2015/10/18

宇宙戦争


"The War of the Worlds"

宇宙戦争というタイトルに惹かれてこの映画を見たひとは、宇宙人の襲来による壮絶な破壊と、絶滅の危機に瀕した人類が苦闘の末に宇宙人達を退治して「ああスッキリした!」という展開を当然予測していたと思いますが、しかし実際には意に反して主人公は逃げ惑うだけで軍隊も宇宙人には全く刃が立たず、最後は宇宙人たちが感染症にかかって自滅するという、なんとも歯切れの悪い結末。
実際ネット上の映画批評も概ねガッカリ感と子供嫌い映画の代表作みたいな扱いが多い。
僕自身もこの映画を見て結末のあっけなさに拍子抜けしたひとりなんですが、ただ僕の中ではむしろこの奥歯に物が挟まったような感じがこの映画を永く記憶にとどめる要因になったように思います。
それで今回アマゾンプライムで映画が見放題になったのをきっかけに初演から10年ぶりにこの映画を見て、初見とは違う印象を持ったのでその感想を述べてみたいと思います。

あらすじを振り返ってみます。
作中の主人公(トム・クルーズ)は三十歳過ぎの港湾労働者。昔で言うところの沖仲仕で、ガントリークレーンという巨大なクレーンを巧みに操って船荷の積み下ろしをしている様子から彼が優秀なクレーン操作技術の持ち主であることがわかる。
(Wikipediaによれば沖仲仕という仕事はかつて高賃金で体力勝負の労働現場で荒くれ者が多かったことから、誤解を避けるため最近では港湾労働者と言い換えられる傾向にあるという。これは後ほど述べる彼のキャラクター設定と密接な関係がある)。

彼には妻と高校生くらいの男の子と小学校低学年くらいの女の子がいる。
しかしすでに妻とは離婚しており、引き取った子供たちも父親の無理解・無神経・無教養かつ生活能力が低さと、それに反して父親としての権威や愛情や尊敬をひつこく要求してくることに心底うんざりしている。

つまり彼は彼の家族たちにとってはコミュニケーション不能者として存在しているのですが、実は彼自身はコミュニケーションを拒絶しているわけではなく、むしろコミュニケーションを切望しており、しかし彼にはなぜ対話が不能なのかがわからなくて混乱しており、そのストレスを家族にぶつけることでさらなる対話不能の状態に陥っている。

主人公は機械操作を仕事にしており、機械が好きで車好き、信号無視の荒っぽい運転は日常茶飯で、愛車に載せ替える予定の巨大なエンジンを居間にデンとおいていたり、修理屋より車に詳しくて、息子が勝手に自分の車を使うことを断じて許さず、野球が大好きで、部屋の中は荒れ放題で、娘はもう小学生になるのに生まれた時から彼女にピーナッツアレルギーがあることも知らず、彼女を眠らせる時の子守唄も知らないので、彼女が宇宙人の襲来で怯えているときに彼女に歌ってあげれたのは「オレの愛車」みたいな歌だけだったり、息子の宿題のことも知らず、息子の学費を払っているのは実は自分ではなく妻の新しい夫であることも知らなかったり、冷蔵庫には食べ物はなく、食事はすべてケータリングで、宇宙人が襲来した時の雷の落ちた場所には真っ先に見に行き巨大ロボットが地面から出現して周囲に殺人光線を撒き散らしているのに逃げるより好奇心が優先するという、男の子がそのまま大きくなったようなひとです。自分の機能の拡大と達成には関心があるが、家族や周りの人に対する関心が極端に薄い。
つまり彼は言わば過剰な男性性のペルソナとは裏腹に、女性性(アニマ)が欠如している人として造形されているわけです。

