立ちであって、
そして苛立っているからこそ彼の返答は更に無愛想だ。

なぜ百鬼園先生は記者の質問に答えようとしないのか。
それを考えるヒントはこの会話の中に見える。

「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話してください」
「僕は感想を持っていない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になったからさ」
「その理由を話して下さい」
「そう云う分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、
あの塔に就いては、一言半句も触れなかった。触れてやるまいと思っているから、触れなかった」

触れてやるまいと思っているから・・・。
それはつまり原爆ドームが、彼にある特定の、人として当然抱くはずの感想を
強く要求してくるのを感じたからだろう。

それはまるで強引に土俵に入るように仕向けられて、
一旦土俵に入ってしまったら相撲を取らされてしまうのを彼が嫌ったからとも読める。

こういった、強引に土俵入りを促すものに対して頑固に拒否するという彼の態度は一貫している。
ソフトバンクのCFに出てくるトミー・リー・ジョーンズ演ずる宇宙人のように
地球上に無数に存在する土俵の、その外側から土俵のなかの不思議な光景を眺めるというのが彼の基本的なスタンスなのだろう。

内田百閒は土俵間空間の住人である。
そう考えると、すっきりする。
ここには阿呆や死者たちが跳梁跋扈していて、彼はそういった異人たちと親しい関係にある。

村上春樹は今日の朝日新聞への投稿で、先ほどの僕の言葉に翻訳すると我々は土俵間空間での対話を続けるべきであって、お互い自分の土俵の中に相手を引きずりこもうとするべきではないと述べている。
それは本当に正しいことを言っているのだが、対話の相手が土俵の外に出ないことを決意していてしかも土俵間空間をすべて自分の土俵の中に取り込むことで土俵間空間がなくなってしまうかもしれない場合に彼はどこに立っていられるのだろうか。
我々は最終的に土俵を確保することを通じてしか、土俵間空間を維持できないのではないだろうか。
また更に言えば僕個人はこういった土俵間空間からの視点を愛する方に属するけれども、かつて村上春樹が育てた、土俵間の住人を個人的に内面から支える「土俵間住人の倫理」といったものを明らかに強大な土俵に属する朝日新聞というメディア内で発表するというのはどうなんだろうか。








2012/09/27

根っこのある知恵

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先日テレビを観ていてNHKの『鶴瓶の家族に乾杯』にゲスト出演していた草刈民代さんの姿勢の良さに感心した。
勿論美人だけど、それ以前に立ち姿が美しい。
ひとは姿勢ひとつであんなに美しくなれるもんなんだなと感心する。
あのような、まるで頭のてっぺんからひもで宙空に吊り上げられているような姿勢は
好ましい姿勢と知っていても実践できるのはいっときだけで長続きしないものだが
知識が美しい感動と組になるとそれは長く息づく知恵になる。
世の中には「~がうまくいくためのたった10個の方法」みたいな
葉っぱみたいな知識があって、葉っぱはすぐに枯葉になって飛んでいってしまうが
根っこのある知恵はそのひとの生涯に付き添うささやかな伴侶になったりする。

2012/09/22

秋分

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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2012/09/21

9月21日

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Nikon D800E with AF Micro-NIKKOR 200mm f4D IF-ED
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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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2012/09/20

般若心経の電脳的解釈


これくふて茶飲め
仙厓画「これくふて茶のめ」




観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、
ブッダが深く思索を重ねた結果

照見五蘊皆空、度一切苦厄。
人間の身体も脳も脳の働きもすべてバーチャルだと気が付いて、すべての苦しみや行き詰まりをコントロール下に置くことができた。(そしてこのように言った)

舎利子。色不異空、空不異色、
(しみじみと)なあ舎利子くん。僕らの感じていることに嘘はないと僕は思っていたし、根拠のない妄想は到底現実ではないと思っていたんだ。

色即是空、空即是色。
でも驚いたことに僕らの感じていることは全てバーチャルだったんだ。そしてバーチャルこそが僕らの現実だったんだよ。

受想行識亦復如是。
僕らを取り巻く世界やそこから僕らが感じたり考えたりすることすべてが、実はバーチャルだったなんて信じられるかい?

