2013/06/30

6月30日

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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55















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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55















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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55















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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55















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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55















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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

2013/06/28

写真は誰のものか(改訂改訂また改訂)

reflection

内田樹氏が2005年に京大で映画論の集中講義をしたときに「バルトが「作者の死」を宣言してから20年以上経つのに未だに常識に登録されないのは作者の抵抗が強いからかもしれない」と述べている。

世間に流布している「作品」のほとんどに著者名や製作者名が記載されているのに、いきなり「作者はいない」と言われてもなかなか納得しにくい話だが、延々と続くエンドロールを見れば、映画ひとつ作るのにどれほど多くの人が関わっているかがわかる。
たとえそれが小説のようにたった一人で夜中にコリコリ書き上げるものであっても作者は連綿と続いてきた人類の暗い無意識の盛り上がりが水面に顔を出す際の窓枠のような役割しか担っていないのではないかと思えばその帰属を一個人に寄すべきものでもないように思う。

それについては例えば以前伊丹十三が「女たちよ!」の冒頭に自分の持っている知識はすべてこれまで自分が関わった多くの人たちからの贈り物であり、私自身はただの空っぽの入れ物にすぎないと書いていたことや、The Beatlesが自分たちの人生に影響を与えた多くの人物をサージェント・ペパーのジャケット写真に載せていたことを思い出す。

オーサーシップの否定というのはつまり我々の創作物は自分の力だけで作り上げたものではないということで、それを制作した私自身さえも私の創造物ではなく人類という網の目のなかの一つの結節点のようなもので、その結ぼれが世界や過去からの波動を受けて振動しているその振動が私だけのものだと踏ん張ってみたところで踏ん張る足もただ虚しく宙を蹴るだけだろう。

それ自身が持つ固有の浮力でネットワーク上をどこまでも運ばれていく作品というものがある。
誰のものともしれない写真が、その写真自身の浮力で空間と時間の中を漂っていくというのは人間の営為の存続の仕方として好ましい形態の一つではないだろうか。

しかしその一方で「名前」によって世界のネットワークに繋がっている作品がある。
我々のこの世界では「名前」と「値札」を付けないと社会のネットワークに乗らないという特性も厳然として存在する。




これは2007年にジョシュア・ベルという有名なバイオリニストがワシントンの地下鉄の駅で黙ってバッハを弾いたときのビデオで、1000人もの通行人のうち足を止めて音楽に聞き入ったのはほんの数人だったようだ。(皮肉なことにその2日前に彼がボストンで催したコンサートは一枚100ドルのチケットも売り切れだったそうである)
しかしもしここに彼の名前や「五億円のバイオリンで弾いています」という掲示があったら駅の構内は大変な騒ぎになっていただろう。

我々の世界で何かが流通するためには「名前」と「値札」が必要なのだろう。
価値を証明してくれる但し書きが必要なだけではなく、そもそも流通というネットワークが名前と値札で織り上げられているとしたら作者がなかなか死ねないのも当然かもしれない。



6月28日

revised

2013/06/26

6月26日

SDIM1221
Sigma DP3 Merrill

この家に越してきてもうすぐ二十年になる。
普通は十年で壁の塗替えをするらしいが、外壁が傷んできて
先日は強風の日にスレートの屋根瓦が庭に落ちているのを家人が見つけたこともあって
ようやく壁と屋根の塗替えをした。
業者が家の周囲に足場を組むので
夜は不用心だからと家人が窓の鍵に鈴を付けたのが
作業も終わって足場も取り払われた今も残っている。
雨模様の夕暮れの窓越しのぼんやりした光のなかで所在なげにぶら下がっている鈴がかわいらしい。

2013/06/24

6月24日

SDIM1061 monochrome

写真を撮りに行く時間がないので最近撮ったホタルブクロをFlickrの無料レタッチソフトAviaryでモノクロームに。
基本的にシグネチャーは入れないんですがお遊びで入れてみました。
もうあと一週間で7月か。早いなぁ。

2013/06/21

腹を括れとそれが言う

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1976年のロッキード事件で黒幕の小佐野賢治氏が「記憶にございません」という答弁を国会で繰り返した時に、当事者の事情は別として「なりふり構わずしらを切る」というスタイルが我々日本人の中に生まれた。
そういうことは以前にはなかったという印象が強いのは「いったいそんな厚顔無恥な弁明がまかり通ってよいものか」と驚き呆れた世間の空気を当時の僕もリアルに感じていたからだが、それからあっという間にこの手の開き直りは一世を風靡した。
以後は不祥事が発覚しても責任を取らずに居座ったり平気で嘘をつくといった風潮は地歩を固めて現在に至る。

以前であればこのような態度は女々しいとか男らしくないとか言われて忌避されたものだ。
それはつまり女性は産み育てるという役割があって建前はともかくいかに生きながらえるかという存在論的な任務を担っているのに対し、男性の存在様式は極めて機能本位であり、役割を終えてのちいかにきれいに去るかが我が国で歴史的に尊重されてきたことと無縁ではないだろう。
良き道具であること、捨て石であること、きれいに散(ち)ること、潔いこと、去り際にグズグズすれば帰属集団に迷惑をかけるという危惧は男性自らの機能性というアイデンティティと表裏一体の美学だった。

