2015/10/31

berries


berries
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2

ファインダーの合焦がそのまま撮像の合焦になることに感動と感謝です。







2015/10/30

修理完了


R0016079a

ピント問題の最終報です。
「規格内であり特に問題ありませんでした」という返事で東京から送り返されてきてガッカリ。
もうニコンは止めてソニーに乗り換えようかとも考えたのですが念のためニコン大阪サービスセンターに電話。
「多少前ピンになっても構わないから何とか調整してもらえませんか」
「わかりました。やれるだけやってみます」
それでD800Eとアポゾナーと1cm後ピンになっている写真を同封して発送。

5日後に電話がかかってきた。
「かなり追い込めました。もうこれ以上は無理だと思います」
「助かります」
で、今日そのD800Eとアポゾナーが厳重に梱包されて帰ってきた。
さっそくテストしてみたらほぼ完治。
どうも今回はニコン大阪サービスセンターで修理されたような気がする。
保証期間を過ぎているのに何と無料。
対応して下さったNさん、ありがとうございました。









2015/10/27

路傍


autumn scene
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2

D800Eは2回めのニコン行きから戻ってきていません。
これは今月初めにどんぐりの表面にピントが合わなくて何枚も撮り直したもののうちの一枚。










2015/10/25

キリスト教のシンボルはなぜ十字架か


6年前に抱いた疑問に対する自分なりの答えとして、以下覚書的に。

アイデンティティというのはたぶんバーチャルな心的世界における私という駒の輪郭のことだろう。
我々日本人にとってはその駒の輪郭というのは駒の内側から紡ぎ出されてくるものではなくて、他の駒との関係性という糸で紡ぎあげられた繭のようなもので、その繭の中で命が拍動している。

西欧人のアイデンティティはエゴ・アイデンティティ(自我同一性)といって、自分という駒の輪郭は明確であり、その駒は操作可能であり、その上部構造であるスーパーエゴがその駒を操作している。かつてスーパーエゴは神であったが、印欧語を採用した西欧人は主語すなわち「私」がスーパーエゴの権利を獲得する。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書第1章)

神を追い出して「私」がスーパーエゴになる。
これは神に対する明らかな謀反なので、西欧人は反逆罪という罪を負うことになる。これがおそらく「原罪」。
彼らが神に許しを請い、神と再契約するためには誰かが生け贄になる必要があった。それがキリストであり、彼が生け贄になることで生まれた再契約、それが新約だ。
キリスト教のシンボルが十字架、すなわちキリストの磔(はりつけ)であるのは、生け贄を神に差し出したことで得た権利(「私」がバーチャル世界の主人であるという権利)を神から買い取った、言わば「証文」としての意味があるからだと思われる。
キリスト教の聖典は新約聖書だが、「新約」は英語ではNew Testament。
Testamentとは証左、あかし。すなわち新約聖書とは神と取り交わした新しい契約書のことである。
(聖典が知恵の言葉というより「契約書」という商取引的な性質を帯びていることに我々はもっと意識的であるべきかもしれない)

悪魔に取り憑かれたひとに向かって神父が十字架をかざすという西欧のホラー映画でよくみられる行為は、おそらく魔除けのまじない的な意味もあるだろうが、その魔除けの効力の根拠として「私は生け贄を捧げて神からバーチャル世界の主人公たる権利を獲得した正統の主人である。おまえはその権利を有していないから去れ」というジェスチャーと解釈することも出来る。悪魔とは「私」に代わってバーチャル世界を支配しようとするもの、スーパーエゴである言語理性の外の世界の住人、無意識や情動など、脳の旧皮質の欲動と関係があるかもしれない。

