2018/10/16

ライカとマシュマロマン

IMG_7664B
Olympus OM-D E-M1 LEICA DG NOCTICRON 42.5mm F1.2


僕はこの10年間いろんなカメラやレンズに手を出してきたけれども、心のどこかにはいつもライカがあったように思う。
ライカはしかし僕にとって「手が届かない」という地位をずっと保っていて、なぜ手が届かないかといえばそれはもちろん価格のこともあるけれども、それは本当に自分に必要なカメラなのかとか、ライカの作例を見て僕の撮りたい世界とは違うんじゃないかといった理由で敬遠してきた。まさに「敬して遠ざける」という立場をとりつづけてきたわけだ。

でもライカは手が届かないのに引力がやたらに強い。そしてこのライカを巡る妄想は年を経るたびに大きく膨らむだけでなく、始末の悪いことにいっそう「詳しく」なってきて、まぁお風呂でライカ本を読み耽るのはいいとして、結局買わないんだから自分で大きく育てた妄想を自分で鎮めなければならない。すると自然な流れとしてライカは僕をそそのかす悪役になってもらわないといけなくて、曰く値段があまりにも高いとか使いづらいとか僕に合ってないとかFlickrの作例はどれも詰まらんとか。ライカにとってはいい迷惑だけれども、まぁそうやって僕は近づいたり離れたり憧れたり言い訳したりしながら太陽の周りをぐるぐる回る惑星のようにライカの周りを回ってきたわけだが、特に数年前からは退職したらライカを持って旅に出たら楽しいだろうなと想像しつつ仕事の辛さを乗り越えるのがひとつの習慣になっていた。

禅の法話の一つに雲門屎橛という題の一説がある。「仏とは!?」と問われた偉いお坊さんが「乾屎橛!」と答えたと言う。仏なんていうものはただの糞カキべらだと。僕もこのライカという自分の中で膨らみすぎたマシュマロマンを退治するために、もうそろそろライカを買ったほうがいいんじゃないか。買いなされ!と雲門和尚も言う。「そこには実はなにもない」ということを感じるために、というよりも僕の10年間の妄想を成仏させるために。でも結局は純粋にライカを楽しむんだろうなと思いながら一人で祝杯を上げた。















2018/10/09

色の問題

violão
Olympus OM-D E-M1 Panasonic LEICA NOCTICRON 42.5mm F1.2


OM-D E-M1+ノクチクロンでもこんな感じで撮れるけど、この写真の色合に持ってくるのが結構大変。色がね、なかなか決まらないんですよ。いつものことだけど。ライカなら、と期待するのはこのサイトから暗示を受けたからだけど、いわゆる一般的なデジカメとは色の出方がかなり違う気がする。期待し過ぎなんだろうか。

















2018/10/02

現像ソフトLuminar

DSC_7517B
Nikon D800E Ai Nikkor 35mm f/1.4S


僕が一番親しんでいる加工の流れはRAWで撮ってシルキーピクスで大まかな調整をしてTIFF保存し、それをPhotoshopCCのプラグインNik Collectionで仕上げるというコースだけど、今日たまたまこちらのサイトをお伺いしてルミナーという現像ソフトの事を知った。

これがすごくいい。レタッチにはいろいろ方法があるけれど、ゼロから作り上げるひともいれば、僕みたいに基本的にフィルターでレタッチする人もいるだろう。
僕のやり方は、まず写真ごとにいろんなフィルターを試してみて、仕上げたいイメージに一番近いフィルターを選択。そしてそのフィルターを細かく調整して新しいフィルターを作り、またそれを別の写真で試してさらに新しいフィルターを作って別の写真に適用するという流れ。

で、このルミナーという現像ソフトはデフォルトのフィルターがいっぱいあって、それを自分でアレンジして新しいフィルターを作ることができるという点でまさに僕のやり方にぴったりなのだ。さらにLightroomやPhotoshopCCにプラグインとして組み込めるし価格も7,000円以下とお手頃。

上の写真はルミナーで加工してPhotoshopCCで仕上げたものだけど、ルミナーだけでもほぼ完成に近い処理ができると思う。さらに前述のサイトでも絶賛されていたようにAIで適切な調整をしてくれるAccent AIフィルターがとても秀逸。
うーん、ちょっと感動してしまった。

ちなみにこのルミナーはスカイラムという会社の製品ですが、実は500pxを立ち上げたエフゲニー・トチェボタレフ氏が500pxを去ったあとに移籍した会社でもあるんですね。詳しくはこちらを参照





