しかしおそらくこういった信憑は我が国が初めて経験した敗戦・占領という事態の中で打ち砕かれ、やむなく男性は女性性という自我を纏うこととなる。
つまり「切腹せずに生き残ることを本意とする」わけである。
小佐野氏の答弁は、当時の我々が無意識的に採用していた女性原理を意識の表層に浮かび上がらせ遍く市民権を得るという重要な役割を担っていたのかもしれない。

それから約40年が経過し「清廉さ」「謙虚さ」「誠実さ」など1976年以降に我々が失ったものは少なくないが、それにもまして残念なのは「観念する」とか「腹を括る」という気構えをやはりもはや誰も口にしなくなったことである。
それは今のような社会では最も切実に希求されてしかるべき態度だと僕は思う。

2013/06/17

苦い蜜と甘い蜜

crab

誰でも風邪をひくが、風邪をひきつづけるのは難しい。
ある状態が生体内で続くためには、例えそれが病的なものであっても存続するための「経済」が成立する必要がある。
それがいずれ宿主の命を奪うとしても、ただ奪うだけでは中長期的な存続は出来ない。

経済とはすなわち宿主との交易関係である。
疾病利得という言葉があるが、慢性疾患において疾病はその宿主と何らかの交易関係にある。
医療の現場では、患者が疾病を「離したがらない」ために結果的に難治になるという事例が発生する。
だから適切な治療を行なっているにもかかわらず病態が好転しない場合は患者と疾病が裏で結託していないか疑ってみる必要がある。
ただしすべての慢性疾患がそうではない。
治療者はあらゆることを疑うがこの結託もその一つにすぎない。

ではその疑いが濃厚な場合治療者はどのように対応すべきか。
患者と疾病がこのような強固な関係を持ってしまった場合、患者を無理やり疾病から引き離そうとしても上手くいかない。
治療者はまず患者が「結果的に」どのような利得を得ているかを知らなければならない。
結果的にという言葉を括弧付きにしたのは、患者自身はこの交易の存在を全く知らないからである。
あなたは疾病から利益を得ていると告げても患者の反感を買うだけである。

治療者は裏取引に気がついてもすぐには手を付けず、一般的な治療を行いながらチャンスを伺う。
必要な検査を行い、適切な治療を行なっているにもかかわらず進展がない状態が続くと
やがて患者と治療者は広い太平洋の真ん中で運悪く無風のヨットに乗り合わせたような面持ちで顔を見合わせる時がやってくる。
空は青く、見渡す限りどこまでも広い大海原の真ん中でヨットはピタリと動かない。
運が良ければそのとき患者はみずから結ぼれを解くだろう。
あるいはまだ患者は交易を手放す時期ではないかもしれない。
その場合患者が得ている利得を疾病以外の方法で患者自身が手に入れるかもしくは治療者側が提供出来れば疾病は疾病で在り続ける必要がなくなり宿主を去るだろう。

さて、疾病と似たものに「愚かさ」がある。
ひとは誰でも愚かだが、愚かで在り続けるためには頑固でなければならない。
ではなぜひとは頑固なのか。その固着も、結局宿主が愚かさから得ている利得に原因があるのだが、愚かさの甘い蜜は「責任回避」にあると思うのだがどうだろうか。






2013/06/16

笹百合

笹百合
















沢蟹
















テイカカズラ
















テイカカズラ
















snail
















snail
















笹百合

今日もDP3Mでマクロ。結果的に「造形」がテーマでした。
すっかり夏ですね。

2013/06/15

6月15日

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SDIM0988
















SDIM1000
















SDIM1016
















SDIM1061
















SDIM1029
















SDIM1035
















SDIM1043
















SDIM1050
















SDIM1054

今日の写真はすべてDP3です。

2013/06/14

6月14日

R0012367

4年前にセーラーのキングプロフィットを買ってからあれこれ万年筆やインクに手を出してみた。
それで使えば使うほど使用頻度の高いペンに収斂していくのは不思議だが当然でもあって
それは結局モンブランでありペリカンという王道的定番だったりする。
いろいろ試してみなければ納得できなかったわけだから仕方がないにしても
値段が高くても評価の高いものには生き残ってきただけの理由があるわけで
それが結論だったりもする。
インクも僕のテーマカラーにすることに決めてどちらのペンにも海松藍を入れた。
上の写真は中屋ライターにセーラーの極黒を入れて書いたもの。
中屋ライターも極黒も、どちらもどうにも使いあぐねていたが
使いあぐねたもの同士を組み合わせてみたら面白い結果が出た。
まるで筆と墨で書いている感じがする。