我々日本人は主語を明らかにしない言語(日本語)を採用しているので、神との間でスーパーエゴを取り合いすることがない。
またそれ以前に我々のエゴは関係性によって構築されており、スーパーエゴによる操作ができず、むしろ操作不能性こそが我々のアイデンティティの特質であったりする。
我々日本人は神に反逆したことがないので原罪がない。原罪がないから生け贄もいらない。
だから我々日本人にとって生け贄をシンボル化した十字架というのは、結局ファッションアイテムの域を出ない。

今僕は新潮文庫の「こころの最終講義」を読んでいるんだけど、そのなかに「隠れキリシタン神話の変容過程」という章がある。
著者の河合隼雄氏が興味を持ったのは、日本人がキリスト教を受け入れるためにどのような加工を新約聖書に施したかということ。これが大変興味深い。
要点は二つある。ひとつは日本版新約聖書では原罪という概念がすっぽり抜け落ちているという点。さらにキリストがはりつけになった理由が人間一般の贖罪のためではなく、救世主を嫌ったヘロデ王による赤ん坊の大量虐殺の贖罪に変化しているという点。つまり我々日本人には、キリスト教の根本教義である「原罪」と「その贖罪としての磔刑」というお話をそのまま受け入れることがやはり大変難しかったということがわかる。

現代の日本人にとってキリスト教が受容可能かどうかということになると、その根本教義である原罪とキリストによる贖罪を抜きにして救いは可能かという問題に至る。
おそらくそれは西洋的自我を獲得した現代の日本人が、強くなったスーパーエゴでバーチャル世界を支配しようとして他者との軋轢に苦しんだ末に、スーパーエゴの独裁という事態を、キリストの磔刑に託して開放されるという形で可能なのではないか。それはかつて八木誠一氏が「キリスト教は信じうるか」(講談社現代新書)(p58)で述べておられた経験のことだ。
つまりキリストの贖罪によって「私」がスーパーエゴの座に就く権利を得るのではなく、彼の贖罪を通じて(彼の贖罪をみずからのスーパーエゴの抹殺ととらえ)スーパーエゴの座に就こうとする「私」を開放するということだ。



2015/10/21

Ansel Adams 20の言葉


ネットで拾ったアンセル・アダムスの言葉を訳してみました。。
ちなみに僕が最も好きな言葉は16番です。


1. "The single most important component of a camera is the twelve inches behind it."
カメラの最も重要なパーツはカメラの後方30cmにある(上の写真参照)。

2. "You don’t take a photograph, you make it."
写真は撮るものではなく、創りだすものだ。

3. "There are always two people in every picture: the photographer and the viewer."
(あなたの写真にはいつも人が写っていませんねと文句をつける人に対して)
「ちゃんと二人いるじゃないか。撮った人と見る人が」

4. "To photograph truthfully and effectively is to see beneath the surfaces."
ものごとの本質を印象的にとらえたいなら表面に隠されたものを見抜くことだ。

5. "A great photograph is a full expression of what one feels about what is being photographed in the deepest sense, and is, thereby, a true expression of what one feels about life in its entirety."
偉大な写真には撮影者が見て感じたものが余すことなく、かつその最も深い意味において表現されているものだ。するとそれは撮影者の人生観を丸ごと写しとったものとなる。

6. "A photograph is usually looked at – seldom looked into."
写真の表面だけを見る人は多いが写真の向こう側まで見る人は少ない。

7. "Photography is more than a medium for factual communication of ideas. It is a creative art."
写真は感じた印象を取り交わすための道具以上のものだ。それは創造芸術なのだ。

8. "No man has the right to dictate what other men should perceive, create or produce, but all should be encouraged to reveal themselves, their perceptions and emotions, and to build confidence in the creative spirit."
ひとが何を感じ何を創造し何を生み出すかは自由だが、自分が何者で、どんなものの見方をし、どんな感じ方をするかを明らかにし、自信を持って新しいものを創造することが出来るようにひとびとを励ますことが大切だ。