2018/09/08

写真を撮る理由

IMG_7483

目で見て、あっと思ってシャッターを切る。
そしてこのいくつもの個人的な「あっ」のなかに、ほかのひとの深いところにつながる「あっ」が、ごくたまにまぎれ込んで高い評価を生むことがある。
ところが高評価の「あっ」を探し始めたり、自分はともかく他人が「あっ」と思うようなことがらをテーマにしだすと目や心が濁ってしまって、ヤクザなショットばかりになる。
だから写真を撮るときにはなんにも考えずにボーッとした目に「あっ」が入ってくるのを待つしかなくて、そのほとんどは個人的な「あっ」である。
そういう、個人的には深くてもほかのひとには全然深くない写真を撮り続けているうちに、ほかのひとにも深い「あっ」が撮れることもあるが、それは結果であって目標ではない。
業のないひと、業が癒やされたひとにとっては、自分と他人の両方に深いものが撮れるかどうかは運と結果だけだし、そもそも写真にこだわる必要もない。
だからほとんどのひとは写真を撮ることにこだわらない。僕らがこだわるということは何か解決していない問題があるからだろう。
問題というと語弊があるが、人生には解決しなければならない問題と、それとは別に我々を生き続けさせる糧としての問題がある。
格闘しながら人生は過ぎていく。















2018/08/30

晩夏

DSCF4001
Fujifilm X100F ISO500 ss1/60 F5.6 Kenko close-up lens No.5















DSCF4002
Fujifilm X100F ISO200 ss1/280 F5.6















DSCF4005
Fujifilm X100F ISO200 ss1/450 F5.6















DSCF4007
Fujifilm X100F ISO200 ss1/250 F2















DSCF4010A
Fujifilm X100F ISO200 ss1/600 F2















DSCF4012A
Fujifilm X100F ISO200 ss1/75 F2















DSCF4015
Fujifilm X100F ISO200 ss1/250 F2















DSCF4019
Fujifilm X100F ISO320 ss1/60 F8.0















DSCF4024
Fujifilm X100F ISO3200 ss1/60 F5.6















DSCF4029
Fujifilm X100F ISO320 ss1/60 F5.6












ニコンからフルサイズミラーレスのZ7とZ6が発表された。僕としてはGFXみたいなアングルEVFが付いてなかったことが一番のガッカリポイントだけど、やはり新しいカメラはワクワクする。それとともにまたライカ熱が小さく再燃してきてウズウズしている。でも退職して収入が減ったことで妻からは出費を抑えるように厳しく言われていて、新しいカメラを買うことなどとても言い出せる雰囲気ではない。実際X100Fを全然使っていないのに新しいカメラを云々できる筋合いではない。ましてやライカはレンジファインダー。それならX100Fでどんな写真が今の自分に撮れるかやってみなければいけないのだ。

というわけで昨日の夜は「あした曇りだったら写真を撮りに行こう」というつもりで寝た。起きたら薄曇り。それで今日は朝9時から午後1時まで4時間かけて山道を16キロてくてく歩いて収穫した写真が上の10枚。
昨日の晩にX100Fにクローズアップレンズを付けてマクロを撮れないかとふと思いつき、シグマのDPシリーズで使っていたKenkoのクローズアップレンズを各種(No.2, No.5, No.10)装着して試してみた。そしたらNo.5が合焦範囲が広くて一番使いやすかったのと、X100FのF2でフンワリすぎるマクロがNo.5を装着するとF2でもシャキットしたマクロが撮れることを発見。明日はNo.5を付けていっぱい撮るぞと意気込んで寝たけど、実際に散歩に出てみるとあんまり使う場面がなかった。ま、人生は得てしてそんなもんだ。

D800Eをメインで使っていた頃はRAWで撮ってビシバシレタッチしていたけど今日のX100Fではjpeg fineで、velviaとかastiaとかclassic chromeで撮った。撮れた写真のイメージはさすがFuji。いじらなくてもきれいだったので撮って出しをFlickrにアップしようかと思ったけど、SilkyPixに放り込んだらやっぱり癖が出て納得できるまでいじってしまった。それでもいつもよりレタッチはかなり少なめ。

どうして触ってしまうかというと僕の場合撮って出しのままではまだ自分の写真になっていない気がする。自分の目で見て、あっと思ってシャッターを切る。この「あっ」には実は目に飛び込んできた映像という刺激が脳の中のどこかの領域を励起させて「あっ」を発生させているわけで、「あっ」は映像という刺激ではなくてそれによって励起された脳の中の電気現象だ。だから撮れた写真を見て「あっ」が出なかったら「あっ」が出るように映像を加工しなくてはならない。「あっ」は自分のためのもの。




















