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2015/10/25

キリスト教のシンボルはなぜ十字架か


6年前に抱いた疑問に対する自分なりの答えとして、以下覚書的に。

アイデンティティというのはたぶんバーチャルな心的世界における私という駒の輪郭のことだろう。
我々日本人にとってはその駒の輪郭というのは駒の内側から紡ぎ出されてくるものではなくて、他の駒との関係性という糸で紡ぎあげられた繭のようなもので、その繭の中で命が拍動している。

西欧人のアイデンティティはエゴ・アイデンティティ(自我同一性)といって、自分という駒の輪郭は明確であり、その駒は操作可能であり、その上部構造であるスーパーエゴがその駒を操作している。かつてスーパーエゴは神であったが、印欧語を採用した西欧人は主語すなわち「私」がスーパーエゴの権利を獲得する。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書第1章)

神を追い出して「私」がスーパーエゴになる。
これは神に対する明らかな謀反なので、西欧人は反逆罪という罪を負うことになる。これがおそらく「原罪」。
彼らが神に許しを請い、神と再契約するためには誰かが生け贄になる必要があった。それがキリストであり、彼が生け贄になることで生まれた再契約、それが新約だ。
キリスト教のシンボルが十字架、すなわちキリストの磔(はりつけ)であるのは、生け贄を神に差し出したことで得た権利(「私」がバーチャル世界の主人であるという権利)を神から買い取った、言わば「証文」としての意味があるからだと思われる。
キリスト教の聖典は新約聖書だが、「新約」は英語ではNew Testament。
Testamentとは証左、あかし。すなわち新約聖書とは神と取り交わした新しい契約書のことである。
(聖典が知恵の言葉というより「契約書」という商取引的な性質を帯びていることに我々はもっと意識的であるべきかもしれない)

悪魔に取り憑かれたひとに向かって神父が十字架をかざすという西欧のホラー映画でよくみられる行為は、おそらく魔除けのまじない的な意味もあるだろうが、その魔除けの効力の根拠として「私は生け贄を捧げて神からバーチャル世界の主人公たる権利を獲得した正統の主人である。おまえはその権利を有していないから去れ」というジェスチャーと解釈することも出来る。悪魔とは「私」に代わってバーチャル世界を支配しようとするもの、スーパーエゴである言語理性の外の世界の住人、無意識や情動など、脳の旧皮質の欲動と関係があるかもしれない。

我々日本人は主語を明らかにしない言語(日本語)を採用しているので、神との間でスーパーエゴを取り合いすることがない。
またそれ以前に我々のエゴは関係性によって構築されており、スーパーエゴによる操作ができず、むしろ操作不能性こそが我々のアイデンティティの特質であったりする。
我々日本人は神に反逆したことがないので原罪がない。原罪がないから生け贄もいらない。
だから我々日本人にとって生け贄をシンボル化した十字架というのは、結局ファッションアイテムの域を出ない。

今僕は新潮文庫の「こころの最終講義」を読んでいるんだけど、そのなかに「隠れキリシタン神話の変容過程」という章がある。
著者の河合隼雄氏が興味を持ったのは、日本人がキリスト教を受け入れるためにどのような加工を新約聖書に施したかということ。これが大変興味深い。
要点は二つある。ひとつは日本版新約聖書では原罪という概念がすっぽり抜け落ちているという点。さらにキリストがはりつけになった理由が人間一般の贖罪のためではなく、救世主を嫌ったヘロデ王による赤ん坊の大量虐殺の贖罪に変化しているという点。つまり我々日本人には、キリスト教の根本教義である「原罪」と「その贖罪としての磔刑」というお話をそのまま受け入れることがやはり大変難しかったということがわかる。

現代の日本人にとってキリスト教が受容可能かどうかということになると、その根本教義である原罪とキリストによる贖罪を抜きにして救いは可能かという問題に至る。
おそらくそれは西洋的自我を獲得した現代の日本人が、強くなったスーパーエゴでバーチャル世界を支配しようとして他者との軋轢に苦しんだ末に、スーパーエゴの独裁という事態を、キリストの磔刑に託して開放されるという形で可能なのではないか。それはかつて八木誠一氏が「キリスト教は信じうるか」(講談社現代新書)(p58)で述べておられた経験のことだ。
つまりキリストの贖罪によって「私」がスーパーエゴの座に就く権利を得るのではなく、彼の贖罪を通じて(彼の贖罪をみずからのスーパーエゴの抹殺ととらえ)スーパーエゴの座に就こうとする「私」を開放するということだ。



