よくわからない。わからないけど何だか気になるもの。それが陽水。
先日NHKで4夜連続で「LIFE井上陽水~40年を語る」という特集が放映された。
気になるし、嫌いではない。
たまにCDを買ったりもする。
でも大好きにはなれない。
不思議な存在。
第一夜で陽水は言う。「こんなね、サングラスなんか、まともな人はかけないですよ(笑)」
いろんな人が現れて、それぞれの「陽水観」を述べているが、一番多かったのは「よくわからない」ということ。
そして「だけど惹かれる」ということ。
なんなんでしょうね。
テレビに初めて放映された時もそうだったし、時々思い出しては笑ってしまう日産セフィーロのCM。
「みなさんおげんきですか~」
なんなんだよ、このヒトを喰ったようなせりふは、と思う。
「ヒトを喰った」というキーワード。
ディランに影響を受けた歌詞。
深い意味のありそうな意味不明の歌詞。
今朝仕事に行く車の中で思った。
ああ、この人はペテン師なんだ。
詐欺師というのとは、違う。
ペテン師。
でもただのペテン師じゃないな。
上質なペテン師。
だいぶ印象に近づいてきた。
でもまだちゃんとわかった気がしない。
詐欺師は自分の欲望を嘘で覆い隠す。
陽水も何かを嘘で覆い隠しているが、彼が隠しているのは彼の欲望ではない。
彼が嘘の中に覆い隠しているもの。
それは「感情」。
それも切実で、嘘偽りのない感情。
その感情が嘘のベールを通して僕たちを強く打つ。
ほとんどのミュージシャンは感情をむき出しに表現する。
なぜ陽水は感情を嘘でくるむのか。
五木寛之はそれを「含羞」と表現する。
サングラスを掛ける前の、デビューして間もない頃の彼のはにかんだ表情。
「世の中には、わかりやすいものを好む人もいますが、わかりにくいものを好む人もいます。
僕はそんなマイナーな人向けに音楽を書いているような気がします」
真率な感情をそのまま表現したのでは身も蓋もない。
陽水はそれを「あまり面白いと思わない」と言う。
よくわからない。わからないけど、気になるし惹かれる。
それは彼が彼の切実な感情を、嘘でくるんで提示しているからだろう。
上手な嘘でくるんであるから、よくわからない。
でも嘘の中から本当の感情が、強い放射を放っている。
それが僕たちを打つ。
でも歌詞を手がかりにその真実に近づこうとしても、「よくわからない」
そういったジレンマに僕たちは投げ出される。
うっとりとしながらとまどう。
とまどうペリカン。
オフコースの小田和正「僕ははっきりさせたい人だから。彼とは全く反対の人間なので、お互いに接点がない。
僕は彼の、(嘘のない)本当の歌詞だけで出来た歌が聞きたい」
陽水がのちの奥さんの石川セリとつきあっていた頃、彼女をびっくりさせるために、曲なんて本当にあっというまに出来るんだよと言って、
実際に5分で歌を作ってみせたというエピソードも紹介されていたけれど、
この四夜のシリーズの中で、そんな彼にして、産みの苦しみとでも言うべき作品が二つ紹介されている。
一つは筑紫哲也のニュース番組の最後で流れる「最後のニュース」。
もうひとつは藤子不二雄の映画の最後に流れる「少年時代」。
たった五分で曲を作る陽水が、この二曲についてはいつまでたっても返事がなくて、2週間もスタジオにこもりっぱなしだったとか、
「どうしてオレにこんな曲を依頼してきたのか」とぼやいたりする。
それはよほど彼の本質に関わるような、冗談ですますわけにいかないテーマなのか。
嘘で覆い隠すには、大きすぎるテーマなのか。
しかし自分としては、そのままの姿で提示するわけにはいかない。
何が何でも、この「実」を「虚」でくるまなくてはならない。
それが彼を苦しめた理由なのだろう。
でもようやくにしてその名曲は完成する。
だがこの二曲はいずれも嘘の濃度が薄い。
たぶん彼が一曲に使える粘土(=嘘)の量には限りがあるのだろう。
ソフトボールくらいの大きさのテーマならこってり嘘で塗り固められるけど、
巨大な地球儀みたいなテーマだと粘土を全体に塗っても、薄い。
だから中身が丸見えなんだ。
小田和正が聴きたいと言っていた、ほとんどほんとの歌。
だから聴いた人は素直に感動する。
でも陽水は釈然としない。
「おそらくね。ぼくの代表曲は、何かと聴いたら、「少年時代」と答える人が、多いんじゃないかしら。」
うっすらと苦笑いする陽水。
2009/08/30
弓を引き絞るような撮り方
2009/08/29
物語としての肩こり