2018/08/27

LAMY DIALOG 3 再び

P8260006A

万年筆好きの人なら経験していると思うけど、買ってはみたものの何となく使いあぐねている万年筆が何本かあるものだ。僕にとってその1本がLamy Dialog3だ。

もとはといえば仕事用としていちいちキャップを付け外ししなくていい手軽さでパイロットキャップレスを購入したものの、数日使わないでいるとペン先が乾燥してしまうことのもどかしさに耐えきれず購入したのがこのペンだった。
洗練されたデザインとメカニカルなシャッター機構が魅力だけど何となく自分の手になじまず、しかもこのペンもペン先乾燥問題と無縁ではなかった。そうこうしているうちにパイロットキャップレスの乾燥問題が解決してしまい、さらにはDialog3をうっかり落として首軸先端の開口部が少し歪んでしまったこともあってこのペンは長らくお蔵入り状態だった。

最近またよく万年筆を使うようになったこともあって、なんとか復活させたいという思いで首軸交換の修理に出したこのペンが4ヶ月ぶりに僕の元に帰ってきた。修理に出した際に乾燥問題で困っていたことを伝えてあるので大いに期待しているところだがまだ使い始めなのでわからない。
さて、ではなぜ僕がこのペンを使いあぐねていたかだが、再び使い始めてようやくわかった気がする。

まずこのペンは重い。精緻なメカニカルシャッター機構を内蔵しているせいか、モンブランの149より13gも重い。それはいい。いいんだ。だけど重いペンは持ちやすくあるために太くあってほしい。このペンの首軸の把持部は149よりもやや太めだが、重量比を考えるともっと太いほうが安定すると思う。
それから人差し指のMP関節部にペンの胴軸が乗るんだけど、胴軸の素材がサラサラの金属なのと本体が重いので、ここで滑っちゃうんだな。パラジウムじゃなくてピアノブラックやピアノホワイトならましかもしれないけど。

ま、そういうわけで、使いあぐねていた原因の一端が見えたところでどうするかだけど、意を決して(大げさだけど)Dialog3を部分的に太巻き寿司にすることにした。使いさしの粘着力のなくなったベルクロテープをモビロンバンドで写真のようにぐるぐる巻きにした。
このペンをデザインしたフランコ・クリヴィオ氏が見たらカンカンになって怒るだろうけど、そして見た目は本当に不格好だけど明らかに持ちでが改善し愛着まで湧いてしまった(笑)。許せフランコ。


P8260003B
インクはYARD・O・LEDのブルーブラック。






IMG_7476A

気に入って使っているうちにもう一つ気になったことがある。ペン先が紙面に当たる瞬間にわずかだがクキッというかコキッという感触がある。
そんな小さなこと気にしていてどうする!というようなもんだが、ペン先のタッチや紙面をペン先がすべる感じなどのわずかな感触の変化に敏感なのが万年筆使いの喜びであったり悩みであったりするという点では、まさに業みたいなもので、気になりだすとすごく気になるのだ。

要するにペン軸と首軸のあいだのわずかなギャップがこの違和感の原因だろうと考えて、ペン軸の上面にスコッチのビニール補修用テープを貼ってみたらあっさり解決した。

いや、そのままでDialog3を使って何の不都合もないぞ!変なことを追加して自慢するな!という声も聞こえてきそうなのでこのへんで。

追記:Lamy Dialog3の乾燥問題については日本では取り上げられているサイトを見かけませんが海外ではNib Dry Out Issueとしてあがっています。「数時間で乾燥して書けなくなってしまう」という人もいれば何の問題もないという人、インクを変えたら治ったという人や、Lamyに新品に交換してもらったという人まで様々です。シャッター機構についてはパイロットキャップレスのほうが評価が高いようですね。確かにキャップレスのほうが機構が簡単な分だけトラブルが少ないのかもしれません。

更に追記:上記の僕の改造についてはモビロンバンドでぐるぐる巻きにしたせいでクリップが常に押し下げられた状態になっており、これが乾燥問題に悪影響を及ぼす可能性があります。今のところ毎日使って何の問題もないのですが、一週間程度放置してどうかなどについては機会があれば報告したいと思います。

更に更に追記:5日ぶり(中4日)の登板で書き出し問題なしでした。








2018/07/30

summer

IMG_7340A


いよいよ来月ニコンからフルサイズのミラーレスが発表されるらしい。ティザー画像のファインダー部をみるとGFXのデタッチャブルファインダーみたいなシルエットなのでアングル機構もついているかもしない。ソニーがα7を発表してからもう5年も経つんだから、単なる後追いじゃなくて写欲を掻き立てるような魅力的なカメラになっているといいな。


IMG_7343_1A


先日すごく久しぶりにハッセルブラッド熱が再燃した。
一時は寝ても覚めてもハッセルのことを考えていて、結局買うことはなかったけど今でもたまに片思いが再燃することがある。
それで中古のハッセルブラッドの価格を調べてみたら相変わらず高くてがっかり。でもインスタでハッセルで撮られた写真を見ながら思ったのは、「どんなに憧れてもそれは私の現実ではない。そのための機材を手に入れてもそこに手が届くわけではない。それは私の現実ではない」ということ。
じゃあニコンのフルサイズミラーレスを買ったら「私の現実」が撮れるかというと、それも自信がない。