9. "We must remember that a photograph can hold just as much as we put into it, and no one has ever approached the full possibilities of the medium."
覚えておこう。写真は私達が情熱を注ぎ込めば注ぎ込んだだけしっかりと答えてくれる。しかし未だかつて写真の可能性を完璧に追い詰めたひとはいない。

10. "Photography, as a powerful medium…offers an infinite variety of perception, interpretation and execution."
写真というパワフルな道具。私たちはこの道具によって無限に多様なものごとの理解と、無限に多様な表現と、無限に多様な制作を自分のものにすることが出来る。

11. "There’s nothing worse than a sharp image of a fuzzy concept."
表現したいことが曖昧なのに画像はシャープというのが写真として最悪だ。

12. "The sheer ease with which we can produce a superficial image often leads to creative disaster."
お気楽な気分で片手間仕事をすると往々にして悲惨な結果が待っている。

13. "Twelve significant photographs in any one year is a good crop."
年に1ダースもいい写真が撮れたら御の字だ。

14. "Landscape photography is the supreme test of the photographer, and often the supreme disappointment."
風景写真は写真家にとって最高の腕試しだがしばしば最高のがっかりに終わる。

15. "Sometimes I do get to places just when God’s ready to have somebody click the shutter."
あとは誰かがシャッターを押すだけ!みたいな、まるで神様がお膳立てしてくれたような場所に私はたまに巡りあうことがある。

16. "The negative is the equivalent of the composer’s score, and the print the performance."
撮影されたフイルムが作曲家にとっての楽譜とすれば、現像はその楽譜を元にした演奏に相当する。

17. "Dodging and burning are steps to take care of mistakes God made in establishing tonal relationships.”
覆い焼きと焼き込みは神様のトーン調整ミスを手直ししてあげる工程である。

18. "A true photograph need not be explained, nor can it be contained in words.”
真の写真に説明は不要だし、文章の添え物みたいな扱いはされるべきではない。

19. "When words become unclear, I shall focus with photographs. When images become inadequate, I shall be content with silence."
言葉で説明することが難しいことに出会ったら、私ならそれを写真で明らかにするだろう。写真で明らかにできなければ黙っていたいと思う。

20. "I am sure the next step will be the electronic image, and I hope I shall live to see it. I trust that the creative eye will continue to function, whatever technological innovations may develop.”
私は写真の未来はデジタルだと確信している。叶うなら生きてその未来を見てみたい。受けあってもいいが、テクノロジーがどんな風に進歩しても創造的な目の持ち主は創造の手を休めることはないだろう。



2015/10/20

my friend, my watch

my friend, my watch


永年組織の中で生きていれば引き受けたくない役目ばかりが増えていく
もとより融通の効かない性格だから軋轢も多い
誰を幸せにしているわけでもなく自らも不幸なら誰のために働くか
救われようのない思いを分つ友を持つ気もないが腕にPANERAI











2015/10/19

growing wild


growing wild
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2



















2015/10/18

宇宙戦争


"The War of the Worlds"

宇宙戦争というタイトルに惹かれてこの映画を見たひとは、宇宙人の襲来による壮絶な破壊と、絶滅の危機に瀕した人類が苦闘の末に宇宙人達を退治して「ああスッキリした!」という展開を当然予測していたと思いますが、しかし実際には意に反して主人公は逃げ惑うだけで軍隊も宇宙人には全く刃が立たず、最後は宇宙人たちが感染症にかかって自滅するという、なんとも歯切れの悪い結末。
実際ネット上の映画批評も概ねガッカリ感と子供嫌い映画の代表作みたいな扱いが多い。
僕自身もこの映画を見て結末のあっけなさに拍子抜けしたひとりなんですが、ただ僕の中ではむしろこの奥歯に物が挟まったような感じがこの映画を永く記憶にとどめる要因になったように思います。
それで今回アマゾンプライムで映画が見放題になったのをきっかけに初演から10年ぶりにこの映画を見て、初見とは違う印象を持ったのでその感想を述べてみたいと思います。