今日仕事をしていて肩こりも物語なのかなと思った。
アメリカ人はあまり肩が凝らないらしい。
カルテに患者さんの症状を英語で書くんだけど、研修医の頃に先輩のドクターに肩こりって英語でなんて言うんですかと聞いたら、外人は肩が凝らないから肩こりという英語はないと言われた。
そんなわけはないだろう。同じ人間の症状が国によってあったりなかったりするわけがない。
そう思って自分でも調べたが、やっぱり医学辞書には載っていなかったので、誰に教わったか、それ以後はshoulder stiffnessと書くようにしたわけだが、この単語をカルテに書くたびに、(これは仮の命名だけど)と頭の中で断ってから書いている。
(そういえば外国では孫がたんとん・たんとん・たんとんとんと歌いながらおじいさんの肩を叩いているのは見たことがないな)
国によって、あるいは時代によって人間が感じる苦しみは違うのかもしれないと次に思ったのは、中国伝統医学を勉強していたときだ。古代の中国医学を勉強していると、ときどき知らない症状に出会う。
例えば傷寒論という古代の中国の医学書にはしばしば結胸や胸脇苦満などの胸部の症状がよく登場するけれども、これがどうもよくわからない。単なる狭心症や気管支喘息や自然気胸や肝疾患や胃疾患によるものとは思えない。
たまに出現するだけなら気にもとめないが、しばしば目にするところを見ると、当時の人々にとってはわりとポピュラーな症状だったんだろう。でも今の僕たちにはそれに該当する言葉がない。症状そのものがなくなったのではないにしても、それを表現する言葉がないということは、その症状は今流行っていないということなんだろう。
シンデレラ物語の原型になる話は世界中に広く分布しているらしいが、それとは別に時代や地域で異なる説話原型というのもある。
人間の感じる症状にも、時代や場所に左右されない普遍的な症状群と、ローカルな症状というものがあるのかもしれない。
ラマチャンドランの本にはphantom painの不思議な治療法の話が載っている。
phantom painというのは幻肢痛といって、事故などで手や足を切断した人が、今はもう存在しないはずの手や足に痛みを感じるという現象で、痛んでいる手が「存在する」なら、治療者はそこに疾患を見つけて治療できるけれども、「ない」場所が痛んでいるんだから治療のしようがない。
ラマチャンドランは患者の痛みの原因は(当然失われた腕にあるのではなく)、腕が失われたことを脳が受容できていないためではないかと考えた。
そこで彼は患者を椅子に座らせ、机の中央に縦に鏡を置き、健全な方の右手を机の上にのせるように言った。
鏡の右側から見ると、まるで鏡の中には失われたはずの左手が鏡のむこうに存在するように見える。
そこでラマチャンドランは患者にこう言った。
「あなたの痛みを感じている(失われた)左手が、鏡に写っている像とぴったり一致するように右手の位置を調節して下さい。
そして両手でオーケストラの指揮をするように同時に動かして下さい」
すると患者は失われた左手が自分の意志で自由にコントロールできるように感じ、それと同時に彼を苦しめていた(失われた左手の)痛みから解放されたのです。
ラマチャンドランの治療の成功は、ある種の症状は「物語」であり、別の物語を導入することによって症状を消失させることが出来るという可能性を示唆しています。
さて、私たち日本人の肩こりがもし物語であるならば、それはどんな物語と関連があるのでしょうか。
それは私たちがふだん使っている言葉にヒントがあるかもしれません。
「肩の荷が下りた」
「会社の未来は君の双肩にかかっている」
「肩肘張って生きる」
「肩で風を切って歩く」
こういった言葉から想像できることは、私たち日本人にとって「肩」というのは、社会やコミュニティーにおけるその人の役割や姿勢と関係の強い部位として認識されているということです。
社会における役割と姿勢。それが日本人の肩が担っている役割ではないか。
だから日本人は社会的重圧を「肩」で感じるように出来ている民族であると。
じゃあこうしよう。今後は「おしりの荷が下りた」「会社の未来は君のおしりにかかっている」「おしりを張って歩く」「おしりで風を切って歩く」というふうに、言うようにしよう。
言うだけではなく、実際におしりで風を切って歩くというのもよいかもしれない。
そうすれば僕たちは肩こりから解放されておしりが凝るようになる。
何も解決していないような気もする。
2009/08/28
『男の人とうまくつきあう方法』