夜お風呂で赤瀬川原平さんのゼロ通信を読んでいたら次のような文章があった。
「現実とは、整える暇のない現在である」
原平さんにしては珍しく1行独立の、言い切りのセンテンス。そのとき自分のためにとりあえず一つクサビを打ち込んでおかなくてはと思われたんだろう。

じゃあ整える暇のある現在とはなんだろうと考えると、それは自分のお話として正統と認められた現在だろう。僕が撮ってきた写真の多くはどちらかといえば自分のお話として正統と認められた現在のような気がする。ただ写真というのは意図するもの以外のものが撮れるので、そこに整える暇のない現実が入ってくるのが面白くて続けてきたんだけど、撮る能力が向上すると整える暇のない現実の入ってくる比率がだんだん減ってくる。

すると自分しか撮れなくなる。というのはつまり撮れたものに自分しか写っていないことになる。つまらない。それで写欲がなくなって撮らなくなったのだと思う。それで今僕がどちらかというと写真を撮ってアップしたりするアウトプットよりもインプット、ファットバイクに乗って峠へ行ったり、ポルトガル語を勉強したり、ギターを練習したりしているのは、整える暇のない現実を自分の中に取り込みたい、自分の中の未開拓領域を探検したいと思っているからだ。つまり「整える暇のない現在」を自分の中に見つけようとしているからだと思う。

写真を撮るというのは僕にとって「見たものに驚き」「それを外界に発信する」という行為であり、何かに驚くというのは自分の中の未開発領域を刺激されることなのだが、今の自分は自分に飽きているのでもう何を見ても驚かない。だから写欲がないわけだ。それではいかんというので(自分に飽きると生きていく意欲がわかないので)、直接自分の中の未開発領域を開発している。

新しいカメラが欲しいという気持ちや、写真を撮る楽しさは言を俟たないが、何を撮るかとなると途端に途方に暮れてしまうのはそういう訳なんだと、書きながら考える。チコちゃん風に言うと、「写真が撮れなくなったのは」ドドン!「自分に飽きたから~」。





















2018/06/30

陽のルートで生きたい

hydrangea
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135


僕はいろいろと不満や満たされない思いや着心地のわるい服を着ているような、自分の生き方に確信が持てない気持ちで生きているが、いやそうではなくて僕はむしろ不満や気に入らないことを「探しながら」生きているのではないか。そして僕はそういった気に入らないことを見つけてそれを解決するか、あるいは何で紛らわすかを探したり見つけたりすることに生きる歓びを感じているのではないか。
そう考えたのはつまり仕事を退職して不愉快なことが解消されたにも関わらず、今度は自分の中に不満を見つけて鬱々として楽しまない日々を送っているのは、どっちにしろ何らかの不愉快のタネを探しているからではないかと思ったからだ。

つまり僕は自分で不愉快の種を探して当然自分で不愉快になりそれを紛らわすための妄想探しにこそ喜びを見出していると。

不愉快に対するセンサーの感度が高く、センサーが不愉快を感知したら不満、怒り、攻撃、緊張などの情動が励起される、この反復反射でセンサーから情動へのルートが太くなっており、それを解消するための愉快的解消行動(妄想や購買欲)を生命エネルギーにしているのが僕なのではないか。

そうではなくて一義的に面白いことや喜ばしいことに対するセンサーが鋭敏で、それがうれしさや楽しさといった情動と直結していることが好ましい生き方なのではないか。
そして僕のように「負のセンサーから負の情動を発現させそれを解消することでようやく陽の情動を獲得する人」というのは、ひょっとするとこれまでの生涯で嫌というほど「苦労→ご褒美」パターンを繰り返し自らに課してきた結果生み出されたのではないか?

世の中には(非常に稀だが)あらゆる刺激を陽の情動に変換できる能力を持った人がいる。
そのことに気づいたのは昨日YouTubeで所さんのCM集を取り上げたものの中で劇団ひとりの揚げ足取り発言に対し所さんが間髪を入れず陽気に屈託なく返事をしているのを見て少し感動したからだ。僕だったらすぐに不機嫌になっていただろう。ひょっとすると所さんは負のセンサーからユーモアへのルートが太いのかもしれない。

夜録画していた所さんの世田谷ベースを観る。
「面倒なことが幸せなんだよ」








2018/06/10

small and dark rev.

