2017/01/26
fallen tree
山道を登っていくと溜め池がある。
結構大きな溜め池で、池と言うよりも湖といった方が良いかもしれない。
その湖の畔に倒木を見つけた。
湖面に倒木の白い木肌が映えて美しかった。
湖畔から撮ると俯瞰になる。
湖の向こう側からなら湖面すれすれに撮ることができそうなので、向こう側の湿地帯に回り込むことにした。
ところがその湿地帯は本当のぬかるみで、ブーツを履いた足が泥から抜けない。
おまけに湿地帯を覆っていたのはイバラのヤブで、手袋をしていなかった手に無数の引っ掻き傷。
ようやくたどり着いた樹の根元でファインダーを覗いたら今度は近すぎて絵にならない。
それでその年はあきらめて、今年同じ場所を訪れたらそのまま俯瞰で撮れそうな気がした。
135ミリで覗いてみたらなんとかなりそうだ。
手応えがあったのに帰宅してPSで処理してみたらいい絵にならない。
だいぶ頑張ったけどだめだ。
四日経ってもう一度写真を見た。
画面に占める樹の領域が広すぎるようなのだ。
それでPSを使って周囲を広げ、広がった周囲を周辺減光や色調補正などで調整した。
何よりここ数日僕の頭を占めていた個人的で陰鬱な悩みが写真のトーンとタイトルに表れて、四日前にはただ美しいだけで成立しなかった写真がようやく立った。
2017/01/23
2017/01/21
peppermint can
それだけ自分が必要とされているのだから、不満を言えば罰が当たるが過重労働のために身も心も悲鳴を上げている。
今年の春で還暦60歳を迎える。
僕は一人前になるのに30年かかった。この世界に対しては、後半の30年で十分おかえししたじゃないか。
春には退職しよう。もうこの稼業からは足を洗うのだ。これからは自分のために自分の時間を使おう。
そしていつしれずそのフレーズを口ずさむことで、辛い日々にわずかな希望の灯がともった。
「春になったらライカを買って旅に出よう」
そう口ずさむことで日々を乗り切ってきた。
しかし好事魔多し。
訳あって退職はお流れになった。
今は帰りの車の中で吸う一本の煙草を楽しみに日々を乗り切っている。
このペパーミント缶は灰皿がわりである。
2017/01/16
2017/01/08
2017/01/05
写真を撮るということ
写真を撮るというのはとてもおもしろい行為で、それは人によっていろんな楽しみ方があるだろうけれども私にとっては曲がりなりにも作品を作るという、創造する過程をとても楽しんできた。
作品になるような対象を見つけ、それが作品になるためにはどんなカメラ、どんなレンズが適切か、どのアングルからどんな構図で撮るべきか、撮った写真をどんなふうに仕上げるか、出来上がった作品をどのように提示するかといったことを含めいろんなファクターを考えることすべてがとても刺激的で面白かった。
私はありのままの自分にうんざりしている人間だから、外界からの刺激によって変容できるものなら変容したい。それが例えばカメラなら、それを使って作品を創造する自分は、作品とそれを作りそれを見る自分との交歓のなかに自分ならざるものがそこに入ってくることをこそ喜びとしてきた。
それが入ってこなくなって自分しか出てこなくなったらやる意味が無い。
だから畑を耕していて最初はいろんな作物が撮れても、自分という作物しか撮れなくなったら、肥料を変えるとか鍬を変えるとかトラクターを購入するとか、あるいは思い切って種を変えるとか耕し方を変えるとかする。
それでも自分しか取れなかったら違う畑に行くしかないだろう。
そういった脱皮の喜びのようなものを繰り返して、脱皮しても脱皮しても相変わらず自分であることに変わりはなく、ただ脱皮するという行為そのものの快感だけを追い求めているという図式は滑稽としか言いようがないが、趣味というのはそういうものなのかもしれない。
2017/01/02
FlickrのFoveonの作例を見ながら思ったこと
人が一度に受容できるメッセージは一つ、多くて二つだとすれば、リアルすぎる写真は情報が多すぎてメッセージを読み取りにくい。
名刀を手に入れた侍が切れ味を試したくて意味もなく町人を試し切りするような写真を撮るべきではない。
それを見せられた方も困ってしまう。
これは解像力の高いカメラを作った方の罪ではなくてむしろ侍の方に責任があるわけで、それで何を切るか、切った後どう調理するかという視点抜きにこの種の刀は使えない。
よく写らないカメラの方が苦労は少ない。
人一倍解像度コンシャスな自分への自戒として。