2019/09/07

一周回って自分の背中

cascade
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以前小林秀雄の講演を聴いて考えたことを書いたが、彼は講演の中で度々歴史について言及している。
彼は現近の歴史学が客観的な史実の追求をもって事足れりとしていることに苦言を呈し、いやそうではないんだと。歴史を学ぶというのは過去の人間を自らに血肉化し、それによって過去を追体験することなのだと。
歴史学というものをどのように捉えるかはさておき彼の言わんとするところの人生とは実体験そのものであって、それは事実か事実でないかよりも大事だというのだ。
彼の立場は唯心論に近いような気がする。
現代の唯物論的世界観のなかでは彼の立場は甚だ旗色が悪いが果たしてそれは一笑に付すべきものなのだろうか。

物理学の世界でも粒子の位置を正確に知ろうとすると観察者の当てる光によって粒子が移動してしまうため粒子の位置は確率でしか表現できない。
純粋に客観的な事実だけを追求しようとしても最終的に観察者の関与を排除できないとすればそもそもこの世界は観察者コミの世界であって、純粋な客観的事実などというものはありえないということになる。

三島由紀夫の『荒野より』に収められた短いエッセイ「空飛ぶ円盤と人間通」は作家友達だった北村小松氏への追悼文だ。
そのなかで三島は北村氏の書いた小型映画用シナリオの「望遠鏡」という一編を紹介している。
シリウスの伴星を見ようと志して超強度望遠鏡を発明した男が半裸の汗だくで望遠写真を写したところが黒点のみが写っており、あとで妻からそれはあなたの背中の黒子(ホクロ)でしょうと言われ、男の嘆息の字幕でおしまいになる。
「ああ、今度はあまりに遠くが見えすぎたのだ」





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