2013/10/02

左脳遮断体験

TEDにある脳科学者が脳出血で左脳の機能を一時的に失った時の体験が載っていました。
まだお読みになっていない方はぜひご一読下さい。非常に興味深い記事です。
普通なら激しい混乱とともにパニックに陥ってとてもこんなふうに冷静でいられないと思いますが、
自らが体験した稀有な感覚を、リアルかつ客観的に記述する作法はまさに一流の脳科学者に相応しいものです。そしてその記事の読後にそれが以前自分が書いた記事と関係がありそうだと感じたので再掲してみます(手前味噌(笑))。

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〈以下は2008/4/6のブログ記事「仮想世界に「私」が登場する瞬間」の再掲です〉
中枢神経を有する生物は脳の中にモデルとしての世界を持つことが出来る。
中枢神経とは仮想世界の入れ物のようなものだ。
仮想世界はそのままでは脳の中の単なる景色(view)だけれども、「言語」が誕生すると仮想世界は自動能を獲得して、まるでゼペットじいさんの作ったピノキオのように勝手に動き始める。
やがて仮想世界は現実世界に対して優位に立つようになる。
現実世界には過去も未来もないけれども、仮想世界には「言語」による未来と過去があり、ここではないどこかが存在する。時間的空間的自由を獲得した仮想世界は現実世界よりも優位な立場に立つとともに現実世界を変革するようになる。
仮想世界の言語の主催者ははじめは「神」だが、仮想世界に「私」が誕生することによって主人公は徐々に「私」にシフトし、やがて「神」は消滅する。ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」は、我々に「意識」が出現し「神」が消滅したのはつい最近(今から3000年前)であると述べている。(だが名実ともに「神」が消えたことを我々が知るのはもっとずっとあとのことだ)
では「私」はいつ誕生するのか。
viewとしての世界に私が登場するためには「viewとしての私」が必要である。
それは何によって獲得されるのだろう。
私は自分の顔を直接見ることが出来ないので、古い時代には似顔絵や水瓶の水をのぞき込むことでしか自己のイメージは得られなかった。やがて人々の生活に余裕が出来てみんなが自分の鏡(今風に言えばマイ鏡)を持つようになると「私」は急速に普及する。「鏡」という道具と「私」というシステムが疫病のように社会に広まった時代があったのだろう。
つまり仮想世界には三つのレベルがあり
A.中枢神経が生まれてviewとしての仮想世界が誕生するレベル。
B.「言語」が発明されて仮想世界が現実世界の優位に立つレベル。
C.広く鏡が普及して「私」が流行し「神」が消退するレベル。
そしてこれら三つのレベルを担うのは
A.は中枢神経のある生物たち。
B.は古代の人間たち。
C.は現代の人間たち。
以上で再掲終わりです。

TEDに掲載された脳科学者の体験を読んだひとは一種の臨死体験として死後私達はすばらしい幸福感に満ちた世界につつまれるのではないかと誤解するかもしれません。
しかし彼女が体験したのは死後の世界ではなく、左脳のフィルターを外した純粋な右脳の世界です。言語脳を持たない人間以外の動物もおそらくこのような世界を見ているのではないかと僕は思っています。

左脳というのは簡単に言うと自分を主人公にした物語を生み出している一種の「物語脳」と考えられます。
物語には過去と未来があり、筋書きがあり、役割がある。
我々は常にこの自らが編み出した物語の中を生きており、物語にどっぷり浸かったまま人生を終える
「幸福」という物語を追い求め、「不幸」という物語に縛られる。
仏教は迷妄が単なる左脳の作用にすぎないと教えており禅は左脳のスイッチの切り方を教えているのではないかと僕は考えています。
(→脳が脳から自由になるための二つの方法)。
そういう意味ではこの脳科学者は禅の悟りのようなものを体験したのかもしれません。
彼女の体験談が東洋の神秘に触れた西洋人を連想させるのはその辺と関係があるのでしょう(オイゲン・ヘリゲル著の「弓と禅」)。




2013/06/02

悪魔と修行

「原罪」と同様我々日本人にとって馴染みにくい概念に「悪魔」がある。
オーメンやエクソシストといった映画を観ると「神」や「天使」と同様、「悪魔」というキャラクターは欧米人の脳内劇場の大看板として専用の楽屋を与えられているような気がする。
欧米人ではない我々には本当のところは分からないが、彼らの心のなかには常に天使と悪魔がいて天使が勝つと善行を、悪魔が勝つと悪行に走るという、ディズニーアニメのようなこと(これとか)が本当に行われているのかもしれない。
彼らの脳内ではイデアが人格化しやすいのだろう。

日本人にはこの、悪行を悪魔のせいにするという習慣があまり見られない。
少なくとも日本人にとって「悪」は分割統治の対象ではない。
それは我々には人格神がなく、また悪魔という人格悪も持っていないからだろう。

さてでは日本人にとって「悪」とは何だろう。
「あいつはワルだ」とか言うけれど、我々の中では「悪」は悪魔というキャラ以前に積極的なイデアとしてさえも存在していないような気がする。それはむしろ「非道さ」だったり「わがままさ」だったり「幼稚さ」だったりというふうに心の自己管理の問題として捉えられているような気がする。

