2013/06/01

「原罪」なんか怖くない

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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

恐ろしいものは「地震・カミナリ・火事・オヤジ」、オヤジは絶滅危惧種だがその他は文字通り畏怖すべきもので、コミュニケーションの埒外にあるもの、その制御不能性、交渉不能性こそが、我々が自然界に感じる畏怖と神性の根幹である。

世界の大きな地震の2割が集中する日本。その地震による津波で営々と築いた家族と地域の歴史は更地となり石で家を作ると地震で下敷きになるからせっせと木の軽い家を立てても瞬く間に火事で燃えてしまう。台風の通り道にあるので、精魂込めて育てた収穫目前の稲が一夜で駄目になる。
水に流してチャラにして、またほがらかにイチからやり直す。
つまり日本に生きるということは制御不能、交渉不能の運命を甘受しながら生きるということで、我々は祈りはするが見返りは求めず恨みっこなしである。

それに対し自然は征服すべきもの、コオロギの声が雑音にしか聞こえない西洋人にとって
神性は自然界にはなく、むしろ怖いオヤジ系の人格神である。
怖いといっても西洋の神とヒトとの間にはちゃんと人格という連絡橋があって、そこに契約や義務や恩義といった交渉が存在する。
しかし交渉可能ならなぜ従わなければならないのかという当然出来(しゅつらい)する疑問に対し、乗り越えることの出来ない折り込み済みのハンデとして召喚される概念こそが「原罪」というもので、あんたは生まれた時から神に借金しているのだから彼に従うべきであり、返済を猶予してもらっているのだから感謝すべきだという理屈が成り立つ。
彼らが恐れているのは神ではなくて契約違反なのだろう。

人格神は原罪を要請する。
交渉不能性こそが神性である我々日本人にとって「原罪」という概念は永遠に理解不能だろう。







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