small and dark rev.
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50













2018/06/07

petal

petal
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50












2018/05/27

rose #4

rose
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50















2018/05/26

rose #3

rose
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50
















2018/05/20

rose

rose
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50















2018/05/19

Blue Bayou

Blue Bayou
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50














2018/05/18

rose #2

rose
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50














2018/05/17

rose #1

rose
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF



















2018/05/12

蔓日々草

Vinca major
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50















2018/05/11

ladybug

ladybug
Nikon D800E AF MICRO NIKKOR 2.8/55















2018/05/10

2018/05/09

no other time

no other time
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF







2018/05/08

lotus

lotus
Nikon D800E Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF

















2018/05/07

山椿

camellia
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2














2018/05/06

secret

secret
Nikon D800E AF MICRO NIKKOR 2.8/55















2018/05/05

キンポウゲ

a buttercup
Nikon D800E AF MICRO NIKKOR 2.8/55














2018/05/04

green maze

green maze
Nikon D800E AF MICRO NIKKOR 2.8/55











2018/04/24

柿の文鎮

南部鉄 柿

南部鉄で出来た柿の文鎮です。
骨董趣味はありませんが、なんともいい佇まいです。






南部鉄 柿

万年筆を再び使うようになってノートの折り返しの浮きを押さえるために購入したのですが勉強の合間に眺めるのもいいものです。








南部鉄 柿

小さく可愛い文鎮ですが手にするとずっしり重くて525gもあります。
僕は楽天の書道系のお店で購入しましたが万年筆販売で有名な「スミ利」さんでもあつかっておられますね。
追伸:この写真では柿の色はかなり赤っぽく写ってしまいましたが実物はもうちょっと地味な朱色です。念の為。






2018/04/15

YARD・O・LED

YARD・O・LED Blueblack

YARD・O・LEDのBlueblack。
この独特の青緑色が気に入って随分使ったけど万年筆熱が冷めてからほぼ7年間お蔵入り状態だった。
それが最近ポルトガル語を勉強し始めてからふたたび万年筆熱に火がついた。
変色してるかもと思ったが買ったときとあまり色味は変わっていなかった。
青すぎず緑すぎず、明るすぎず暗すぎず、そして若すぎず渋すぎず。
いい塩梅です(Photo Yodobashi ®)。










2018/04/13

写真の臨在感

serene beauty


写真にはいろんな魅力があるけれども僕が惹かれるのは主に二つ。
一つ目は絵的に美しいこと。二つ目は臨在感。
絵的に美しいためには素材が重要だけど素材と同じくらい重要なのは構図。さらに色と光。
で、二つ目の魅力である臨在感というのは臨場感と言ってもいいけど、要するに「その場に居合わせているような感覚」のことだ。この臨在感は何によってもたらされるかというと、まず重要なのは触感を感じさせるほどのテクスチャの精密描写。そしてもう一つはボケの深度と滑らかさではないだろうか。

僕がはじめて写真に臨在感というものを感じたのは初代のSigma DP1で写真を撮ったときだ。見えるもの全てが触感を感じさせるほど精密に写っていた。それが僕にその場に居合わせているような錯覚をもたらした。そしてその魅力に取り憑かれた僕は結構長い間シグマフリークだったが、精密描写追求だけが独り歩きしてしまい袋小路に入ってしまった。

次に臨在感を感じたのはノクチルックスで撮られたライカの写真を見たときだ。開放F値0.95の極薄被写界深度のもたらす深いボケと滑らかなボケ味は被写体をクッキリまわりからくり抜き、僕はその立体的にたちまちとりこになった。でもノクチもライカも高すぎて買えないからキヤノンのドリームレンズを大枚はたいて購入したりマクロスイターなどのシネレンズに手を出したりしたが思うような立体感が得られずこれも森のなかに迷い込んでしまった。

さて、僕は今日まで前者と後者、すなわち精密描写と極薄被写界深度は別々のテーマだと思っていた。精密描写も魅力的だし、極薄被写界深度も魅力的だ。だからFoveonはいいよねとか、小さいF値のレンズもいいよねとか、それぞれ別個に魅力を感じていた結果、例えて言えば右目は精密描写、左目はボケというふうに斜視になっていたような気がする。だが今日FujiのGFX50SにGF110mmF2を付けた作例をFlickrでみていてシャープかつボケが大きい写真の全てに臨在感が表現されているわけではないことに今更だけど気が付いた。つまりシャープさとボケの大きさをそれぞれ独立のパラメーターとして追求しても臨在感は得られないということなのだ。じゃあどうすれば臨在感が得られるかというとこれはまた別に追求しなければならないのでひとまず置くことにするが、ともかく精密描写とボケの大きさだけを別個にテーマとして追求しては駄目だと。少なくともその精密描写は臨在感に寄与しているか、そしてそのボケは臨在感に寄与しているかという視点から冷静に評価すべきではないかと。