「ひとつ、村上さんでやってみるか」というのは、読者からの490の質問のそれぞれに村上春樹が個人的に返事をするという質疑応答集ですが、
その中にはある女性からの『男の人とうまくつきあう方法』というのがあります。
この女性は別に男性問題で悩んでいるわけではなくて、村上春樹が稀に開陳する人生を渡っていく上でのちょっとしたヒントが特に気に入っていて、
彼が以前披瀝した『女の子とうまくつきあう方法』の逆バージョンでこの質問をしたというわけです。
村上春樹はこの質問に対しこう答えています。
「簡単です。男の抱いている妄想を満たしてあげればいいのです。
男という生き物は、ほとんど妄想に基づいて生きています。でもおおかたの女性はその事実を理解していません。
というのは、女性の大半はとても現実的で効率的な人生を送っていますし、そこでは妄想などというものはほとんど効力を発揮しないからです。
(中略)まず第一に彼の性的妄想を理解することです。第二に彼の社会的妄想を理解することです。第三に彼の個人的、片偶的な妄想を理解することです」
文体というものは、それを書いた人がその説文をどの程度確信して述べているかを僕たちに伝えてくれますが、村上春樹はこの件に関してほとんど迷いがありません。
僕は例によってお風呂でぼんやりこの箇所を読んでいて、彼が述べた内容もさることながら、
その語り口調から彼がこれまで経験してきた男女間の感情の齟齬の歴史と、そこから得た彼の確信の度合いに打たれました。
それは僕自身の拙い男女間の感情の歴史からも深く共鳴できるものだったからです。
さて、それから僕は彼が述べている男性を理解するための三つの妄想について、ぼんやり考えていました。
性的な妄想と、社会的な妄想と、個人的な妄想について。
女性が男性の性的な妄想を満たしてあげるには、その男性が喜ぶように、
例えば思いっきり甘えてあげたり、甘えさせてあげたり、いたぶってあげたり、じらせてあげたり、縛ってあげたり(笑)するわけですよね。
社会的妄想を満たしてあげるには、具体的には男性の有能さを賞賛するわけだけど、
例えば所属する組織の中で彼がいかにかけがえのない存在かをアピールしたり、社会的常識についての蔵志の深さに感心したり、
彼がどれほどカリスマ的な指導力を持っているかをウットリするような目で見つめながら称えたりしてあげるわけですね。
個人的な妄想を満たしてあげる場合にはどうするかというと、具体的には彼の自己イメージを愛すべきものとしてなぞることになるわけですが、
例えば「あなたってすごく悪ぶってるけど、ほんとはすごく優しい人なのね♡」とか、
「あなたってみんなにとても人気があるけど、このあいだひとりぼっちの時のあなたを見てわたしわかったの。あなたはすごく孤独。」とか言うわけです(笑)。
妄想にもいろいろあるけれど、彼があえて採り上げたこれら三つの妄想は、もう少し普遍的な概念に言い替えることは出来ないでしょうか。
性的な妄想というのは女性にまつわる妄想で、母的なものと関係がありそうな気がするし、
社会的な妄想というのはシステム的なもの、父的なものと関係がありそうな気がする。
個人的な妄想というのは、彼が彼のバーチャル世界の中で自分を見る時のミラーイメージで、彼がかぶっている(自分を喜ばせるための)イメージなんだろうな。
つまりこの三つの妄想世界というのは、「父」と「母」と「自分」という、三つのロールプレイング劇場というふうに言い替えることが出来るかもしれない。
男性はこれら三つの劇場の中を生きており、男性を喜ばせるためには、「母」の承認、「父」の承認、「自分」の承認という、三つの劇場で承認を受けることがポイントなのでしょう。
「ぶりっこ」というのは男性のロールプレイングゲームに自らすすんで参加してくれる女性たちです。
ぶりっこでない女性たちは、男性がこういった三つの妄想世界を生きているということを知らないので、
なぜ世の男性たちが、同性から見て明らかな「ぶりっこ」に惹かれるのか理解できないし、
そもそもそういった妄想世界をハナから馬鹿にしているので(笑)、なかなか自分からその劇に参加して役割を担おうとは思わないのでしょう。
でもひょっとすると男性は、劇を通じてしか女性を愛せないのかもしれません。
村上春樹はその返事の中でこのように述べています。
「ほとんどの女性は、妄想というものの機能を本当には把握できていない。
それこそが世界の恒久的な平和を損なっている、もっとも大きな要因ではあるまいかと僕は考えています。
今度そういうテーマで国連総会で演説をしようと思っています。というのはもちろん嘘です。いちいち断るまでもないでしょうが。」