この日本人の「自己管理」ということと深いつながりがあるのが「修行」という言葉で我々は何かというとすぐに「まだまだ修行が足りません」と言う。僕は写真が趣味だけれども、写真関係のブログやSNSには驚くほど頻繁にこの「修行」という言葉が登場するし、実際自分でも使う。前述の「まだまだ修行が足りません」を筆頭に、「修行中です」「修行したいと思います」など、ここは禅寺かと思うほど人々は修行に明け暮れている。

これは日本人だけに見られる現象だろうか。
「修行が足りない」は英語では"have more to learn"とか"require more training"ということになる(英辞郎)。
ここには学習や訓練というイメージはあっても自己研鑚的なイメージは弱い。
Flickrでも外人がこれに類することを書いているのはみたことがない(彼らは"Catching up soon"とか"Catching up slowly"とかは言うけど、これは大雑把に言えば勝ち負けの世界の言葉で自己研鑚的な意味合いは薄い)。

つまり趣味にしろ仕事にしろ日本人は自己研鑚という座標軸の中を生きているのではないか、そして「善」も「悪」も、もちろんその社会への影響を抜きには語れないけれども、概念の出自としては主に自己研鑚という座標軸のプラス極とマイナス極として存在しているのではないか。
というなんだか収まりの悪い結論のまま今日のお話は終了です。
まだまだ修行が足りませんね。


2013/06/01

「原罪」なんか怖くない

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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

恐ろしいものは「地震・カミナリ・火事・オヤジ」、オヤジは絶滅危惧種だがその他は文字通り畏怖すべきもので、コミュニケーションの埒外にあるもの、その制御不能性、交渉不能性こそが、我々が自然界に感じる畏怖と神性の根幹である。

世界の大きな地震の2割が集中する日本。その地震による津波で営々と築いた家族と地域の歴史は更地となり石で家を作ると地震で下敷きになるからせっせと木の軽い家を立てても瞬く間に火事で燃えてしまう。台風の通り道にあるので、精魂込めて育てた収穫目前の稲が一夜で駄目になる。
水に流してチャラにして、またほがらかにイチからやり直す。
つまり日本に生きるということは制御不能、交渉不能の運命を甘受しながら生きるということで、我々は祈りはするが見返りは求めず恨みっこなしである。

それに対し自然は征服すべきもの、コオロギの声が雑音にしか聞こえない西洋人にとって
神性は自然界にはなく、むしろ怖いオヤジ系の人格神である。
怖いといっても西洋の神とヒトとの間にはちゃんと人格という連絡橋があって、そこに契約や義務や恩義といった交渉が存在する。
しかし交渉可能ならなぜ従わなければならないのかという当然出来(しゅつらい)する疑問に対し、乗り越えることの出来ない折り込み済みのハンデとして召喚される概念こそが「原罪」というもので、あんたは生まれた時から神に借金しているのだから彼に従うべきであり、返済を猶予してもらっているのだから感謝すべきだという理屈が成り立つ。
彼らが恐れているのは神ではなくて契約違反なのだろう。

人格神は原罪を要請する。
交渉不能性こそが神性である我々日本人にとって「原罪」という概念は永遠に理解不能だろう。







2013/03/17

神様の土地




たとえばパソコンのOSがそのパソコンの特質を決めるように
言語はその言語を用いる脳の特質を決定する。
印欧語族の脳の中で神は人格神として存在するために
神との間には、まるで人との付き合いのようにルールや義務や契約や恩義や
異なる人格神を奉ずるものとの間の殺し合いが発生する。
我々日本人がキリスト教やユダヤ教やイスラム教に感じる違和感はそのあたりに原因がありそうだ。

日本人の場合、神は人格というよりも脳内のひとつの区画であって
そこに何を放り込むか、何を建てるかは各人の裁量に任せられている。
その区画の使用法はその周囲の区画との関係で決まる。
したがって周囲の事情が変われば神の区画も変化する。
区画の大きさも決まっておらず、
大きなスペースが必要な場合は広くなるし
事情があって縮小しなければならないときは、それがなくならないかぎりどこまでも小さくなる。

むしろこの区画はその無名性にこそ意味があり
他の区画のあいだにあって不定形のバッファ(緩衝材)として
あるいは他の区画をスムーズに運用するための潤滑材として機能している可能性がある。

ある人にとってはそれは世間であり、
ある人にとっては自然界であり、
ある人にとっては地蔵(その土地に宿るもの)であり、
ある人にとっては先祖であり、
ある人にとっては仏やキリストであり、
ある人にとっては呪うべき運命(さだめ)であり、
ある人にとっては普段すっかり忘れ去られた休閑地である。