いやわかっているひとにとっては何をあたりまえのことをくどくど書いているのかとあきれているかもしれないが、まぁつまりそういうことだったのかと気が付いた春の宵でした。












2018/04/10

人生における入力と出力

現実の世界で収入と支出があるようにバーチャル世界にも収支があるのではないか。
そのインプットとアウトプットのトータルバランスのことを考えている。
ひとが生まれて成長しその過程で様々なことを学習し、働きだしてからその学習した内容を社会に還元する。そして退職する頃には出涸らし状態。いや見た目は以前と変わらないし働こうと思ったら働けないわけじゃないが、その内容はほとんどがルーチンワークで脳はほとんど活動していない。

もちろん高齢になってもバリバリ新しいことにチャレンジして脳をフル回転している人もいるので一概には言えないが、僕の場合は退職する一年ほど前から脳の収入と支出のバランスがマイナスになっている感じがしていた。具体的にはそれは《朝起きたときに仕事に行きたくないという感情》として現れた。
「うつ」に似ている。あるいは「うつ」の一部は脳の収支のバランスがマイナスになっていることが原因なのかもしれないが僕は専門ではないのでわからない。ただ要するにそういった状態が僕の場合は収支の問題だったのではないかと退職してからなんとなく感じている。

さきほど人生の前半は入力、後半は出力とざっくり分けたけれども、もちろん人生の前半にも出力はあるし後半にも入力がある。むしろ後半で出力より入力の多い人もいるだろう。ただ傾向としてはやはり後半は入力より出力のほうが多いと思うし、僕の場合もいろいろ知識や経験や新しいアイデアなどで入力に努めてはいたが結局最後は枯渇してしまった。これは脳の破産と言ってよいかもしれない。

脳が破産するとどうなるか。具体的には「自分に飽きる」。もう逆さに振っても鼻血も出ない。出てこない自分に飽き飽きする。自分のことをつまらなく感じる。自分を捨てたくなる、いやそこまではいかないけど、少なくとも生きる喜びを感じれないまま過ごしていた。

転機になったのは病気の発症だった。2年前にメニエール病になって、眩暈、耳鳴り、難聴のために一時入院。去年の5月末には仕事の続行が実質上不可能になってしまった。そして二ヶ月間休職。ところがこの休職が僕にとって砂漠のオアシスとなった。10年ぶりに海で泳いだり、毎日プールで泳いだり、ジョギングしたりと、まるで小学校の夏休みに戻ったような日々を過ごすことができた。8月に復職したものの結局仕事続行が無理であることを再確認するだけだったので12月に退職させてもらった。

そういう、わがままが出来る境遇であったことには感謝しかないが、そして同じように永年命を削るような修羅場で過ごしてきてまだ戦い続けている同年代の戦友たちには申し訳ないが、今こうして自分のためだけに時間を使える自由というのは、ひょっとすると再び将来の出力のための入力期間なのかもしれないと思って日々セッセとポルトガル語を勉強したりギターを弾いたりして遊んでいる。











2018/04/05

久しぶりのペリカン

write and learn


最近はずっと、もう長い間プラチナのピグメントインクブルーを入れたパイロットキャップレス一本槍だったけど、今日ペリカンのM800イタリックライティングにセーラーの海松藍を入れて書いてみた。
そうしたら忘れていたM800を買ったときの感動が甦った。いやもちろんペリカンの素晴らしい書き味のことを忘れていたわけじゃないけど仕事使いにはもったいないというか、レディを現場に連れて行く訳にいかないというか。そんなわけでずっと彼女のことは敬して遠ざけていたのだ。
でも今日久しぶりに嗅ぐインクの匂いとM800の羽根のような書き味にウットリ。あぁ万年筆ってやっぱりいいなぁ。












2018/04/01

赤瀬川原平の千円札裁判

グリム童話に小人と靴屋というお話がある。
靴屋に代わって夜中に小人が靴を作る話だ。何かわからないが自分のあずかり知らぬところで密かに世の中のゼンマイを巻いているものがある。かさこそ小さな音を立てて床を這っている小さな虫。誰も気にとめずにいる小さな虫が、実は靴屋の小人のようにこの世の中のゼンマイを回しているということに気付いた原平さんは、その虫をつまみ上げ詳しく観察し始める。その虫の名前を「紙幣」という。
もちろん小学生だって知っている。お金というものが、いや例えば紙幣というものはインクで印刷されたただの紙切れに過ぎないということを。それを知って、驚いて、へーぇで終わる人もいれば、原平さんのように異様に関心を示す人もいる。原平さんはおそらく世の中全体を動かしているたてまえの、もっともピュアな象徴として、紙幣に強い関心を持ったのだと思う。印刷されたただの紙切れである。その紙切れの何が、世の中を動かしているのか。おそらく彼はその秘密が知りたくて、拡大鏡でもって紙幣を子細に観察し、それを自分の手で拡大模写したのだろう。
原平さんの視点はたゆまない僕の関心の対象だが、彼のおこした千円札裁判事件の意味をずっとはかりかねていたのだが、今日お風呂で彼の「運命の遺伝子UNA」という本を読んでいて以上のような形でようやく腑に落ちたのだった。それがわかったきっかけを振り返ってみたい。