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、
舎利子くん。僕らが日々感じている、世界を動かしている見えない力みたいなものもやっぱりバーチャルで、
生まれたとか死んだとか、きれいとか汚いとか、増えたとか減ったとか、そういったすべては結局僕らの脳が生み出したものだったんだ。

無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も、そしてそれらの総体から生まれるイメージも、全部バーチャル空間での出来事だ。

無眼界乃至無意識界。
つまり感覚受容器からインプットされる情報の総体としてのイメージ空間は脳内仮想現実ということだ。

無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽。
悩みというものは確かに存在するが、それは脳が作りだしたものにすぎない。
老化現象や死もまた確かに存在するが、それもまた脳の中だけにあるのであってリアルではない。

無苦集滅道。
苦しみやその原因である煩悩やそこからの悟りや悟りへ至る方法などを僕はずっと追い求めてきたが無駄だった。

無智亦無得以無所得故。
そもそも知識を得ることでこの問題が解決すると思っていたのが間違いだったんだ。

菩提薩埵依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
以上がブッダが言ったことだ。
ブッダのこのバーチャルリアリティ認識を理解すれば思考はより自由になり、
思考が自由になることで恐怖や本末転倒な考えから自由になれる。

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
過去現在未来を問わず、このことに気がついたものは真の自由を得てきたし今後も得ていくだろう。

故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
そういうわけでこれがもう究極のこの世界の認識形態であって、ここに一切の苦しみは終わり一切の偽りも終わる。

故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、
こういったことを忘れないように呪文にしておいたので
これを唱えるたびに思い出すようにしよう。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経
ギャテイギャテイハラギャテイハラソウギャテイボジソワカハンニャシンギョウ



「般若心経」というのはブッダの「バーチャルリアリティ宣言」みたいなものだ。
いま僕らのまわりにはテレビや映画やゲームなどのバーチャルリアリティがあふれているので
仮想現実という言葉が意味するものをイメージすることは難しくない時代になったけど
ブッダの時代に彼が「バーチャル」というイメージを獲得できたことは驚くべきことだ。

そしてこういったバーチャルリアリティという言葉をを容易にイメージできる今の日本だからこそ
彼の言いたかったことを理解できる素地は充分できていると思う。
それで僕みたいな門外漢が解釈するなんておこがましいが
僕なりに般若心経を電脳的に解釈してみた。

問題は空の取り扱いなんだろう。
僕らが生きている世界は「無」だと言われても、
目の前にあるパンはないって言うなら君は食べなくてもいいよ、僕が食べるまでだし。

つまり「ない」のではなくてありかたの問題だと。
実際それはあるんだけど脳内バーチャルリアリティとして存在している。

だから例えばパンがないことに絶望して自殺するというのは
パンがないという仮想空間で行き詰まっているという事態に対してパソコンの電源を切ってしまうという、ちゃぶ台返しみたいな行動に出ているわけでそれは本末転倒じゃないかと。
パンしか見えないパンデフォルト空間からスパゲッティデフォルト空間に移動すれば、実はパンの横にスパゲッティがあることに気が付いてスパゲッティが食べられるかもしれない。

人間は自分の住む仮想空間を絶対視してしまうためにやすやすと絶望してやすやすと電源を切ってしまう傾向がある。
だから悲しむなとはいわない。悲しみ続けるなと。怒るなとはいわない。怒り続けるなと。
電源は切ってもいいけど、切らなくてもいい。

なおこの般若心経の電脳的解釈にあたっては
リービ英雄氏の般若心経英訳やネット上での様々な仏教解説などを参考にさせていただきましたが
これは学術的論考ではなく一個人の奔放な解釈であり、語義理解の間違いは全て私個人に帰するものです。

追記
仏教における中道とは
わざわざ道の端に行くな、道の真中にいれば良いという意味ではなく
人間というのはほっとくと必ず「あれかこれか」という極へ行きたがるが
そのどちらにも行かず「宙ぶらりん」でいることが重要であると。
その、宙ぶらりんで揺らいでいる状態を維持することがいかに難しいか。

2012/09/18

2012/09/17

写真のレーゾン・デートル

写真にはさまざまな存在様式があって
たったひとりで立つことが出来る写真もあれば
写真立てのほうに意味がある写真というのもある。

例えば昨日の最後の、まだ開店していない銭湯の入口の写真などは
1枚の写真としてみた時、何の訴えかける力もない写真だが
僕がこの写真を撮った時の気持ちを文章として添えると
僕の心の震えが見る人に伝わって、まるで同じ体験をしたような、それは特別な一枚になる。
その時写真は、写真を見た人と僕の間に架かる橋になる。

Noritaで撮っている時撮りながら思っていたのは
これは僕にしか意味のない写真で、1枚の写真として立たない写真ばかり撮っているという確信だった。
でも僕にはそれを撮る必要があったし、撮る必要があるならそれは写真の存在意義として充分すぎるほど充分なのであって
おそらくそれは写真というものがこの世界に召喚された最も古くて正統な動機なのだろう。

2012/09/16

センチメンタルな旅

センチメンタルな旅
Ricoh GRD4
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センチメンタルな旅
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センチメンタルな旅
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京都御所でフィルムを装填する。久しぶりに使うノリタ君。