2013/06/09

共鳴するトーン

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「昭和三十六年に開催されたその「美の美」展で、佐野乾山が初めて世間にお目見えしたのです。
いまでも忘れられないのですが、第一線の陶磁学者である林家晴三さんが、作品のキャプションに「乾山の深い詩情の世界に、深く深く魅せられてしまった」という賛辞を書かれていました。
しかし私はそれを一瞥して、真贋は別としてなんて騒々しい乾山なのだろうかと思いました。
乾山はああいうものではない。もっと華やかでありながら、その後には、なにか枯淡の精神が流れているように思っていたからです。」
『「ニセモノ師たち」中島誠之助著 講談社』からの引用。

僕はテレビのなんでも鑑定団が好きでよく観ます。
鑑定団の面々が持ち込まれた物品の真贋を説明をするときの言辞に僕は興味がある。
例えばそれが書画なら描かれた題材、筆の勢いやタッチ、銘や押印。
陶磁器なら形や色合い、大きさや肌触り、使われている土の性質、高台の造りなど、それまでに見つかっている名作との比較で理屈に合わない所がないかをチェックする。
こういう科学的アプローチは真贋を客観的に判定する手法として最も説得力のあるところです。
そのような説明のなかにそれこそ聞き手に強い印象を残すものがあって、それが冒頭にも引用した中島誠之助氏の抱く第一印象についての言明です。

予め断っておきますが、僕は帰納法的アプローチのほうがより精確だとか、印象による評価抜きにして真贋は語れないとかいう議論をしたいのではありません。
印象とひとことで言っても文字通り無数の修羅場をくぐってきた中島氏のような超一流の鑑定士だからこそ意味を持つわけで、我々のような素人の遊び半分の印象とは訳が違う。

ではなぜ素人である僕がこのあたりのことに興味が有るのか。
引用したのはニセモノにまつわる本ですが、僕に興味が有るのはニセモノのニセモノ性ではなくて、何をもって本物というのか、あるいは本物とは何か。

工業製品ならすべての製品は細部に至るまで同一です。
しかし作者の中には「揺れ」がある。
だから作品にはその「揺れ」の反映として色や形や取り上げる題材などが前作と全く同じではありえない。
だから鑑定士は作品を構成する個々のファクターについて同じかどうかを見ているのではなくて、その揺れが許容範囲かどうかを見ているのでしょう。
しかし作者によって揺れの振幅が違うわけです。
振幅の小さい作者は工業製品に近くなるので判定が容易ですが振幅の大きな作者は判定が難しい。
そこにこの帰納法的アプローチの限界がありそうです。

しかし作者が同一である以上取り上げる素材が変わってもテーマは殆ど変わらない。
テーマが変わらないとどうなるかというと作品の発するトーンが同じになる。
で、実はこのトーンというのが馬鹿にならない。
例えば音叉のA音は440Hzですが、別の音叉の固有振動数が441Hzでわずかに違ってもこの二つの音叉は共鳴しないのですね。
鑑定士は作者のテーマが発するトーンを肉体的な共鳴として自らの内にあらかじめ持っている。
それはかつて作品を観た時に感じた内なる振動であり(ひとはそれを感動という)、必要なときにすぐに内面に再現できるわけです。「ああ、あのとき観た乾山は本当に素晴らしかった」。
そしてそのトーンと目の前の物品が共鳴するかどうかで非常に精確に真贋を判断できるということになります。
これは仮定ですよ。そう仮定すればひと目で真贋を見抜く彼らの根拠をうまく説明できるという。

しかしこの仮定があながち出鱈目でないと思われるのは前述の引用文のしばらくあとに更にこんな記述があるからです。
「むろん骨董界のほとんどの人たちは、佐野乾山が「腹に入らない」(納得がいかない)ということで取り扱う人は少なかったようですが。」同引用。

腹に入らない、面白い表現です。腹にひびくという言葉もあるように、ひとは大切なものかどうかの判定にその多くを(理性ではなく)身体のひびきや反応で感知しているように思われます。
そしておそらくそれは非常に精確なのです。



2013/06/08

しもつけ六月

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF















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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF

白いシモツケをアングルファインダーで下から撮りました。













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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

下野と書いてシモツケと読みます。
その謂れについてはこちらをごらん下さい。なんともう5年も前の記事。
その時は秋で、赤いシモツケをDP1で撮っていました。











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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF















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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF















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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF

西271度です。いや別に意味はありません。













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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

2013/06/06

あなたが思うよりずっと

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晩春夕刻

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18:10:51

春の夕方は昏さの中にとろんとした光のやわらかさを感じます。













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マクロプラナーはこういうとろみのあるやわらかさを表現するのにぴったりのレンズです。













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今日の写真はすべて50mmのマクロプラナーで撮っています。














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18:27:11















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18:28:18

minoltaSTF135mmの背景が磨りガラス様とすれば
マクロプラナーはうるんだ涙越しの世界。
どちらもとろとろ系ですがとろとろ感が違います。










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18:31:02

50mmと100mmのマクロプラナーを取っ替え引っ替えしながら
写真散歩することをちょっと夢見ています。