その本の最後から二つ目の章「思いがけない因子のUNA」で、彼のライフワークの節目になった「トマソン」が発見されるに至った契機を彼が思い返している所。「まず芸術作品への幻滅があった。作品の素材であるスクラップ類を探して、遂に廃品回収の基地であるタテバにたどりつき、山のような物品(廃品)の存在感に圧倒された。それを素材にわざわざ作品を作る行為というのが、どうにも貧弱に思われてしまった。でもそれと入れ換えに、当時前衛芸術といわれていたものが世間的に認知されて、正統的な美術館に陳列されていく。そのことのギャップがむしろ面白く、路上の工事中の穴や、横に転がる電柱や、ピカピカ点滅する明かりを、「あ、現代芸術!」といって遊びはじめた。」
我々の目の鱗を落とすもっともピュアな物件としての「廃品」が、それだけで驚きの対象として完結しているにもかかわらず、わざわざ作者である私の名前を付けて社会の流通ネットワークに乗せるという行為の浅ましさやいじましさに、彼は釈然としないものを感じていたのだろう。だって、それはもう、そこにあるのだから。なぜわざわざ私の名前をそこに付けなければならないのか。それって、「私の」作品? 私が作ったものじゃないのに。
現代芸術というものが、かつて芸術と呼ばれていた概念を破壊するために存在するのなら、もはやそれは額縁や美術館におさまらなければならない理由はなく、芸術とさえ名付けられる必要も無く、すでに道ばたに転がっていても不思議ではない。この世界そのものが驚きの物件として存在しているのであり、宇宙の缶詰なのだ。

運とか運命とか、それからカラダとか、宇宙とかになぜ彼が強い関心を示したのか。
それらはすべて、コントロールしたいのに出来ないもの、理解したいのに、理解できないもの、制御したいのに、制御できないもの、統率したいのに、統率できないもの、自分であって、自分でないもの。おねしょとか、自分の意思じゃないのに起きてしまうことに対する戸惑い、困惑、腹立ち、恐怖。心臓がなぜ勝手に動いているのかがわからない。わからないということは、いつ止まっても不思議じゃない。そういう恐怖に彼は深く苦しんだ。

つまり理解できない、コントロールできないものに対する恐怖と、関心。それは巨大な社会全体を動かしている「たてまえ」の究極の象徴としての「紙幣」に対する関心と、その謎にどんな根拠があるか。その謎を、いやむしろそこには謎なんか無いということをあばくために紙幣の緻密な拡大模写をしたのだろう。
彼の1963年第15回読売アンデパンダン展出品作であるB号券千円札の拡大模写の作品タイトルは《復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る》であった。











2018/03/25

X100Fの解像度

DSCF4010
Fuji X100F 23mm F4 ss1/150 ISO 200

ファットバイクで山道を登っていつもの湖を見たら湖水の色が綺麗なエメラルドグリーンをしていたのでX100Fでパシャリ。
家に帰ってパソコンのモニターで見たら解像度がすごかったのでビックリ。
画素数がアップしたX100Fの魅力を紹介していた写真家の高橋俊充さんの記事を思い出して深く納得した。













Rolling 60

IMG_6582

写真やカメラの世界で随分長い間遊んできたけどひところのような情熱は消えてしまった。
かと言って写真が嫌いになったわけではない。冷静に見れるようになったというか。いや冷静といっても冷めているわけではない。つまらない写真よりは面白い写真を撮りたいが、以前にもまして写真に自分の存在を乗っける割合が減ったというか。

これからも写真は撮り続けると思うけどアップする頻度は減るだろう。
その分還暦で退職して写真以外のあれやこれや、エイジングしていく自分の身体との対話を中心にした内容をアップしたいと思って新しいブログを作りました。題してRolling 60。お暇なときにどうぞ。









2018/02/25

silêncio

silêncio
Fuji X100F F2/23mm F2.8 ss 1/320 iso 200



















2018/02/20

脳内リゾート開発

久しぶりにお風呂に赤瀬川原平さんの「京都、オトナの修学旅行」を持って入った。
修学旅行は小学校、中学校、高校で経験済みだけど、名所旧跡の楽しみかたが分からなかった僕にとってそれはもはや記憶の彼方だ。この本はつまりそういった場所を大人の眼で見たら何が見えてくるだろうという、原平さん独特の面白がり方を楽しむ本なのだ。その冒頭の部分をちょっと抜き出してみよう。