そこに宇宙人が襲来する。
宇宙人の巨大ロボットから子供達と一緒に車で逃げているさなかに、彼は息子から徹底的に罵られ、父親としての権威を否定され、人格否定され、また娘のことをこれまで何も知らなかった、そして今も何もしてやれないことの悲しみと無力感に陥る。
見ている方としてはこんな危機的状況のさなかに必死に子供達のことを気遣っているええお父ちゃんやないかという気持ちになるので、それが子供嫌い映画のカテゴリーに位置づけられる理由の一つだと思うですが、実は子供達はかりそめの悪役で、父親がここで徹底的に精神的に追いつめられることが次の展開に繋がります。

そしていよいよ家族が乗ってきた車が暴徒に奪われて、その車を奪った男がまた別の男に射殺されるという衝撃的な場面。フェリー乗り場のカフェのウィンドウ越しにそれを見た主人公は慟哭します。なぜ彼があのシーンで慟哭したか。
あの車に載っていたのは実は主人公の男性性自身で、あの車に乗り続けていたら自分もあそこで射殺されていたということに、主人公が気が付いたからでしょう。
これは彼の「男性性のペルソナ」が決定的に否定されてしまう場面であり、彼は引き剥がされたペルソナとの別れと苦しみに泣く。
おそらくこれがこの物語の分岐点と思われます。
(追記:車を奪われるという出来事だけでなく、すがりついてくる群衆を振りきって突破しようとした主人公の車が停止することになったのが子供を抱いた女性を避けようとして木にぶつかったからというのも非常に象徴的です)。

さて、息子は父親から失われた父性を纏(まと)い、代わりに自分は宇宙人と戦うんだと言って、取り憑かれたように丘の上を軍隊の後を追います。取り縋る主人公はここではもはや母親の役割を担っている。
息子に去られた主人公は娘とともに丘の麓の廃屋に逃げこむ。
そこには同じく家族を失って潜んでいる男がいて、彼の「オレは死んでも生き残る」とか、「逃げまわるのはまっぴらだ、アメリカの名誉のためにオレは戦う」とか「あんたはオレとは生き方が違うようだな」といった発言から、彼は主人公のかつての男性性を具現していると思われます。主人公はここで娘のために彼を殺害するのですが、それは主人公が自分の意志でかつてのペルソナを否定した瞬間を意味していると思われます。

続いて潜んでいた廃屋に巨大ロボットの食指が大蛇のように入ってきて廃屋内を調べ回ります。親子で地下室を逃げまわるのですがついに娘が見つかってしまい娘が連れ去られそうになる。そこで主人公はナタでその大蛇のような食指を断頭するのですが、ご存知のように蛇というのは男根の象徴で、この断頭とは男性器の切断の暗喩でしょう。これを持って主人公は完全にかつての男性性と決別したと思われます。

そこからお話は急展開し、一旦宇宙人に奪われた娘を命がけで取り戻した主人公は娘とともに妻の実家のあるボストンへ向かう。ボストンでは驚いたことに巨大ロボットは機能停止しており、彼らは地球の微生物によって自滅したというのです。ボストンの妻の実家にたどり着いた父娘は妻と息子と再開し、(あれだけいがみ合っていた)主人公と息子は抱擁しあって映画は終わる。
この結末のあっけなさは何でしょう。
それはつまり主人公が偽りの男性性というペルソナに決別しアニマを獲得して家族とリユニオン(再結合)を果たしたことで、もう宇宙人の役目は終わってしまったことを意味しています。つまりこの物語においては、宇宙人というのは単なる舞台回し、狂言回しに過ぎなかったわけです。これは、主人公がアニマを獲得して家族とリユニオン(再結合)するという物語だったのですね。
そしてこの映画のタイトル、日本名は宇宙戦争ですが、原題は"The War of the Worlds" 直訳すると「世界」同士の戦い。
何と何の戦争でしょうか。もうおわかりですね。これは家族とのリユニオンの物語であると同時に、(主人公の内面における)男性性と女性性という二つの世界間の戦いの物語でもあったのです。
H.G.Wellsはそんなつもりでつけたのではないと思いますが。

追記:
物語はその物語を読む人によって様々な解釈が可能です。
これは僕自身の解釈であってあなたの解釈ではないということをご理解下さい。






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