あらすじを振り返ってみます。
作中の主人公(トム・クルーズ)は三十歳過ぎの港湾労働者。昔で言うところの沖仲仕で、ガントリークレーンという巨大なクレーンを巧みに操って船荷の積み下ろしをしている様子から彼が優秀なクレーン操作技術の持ち主であることがわかる。
(Wikipediaによれば沖仲仕という仕事はかつて高賃金で体力勝負の労働現場で荒くれ者が多かったことから、誤解を避けるため最近では港湾労働者と言い換えられる傾向にあるという。これは後ほど述べる彼のキャラクター設定と密接な関係がある)。

彼には妻と高校生くらいの男の子と小学校低学年くらいの女の子がいる。
しかしすでに妻とは離婚しており、引き取った子供たちも父親の無神経・無教養かつ生活能力の低さと、それに反して父親としての権威や愛情や尊敬をひつこく要求してくることに心底うんざりしている。

つまり彼は彼の家族たちにとってはコミュニケーション不能者として存在しているのですが、実は彼自身はコミュニケーションを拒絶しているわけではなく、むしろコミュニケーションを切望しており、しかし彼にはなぜ対話が不能なのかがわからなくて混乱しており、そのストレスを家族にぶつけることでさらなる対話不能の状態に陥っている。

主人公は機械操作を仕事にしており、機械が好きで車好き、信号無視の荒っぽい運転は日常茶飯で、愛車に載せ替える予定の巨大なエンジンを居間にデンとおいていたり、修理屋より車に詳しくて、息子が勝手に自分の車を使うことを断じて許さず、野球が大好きで、部屋の中は荒れ放題で、娘はもう小学生になるのに生まれた時から彼女にピーナッツアレルギーがあることも知らず、彼女を眠らせる時の子守唄も知らないので、彼女が宇宙人の襲来で怯えているときに彼女に歌ってあげれたのは「オレの愛車」みたいな歌だけだったり、息子の宿題のことも知らず、息子の学費を払っているのは実は自分ではなく妻の新しい夫であることも知らなかったり、冷蔵庫には食べ物はなく、食事はすべてケータリングで、宇宙人が襲来した時の雷の落ちた場所には真っ先に見に行き巨大ロボットが地面から出現して周囲に殺人光線を撒き散らしているのに逃げるより好奇心が優先するという、男の子がそのまま大きくなったようなひとです。自分の機能の拡大と達成には関心があるが、家族や周りの人に対する関心が極端に薄い。
つまり彼は言わば過剰な男性性のペルソナとともにに女性性(アニマ)の欠如した人として造形されているわけです。

そこに宇宙人が襲来する。
宇宙人の巨大ロボットから子供達と一緒に車で逃げているさなかに、彼は息子から徹底的に罵られ、父親としての権威を否定され、人格否定され、また娘のことをこれまで何も知らなかった、そして今も何もしてやれないことの悲しみと無力感に陥る。
見ている方としてはこんな危機的状況のさなかに必死に子供達のことを気遣っているええお父ちゃんやないかという気持ちになるので、それが子供嫌い映画のカテゴリーに位置づけられる理由の一つだと思うですが、実は子供達はかりそめの悪役で、父親がここで徹底的に精神的に追いつめられることが次の展開に繋がります。

そしていよいよ家族が乗ってきた車が暴徒に奪われて、その車を奪った男がまた別の男に射殺されるという衝撃的な場面。フェリー乗り場のカフェのウィンドウ越しにそれを見た主人公は慟哭します。なぜ彼があのシーンで慟哭したか。
あの車に載っていたのは実は主人公の男性性自身で、あの車に乗り続けていたら自分もあそこで射殺されていたということに、主人公が気が付いたからでしょう。
これは彼の「男性性のペルソナ」が決定的に否定されてしまう場面であり、彼は引き剥がされたペルソナとの別れと苦しみに泣く。
おそらくこれがこの物語の分岐点と思われます。
(追記:車を奪われるという出来事だけでなく、すがりついてくる群衆を振りきって突破しようとした主人公の車が停止することになったのが子供を抱いた女性を避けようとして木にぶつかったからというのも非常に暗示的です)。