「今回の取材中にも、あちこちのお寺で子供の修学旅行団にはよく遭遇した。みんな列になってお寺の廊下や仏像の前をぞろぞろと通過していくわけだが、それらを興味ある目で見ているところにはあまり出会わなかった。みんな仕方なく歩いている感じが強かった。もちろん彼らの内実は見かけだけではわからぬものだが、でも自分の小・中学校時代の経験を照らしてみても、あの年齢で日本の古美術に接して、ストレートに実感できるものではないだろう。いまは洋服を着て、椅子で食事をして、テレビのキラキラが当たり前になっている現代人の目には、日本美術は地味で、無口で、とっつきにくい物だ。こんな古ぼけた薄暗い物のどこがいいのか、と思うのが正直なところではないかと思う。とくに自分を工夫できない子供にとっては。」

学童期に日本の伝統美術に接することは一概に無意味とはいえない。いやむしろこういったものを見聞した経験は記憶の奥深くに逗まってずっと将来の自己形成に資するものがあるだろう。でも子供の頃に感じたつまらなさのせいで大人になってから関心の向く範囲が狭くなっているとしたらそれはもったいないことだし、この本の面白さや趣旨の一端もそこにある。

さて、でも今日僕が話したかったのはそのことではない。
のんびり湯船に浸かりながらその本の冒頭を読みはじめてふと目に止まったのは、実はこの最後の「とくに自分を工夫できない子供にとっては」というところ。
原平さんの本は楽しく気軽に読めるけれど、うっかり読み過ごしてしまいがちな所々に彼の脳の中を覗き込める穴がある。
この「自分を工夫できない子供」というセンテンスは普段僕達が目にする言い回しではない。自分を工夫するとはどういうことだろう。

それで僕は相変わらず湯船の中でぼんやりこの言葉を巡って連想を遊ばせているうちに思い出したのが彼の「ステレオ日記 二つ目の哲学」のなかの「脳内リゾート開発」という言葉。この「二つ目の哲学」という本は原平さんが立体視が出来るようになった経緯と、自分でも立体写真を撮りはじめてその面白さに夢中になるという、その興奮が赤裸々に伝わってくる僕の格別な愛読書のひとつだが、そのなかに彼のもう一つの大きなテーマであった路上観察について触れている箇所がある。

「この一点で路上観察のニュアンスを伝えるのは難しいが、基本はいま言ったような出来事である。これまで出会ったことのない面白さに次々とぶつかる。様々なタイプがあるわけで、基準になるのは自分の感覚だ。面白い、何故面白いのかと考えるうちに、いままで知らなかった、隠れていた頭の部分に入り込んでいる。だから新しいタイプの物件を一つ見つけるたびに、自分の中の新しい感覚を一つ見つける。路上観察で路上を歩くことは、そのまま自分の頭の中を歩くことなのだ。そうやって未知の頭の中が広がっている。頭の中は限られた場所だと思うのだけど、その中がどんどん広がっていく。ほとんど無限に広がりそうだ。そのようにして脳内リゾート開発の現場に出会う。」

これで思い出すのが原平さんが27歳のときに作った「宇宙の缶詰」という作品だ。カニ缶の内側に缶詰のラベルを貼って蓋をハンダ溶接したものだけど、缶詰の中から見ると(缶詰の中の空間は別として缶詰の外の)宇宙全体を缶詰にしたことになるというものだ。これと同じように考えて、頭蓋骨をクルリと反転させれば宇宙全体が脳ミソになる。つまり世界は僕の脳であり、脳内リゾート開発=世界リゾート開発=無限の広がりということになる。
ま、ちょっとニュアンスは違うけど、「自分を工夫する」というのは自分の中の未開発領域に鍬(くわ)を入れること。今まで全く自分に縁のなかったことは沢山ある。自分にできなかったこともいっぱいある。トシをとってからいろんなことに手を出すのは死ぬまでの暇つぶしみたいな見方もあるけど、自分を工夫することの喜びを感じて生きていきたいと思う。



宇宙の缶詰







2018/02/12

学び続ける

studying portuguese

今日ふと思ったんだけど
どんなときでも「学び続ける」ということが
僕が人生という舟を漕ぎ続けるための
オールだったし
それはこれからも僕にとって
希望であり続けるだろう

こころが死にかけていると学ぼうとしないし
身体は死にかけても学ぼうとするかぎり
こころは死なない














2018/02/06

monochrome

IMG_6381A
Fuji X100F F2/23mm

iPhoneのアプリCARBON内Parisで加工後
PSでハイパス処理。
"偶然と必然" J.モノー氏近影のトーンに寄せて