センチメンタルな旅
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学生食堂のテーブル。32年前に私はまさにこのテーブルで食べていたのだ。
当時はこの狭い店の中を犬や猫が我が物顔に歩き回っていたものだ。今はいないが。
あの当時の未来の見えない漆黒のそして後戻りのできない3年目の浪人生活を送っていた私が
32年後にここにこうして戻ってくるとは思いもよらなかっただろう。
ここで暗い顔をしてぼそぼそ食事をしていた過去の私にむかって私は語りかける。
大丈夫だ。信じないかもしれないが、おまえは何とかなっているよ。









センチメンタルな旅
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カレーを食べる。実にまずい。まずいがうまい。














センチメンタルな旅
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当時同じアパートに住んでいた友人の、ペダルが一つしかない自転車「猛勉号」に乗って通った銭湯はまだあった。
そういう、センチメンタルな旅をノリタで6本、72枚撮った。
帰宅後さっそくプリネットワンに送る。
今日はそのデジタル編。

2012/09/14

9月14日

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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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PHOTO YODOBASHIを楽しみにしているひとは多いと思うけど
御多分にもれず僕もその一人です。
撮る意欲が極度に低下している時なんかにこのサイトを見ると
写真を撮るという行為のもたらすワクワク感が伝わってきて
もりもりモチベーションがあがってきます。
このところずっと更新がなくてやきもきしていましたが
ようやく新しいレポートが追加されました。







Untitled
Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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新しく紹介されていたのはLeica M MonochromとDP1 MerrillとDP2 Merrill。
写真と文章はKさん。
記事と写真を見ているうちに抑えがたいほどの写欲が湧いてきて
夕方にもかかわらずゲリラ豪雨の止んだ外にD800Eを持って出かけました。










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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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レンズはいつものマイクロニッコール55ミリ。













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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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雨に濡れたナンキンハゼの上の小さなキリギリス。













Untitled
Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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いつも写真を撮る楽しさを伝えてくれて感謝しています。

2012/09/12

Gigi

this boy
Olympus E-P2 with Kern Macro-Switar 26mm f1.1
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Gigi
Olympus E-P2 with Kern Macro-Switar 26mm f1.1

1秒光年の孤独

Untitled

家人が寝静まった夜ひとりでソファに寝そべって天井を見ていると
青臭い感傷に見舞われることもある半世紀も生きたというのに
やがて私は跡形もなく消え去って世界は営みを続けるなんて

私は自分のお話を生きている
さいころを積む営みのように
昨日は8個だが今日は12個積めたとか5個しか積めなかったとか
そんな物語

そして例えば頭の中の小さな動脈瘤が破れるように
私の知りえない物語が突然私の物語を抹消するまで
羽化することのないカイコのようにまゆの中で乾いていく

わが墓いつか苔むして
文字さだかにも読めぬ日は
誰か知るべき君とわれ
住みてこの世に逢ひしことを(独歩)

おおい、でもこんなひともいるぞと
明日のことがわかったり動物と会話ができたり
自分の中と外の物語が繋がっているひともいるのだと

2012/09/07

9月7日

Untitled
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF with Kenko Extention tube
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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mandible, wild boar.
Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Untitled
Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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暦(こよみ)の上では白露。
草の上のつゆが白く濁って見えることから、夏から秋への移り変わりの目印としたそうです。
二回目の今日で尿管結石の治療も終わりかと思いましたがまだまだ先は長そうです。

2012/09/06

夕立ちのあとで

夕立の後
Ricoh GRD4
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夕立の後
Ricoh GRD4
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9月6日

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COLOR-ULTRON 1.8/50
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まだまだ写真を撮りに行けそうにありません。
2年前の9月の写真でご機嫌を伺います。














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COLOR-ULTRON 1.8/50
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COLOR-ULTRON 1.8/50
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2012/09/02

謹慎中

Untitled

体調不良で自宅謹慎中です。
使用頻度が少なくてペン先が固まっていた万年筆に再びインクを満たす。













MontBlanc 149BB with Seiboku, Pelikan M800 Italic Writing with Miruai

ノートはダイソーの100円モレスキン。














Pelikan M800 Italic Writing with Miruai

Pelikan M800 Italic Writingに海松藍を入れて書く。
墨で書いたような筆跡が気に入っています。













MontBlanc 149BB

青墨で汚れたMontBlanc 149BBのペン先。














my ureter stone

今治療中の尿管結石です。
内視鏡検査中に立っていられないほどの痛みに襲われ
飛び入りで撮らせてもらったCT。きれいに石が写っています。
院内で発症すると診断が速い(笑)。











before ESWL

2日後にESWL(結石を超音波で破砕する治療)を受けました。
治療前のレントゲンでも明らかに石が写っています。(画面中央の黒っぽい楕円形。9×8mm)













after ESWL

破砕後のレントゲン。粉々に砕けてわかりにくくなっています。
帰りにトイレへ行ったらトマトジュースのような血尿が出ました。













尿管結石でダウン。

まだ時々痛みが来るので坐薬は離せません。
来週また治療予定です。

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