さて、息子は父親が失った父性を纏(まと)い、代わりに自分は宇宙人と戦うんだと言って、取り憑かれたように丘の上を軍隊の後を追います。取り縋る主人公はここではもはや母親の役割を担っている。
息子に去られた主人公は娘とともに丘の麓の廃屋に逃げこむ。
そこには同じく家族を失って潜んでいる男がいて、彼の「オレは死んでも生き残る」とか、「逃げまわるのはまっぴらだ、アメリカの名誉のためにオレは戦う」とか「あんたはオレとは生き方が違うようだな」といった発言から、彼は主人公のかつての男性性を具現していると思われます。主人公はここで娘のために彼を殺害するのですが、それは主人公が自分の意志で(つまり能動的に)かつてのペルソナを否定することを意味していると思われます。

続いて潜んでいた廃屋に巨大ロボットの食指が大蛇のように入ってきて廃屋内を調べ回ります。親子で地下室を逃げまわるのですがついに娘が見つかってしまい娘が連れ去られそうになる。そこで主人公はナタでその大蛇のような食指を断頭するのですが、ご存知のように蛇というのは男根の象徴で、この断頭とは男性器の切断の暗喩でしょう。これを持って主人公は完全にかつての男性性と決別するわけです。

そこからお話は急展開し、一旦宇宙人に奪われた娘を命がけで取り戻した主人公は娘とともに妻の実家(母性の暗喩)のあるボストンへ向かう。ボストンでは驚いたことに巨大ロボットは機能停止しており、彼らは地球の微生物によって自滅したというのです。ボストンの妻の実家にたどり着いた父娘は妻と息子と再開し、(あれだけいがみ合っていた)主人公と息子は抱擁しあって映画は終わる。
この結末のあっけなさは何でしょう。
それはつまり主人公が偽りの男性性というペルソナに決別しアニマを獲得して家族とリユニオン(再結合)を果たしたことで、もう宇宙人の役目は終わってしまったことを意味しています。つまりこの物語においては、宇宙人というのは単なる舞台回し、狂言回しに過ぎなかったわけです。これは、主人公がアニマを獲得して家族とリユニオン(再結合)するという物語だったのですね。
そしてこの映画のタイトル、日本名は宇宙戦争ですが、原題は"The War of the Worlds" 直訳すると「世界」同士の戦い。
何と何の戦争でしょうか。もうおわかりですね。これは家族とのリユニオンの物語であると同時に、(主人公の内面における)男性性と女性性という二つの世界間の戦いの物語でもあったのです。
H.G.Wellsはそんなつもりでつけたのではないと思いますが。

追記:
物語はその物語を読む人によって様々な解釈が可能です。
これは僕自身の解釈であってあなたの解釈ではないということをご理解下さい。






2015/10/15

黒い実


black fruit
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2













2015/10/13

moss


moss
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2














2015/10/12

ピント問題続報



先日のピント問題で今日サービスセンターへD800Eを持って行きました。
担当の方にブログに載せた比較写真をiPadで見てもらいながら病状説明すると僕のD800Eは本社工場に修理に送られることになりました。
点検修理は10日間ほどとのこと。3年半使って保証期間も過ぎているけど費用も安かったし懸案だったローパスフィルター清掃もお願いできたので丁度よかった^^。

先日のブログで3年も経ってようやく後(あと)ピン問題に気が付いたのはアポゾナーがマクロプラナーより被写界深度が浅かったからと書いたけど、ほんとに浅いのか!どれくらい浅いんだ!と胸ぐらをつかまれてガクガク揺すぶられながら問い詰められたらきちんと答えられる自信がない。それでWikipediaで調べたら被写界深度の計算式が載っていました。