2009/08/27
Kumamoto Day 2 & 3

旅行二日目の今日は乗馬。

この乗馬クラブには馬が40頭以上います。暑い日でした。

あぢ~~。

これはこの乗馬クラブの職員宿舎。
でもどうみてもメキシコ。

「ドンタコース!」
「セニョール・ムチャヘーンテ!」
「テキーラ・トルティーヤ・ベサメム~チョ!」
「アディオス アミーゴス!」
そんな会話が聞こえてきそうです(どんな会話やねん)。

カラム~チョ!

ソンブレ~ロ!!

「明日はオレは国境を越えるぜセニョリータ」

「ダメよ!国境の1マイル手前は警備隊がいっぱい。危険だわセニョール!」

「お嬢さん、オレはもうトウモロコシにはうんざりなんだよ。
じゃあな、ポルファボール!」

去っていくカルロス。悲しげに掻き鳴らされるレキント・ギター。

お昼は高菜めしとだご汁。
ごっつぁんです。

草千里でごわす(再び西郷どん)。

阿蘇山ばい。地獄の釜の底を見るがごとくたいね。

黒川温泉に到着でごわす。おいどん。

ギャラリーの素敵な飾り窓。

川べりの山葡萄。

この黒川温泉は川べりに沢山の温泉旅館が密集しています。

ここが今日泊まる旅館の玄関。

とても気持ちよく過ごせたなり。

どこもかしこも風情がいっぱい。

大きなあんどん。

涼しげなお料理。

おいしい馬刺し。

夜は更けて。

翌朝もいい天気。

三日目は帰る日。そのまえに熊本城へ。
黒と白のツートンのデザインが清冽です。

天守閣からの眺め。

そして飛行機に乗って大阪へ帰ります。


懐かしき山々。

伊丹空港に着陸。

このあとペットショップに預かってもらっていたチャーリーを迎えに行きました。
この写真は旅行の当日預けられに行くチャーリーです。
Kumamoto Day 1

おいどんは疲れた身体を休めるために二泊三日の熊本旅行に出かけたでごわす。

一泊目は内牧温泉にある旅館に泊まったでごわす。

日本茶はおいしいぞなもし。

こいつを履けば気分は西郷どんでごわす。

西郷どんは鹿児島でごわしたな。

ねぶたは青森でごわすな。

ぜんぞうどんの旅館でごわした。

鮎は美味ですたい。

履き物はこうして並ぶとシュールでごわすな。

暗い雰囲気がココロをなごませてくれるぞなもし。

露天風呂に入りに行ったぞなもし。

おいどんのこころもお湯に流される桶のようになりもうしたでごわす。

おいどんの足でごわす。

ちゃぷちゃぷしたでごわす。

だれもおらんかったぞなもし。いい気分ぞなもし。

見上げれば空が見え申した。

ぺたぺたぞなもし。

風情ぞな。

ほんなこつ。

玄関も風情がありもうす。

暗い階段ぞな。

木漏れ日ぞな。
明日は乗馬をして阿蘇山を見に行くでごわす。
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