あぁ、これはきっと誰かがネットにcalculatorをアップしているに違いないと思って探すと、ありました。それがこのサイト
カメラの種類と焦点距離とF値と対象までの距離を入力すると
右側にNear limit, Far limit, Totalが自動的に計算されます。
このサイト内にiPhone用のアプリも紹介されていましたが240円でちょっと高い。

そこでApp Storeで"depth of field"で検索するといろいろ見つかったんですが、そのなかで無料で高性能なのは"iDoF Calculator"というアプリだけでした。
このアプリは画面の上部に広告が出るのがちょっと邪魔ですが機能的に優れていて、先ほど紹介したネット上のcalculatorでは四捨五入されていた1センチ以下の被写界深度がちゃんとミリ単位で表示されます。

今日サービスセンターにD800Eを持って行った際にブログに載せた比較写真は物差しとの距離はどれくらいだったかと担当の方から聞かれて2メーターくらいと答えたんですが、アップした写真では被写界深度はせいぜい見積もって5ミリ位しかない。被写界深度がそれくらい浅かったから1cm後ピンだとわかったわけです。
ところが先ほどのiPhoneのアプリでカメラの機種をD800、F2.0、focal lengthを135cm、distance to objectを2メートルにするとDepth of Fieldは2.37cmになります。これだと1cmの後ピンは認識できないはずです。あの写真を撮ったときの状況を思い出してみると物差しとの距離はたぶん1メートルくらいしかなかったはず。
そこでdistance to objectを1メートルに変更するとDepth of Fieldはズバリ5.5ミリで、写真上の被写界深度とピッタリ一致します。
あわててサービスセンターに訂正の電話を入れました。

ではアポゾナーとマクロプラナー50ミリでは被写界深度はどれくらい違うのか。
アプリでは焦点距離50ミリF2で1メートル先の被写界深度は4.41cmと出ました。
アポゾナーでは5.5mmでしたから被写界深度はおよそ8倍。うーん、そんなに違うのか。
これで胸ぐらをつかまれて揺さぶられても大丈夫です。

最終報はこちら

weed


weed
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2













2015/10/11

plant


plant
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF.2











2015/10/10

ファインダーでピントが合わない


オートフォーカスで撮っているうちは気が付かなかったけどマクロプラナーで撮り始めた頃から、アレレ、何か変だなと感じていたのはピント問題。ファインダーではジャスピンなのに撮れた写真にピンが来ない。

僕はマクロをよく撮るのでピントにはすごく気を使う。
アングルファインダーを覗き込みながら、息を詰めてカメラを微妙に前後させ、「ここだ!」と思う瞬間にシャッターを押す。
光学ファインダーでマクロを撮っているひとがみんな同じように感じているかどうかわからないけど、コンマ何ミリのベストな合焦面をファインダー像が通過するときは、合焦像に何か光のようなものを感じる。
いや実際に光るんじゃないけど、そのときに網膜がチリッと感じる瞬間があって、それがまさしく合焦ポイントで、これは少なくとも僕にとっては疑いようのないものだ。
ところがそんな絶対の自信で押したシャッターの画像がなぜかピンが来ていないと、何だか狐につままれたような気がする。
でまぁ、不思議に思いながらも何度も撮ってピンの来ている写真以外は捨てていた。

そういう漠然とした気持ちの悪さを感じながら今日まで来たわけだけど、今回マクロプラナーよりも解像度の高いアポゾナーを買って喜々として使い始めたら愕然とした。
まったくピンが来ないのだ。
アポゾナーは135ミリF2なのでマクロプラナー50ミリより被写界深度が浅い。だからマクロプラナーでは気のせいかも?で通り過ぎていたピント問題が、俄然はっきりしたということなのだろう。値段が高かった分ショックが大きかったからというほうが正しいかもしれない。

よく見るとピントのズレは常に後方、いわゆる後ピンになっている。
それでためしにファインダー像をほんの僅かに前ピンにしてシャッターを切るとジャスピンになる。
はたしてこれはZEISSレンズだけの問題なのか?
そこでAFでは問題のないマイクロニッコールをMFで撮ってみたらこれも実は後ピンだったと判明。

AFでは問題がなくライブビューでも問題がない。
光学ファインダーでピントを合わせる時だけ後ピンになる。
そしてそれはレンズの種類によらない。

ということはレンズを通してカメラに入った光がミラーに反射して眼に届くまでの経路のどこかに問題があるということだろう。
そこでネットで調べるとこの問題に対し「フォーカシングスクリーンがズレているのではないか」というひとがあり、またあるひとはサービスセンターでファインダー像と撮った写真の両方を見せて修理してもらったとあった。
なるほど、ズレているように見えるだけですよ、アナタの目が悪いんじゃないですかと言われたらスゴスゴ引き返すしかないけど、証拠を撮っておけばいいのだと気が付いて僕もやってみた。

左がD800E+アポゾナー135mmでものさしの15cmのラインにピントが来ているのをファインダーにOM-D E-M1をひっつけて撮ったもの。右は撮れた写真。合焦が1cm後方にズレている!
misalignment of focusing screen

ZEISSのホームページの"Other types of screen"のところにもこの問題に関する記述があります。

One problem, however, is that the screen and/or the mirror are often not perfectly aligned in many new cameras, and it only takes a minimal deviation (less than 1/100th to 1/10th of a millimeter) to produce a visible focus error (front focus or back focus). As long as the user continues to work with the AF system of the camera and default focusing screen, this minor error is generally not conspicuous. However, if the screen is replaced with a variant that includes focusing aids, then the deviation becomes visible.
The only action that can be taken in the face of this dilemma is to send the camera to the manufacturer or an authorized service center and request that they align the screen properly. For many camera models, aligning the focusing screen involves inserting or removing the corresponding number of thin layers of film.

拙訳「しかしながらここには一つ問題があります。最近の多くのカメラではしばしばフォーカシングスクリーンとミラーの両方もしくはどちらかがきちんと装着されておらず、そのズレがもし仮にたったの1/100~1/10ミリだけでも前ピンや後ピンといった合焦エラーが生じてしまうのです。もしユーザーがオートフォーカスしか使わずデフォルトのフォーカシングスクリーンしか使っていないなら一般的にこの問題が表面化することはないでしょう。しかしもしフォーカシングスクリーンを合焦を補助するタイプのものに交換した場合などにはこのズレが顕在化してきます。
もしこの問題が発生したら選択肢は一つしかありません。カメラを製造元か正式のサービスセンターに送ってフォーカシングスクリーンを正しく装着しなおしてもらうことです。多くのカメラではフォーカシングスクリーンの調整をどのように行うかというと、介在する薄いフィルムを何枚か抜くか挿入するという方法を用いています」

僕はフォーカシングスクリーンは交換していないから本当にスクリーンの問題かどうかはわからないけど、取り敢えずD800Eを近々サービスセンターに持って行こうと思います。
続報はこちら
最終報はこちら




2015/10/08

花梨


carin
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF.2









2015/10/06

off-season


off-season
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF.2










2015/10/05

rose pink


rose
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF.2










rose orange


rose
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF.2











2015/10/04

Princesse de Monaco


Princesse de Monaco
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF.2












2015/10/02

Sonne


Sonne
Carl Zeiss Apo-Sonnar T*2/135mm ZF.2をついに注文してしまった。
大きな期待を抱きつつ、しかしその一方で
Nikkorの200ミリマクロやDistagonの21ミリのように使いこなせずに手放してしまうのではないか
所詮僕には身に過ぎたレンズではないかと危惧しつつ。










2015/10/01

amid


amid
Nikon D800E AF MICRO NIKKOR 2.8/55

















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