なぜ日本人は無宗教なのかと外人から聞かれたらニッコリ笑ってこう答えよう。
われわれに神はいないが神様の土地なら持っている。

2012/09/20

般若心経の電脳的解釈


これくふて茶飲め
仙厓画「これくふて茶のめ」




観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、
ブッダが深く思索を重ねた結果

照見五蘊皆空、度一切苦厄。
人間の身体も脳も脳の働きもすべてバーチャルだと気が付いて、すべての苦しみや行き詰まりをコントロール下に置くことができた。(そしてこのように言った)

舎利子。色不異空、空不異色、
(しみじみと)なあ舎利子くん。僕らの感じていることに嘘はないと僕は思っていたし、根拠のない妄想は到底現実ではないと思っていたんだ。

色即是空、空即是色。
でも驚いたことに僕らの感じていることは全てバーチャルだったんだ。そしてバーチャルこそが僕らの現実だったんだよ。

受想行識亦復如是。
僕らを取り巻く世界やそこから僕らが感じたり考えたりすることすべてが、実はバーチャルだったなんて信じられるかい?

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、
舎利子くん。僕らが日々感じている、世界を動かしている見えない力みたいなものもやっぱりバーチャルで、
生まれたとか死んだとか、きれいとか汚いとか、増えたとか減ったとか、そういったすべては結局僕らの脳が生み出したものだったんだ。

無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も、そしてそれらの総体から生まれるイメージも、全部バーチャル空間での出来事だ。

無眼界乃至無意識界。
つまり感覚受容器からインプットされる情報の総体としてのイメージ空間は脳内仮想現実ということだ。

無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽。
悩みというものは確かに存在するが、それは脳が作りだしたものにすぎない。
老化現象や死もまた確かに存在するが、それもまた脳の中だけにあるのであってリアルではない。

無苦集滅道。
苦しみやその原因である煩悩やそこからの悟りや悟りへ至る方法などを僕はずっと追い求めてきたが無駄だった。

無智亦無得以無所得故。
そもそも知識を得ることでこの問題が解決すると思っていたのが間違いだったんだ。

菩提薩埵依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
以上がブッダが言ったことだ。
ブッダのこのバーチャルリアリティ認識を理解すれば思考はより自由になり、
思考が自由になることで恐怖や本末転倒な考えから自由になれる。

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
過去現在未来を問わず、このことに気がついたものは真の自由を得てきたし今後も得ていくだろう。

故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
そういうわけでこれがもう究極のこの世界の認識形態であって、ここに一切の苦しみは終わり一切の偽りも終わる。

故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、
こういったことを忘れないように呪文にしておいたので
これを唱えるたびに思い出すようにしよう。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経
ギャテイギャテイハラギャテイハラソウギャテイボジソワカハンニャシンギョウ



「般若心経」というのはブッダの「バーチャルリアリティ宣言」みたいなものだ。
いま僕らのまわりにはテレビや映画やゲームなどのバーチャルリアリティがあふれているので
仮想現実という言葉が意味するものをイメージすることは難しくない時代になったけど
ブッダの時代に彼が「バーチャル」というイメージを獲得できたことは驚くべきことだ。

そしてこういったバーチャルリアリティという言葉をを容易にイメージできる今の日本だからこそ
彼の言いたかったことを理解できる素地は充分できていると思う。
それで僕みたいな門外漢が解釈するなんておこがましいが
僕なりに般若心経を電脳的に解釈してみた。

問題は空の取り扱いなんだろう。
僕らが生きている世界は「無」だと言われても、
目の前にあるパンはないって言うなら君は食べなくてもいいよ、僕が食べるまでだし。

つまり「ない」のではなくてありかたの問題だと。
実際それはあるんだけど脳内バーチャルリアリティとして存在している。

だから例えばパンがないことに絶望して自殺するというのは
パンがないという仮想空間で行き詰まっているという事態に対してパソコンの電源を切ってしまうという、ちゃぶ台返しみたいな行動に出ているわけでそれは本末転倒じゃないかと。
パンしか見えないパンデフォルト空間からスパゲッティデフォルト空間に移動すれば、実はパンの横にスパゲッティがあることに気が付いてスパゲッティが食べられるかもしれない。

人間は自分の住む仮想空間を絶対視してしまうためにやすやすと絶望してやすやすと電源を切ってしまう傾向がある。
だから悲しむなとはいわない。悲しみ続けるなと。怒るなとはいわない。怒り続けるなと。
電源は切ってもいいけど、切らなくてもいい。

なおこの般若心経の電脳的解釈にあたっては
リービ英雄氏の般若心経英訳やネット上での様々な仏教解説などを参考にさせていただきましたが
これは学術的論考ではなく一個人の奔放な解釈であり、語義理解の間違いは全て私個人に帰するものです。

追記
仏教における中道とは
わざわざ道の端に行くな、道の真中にいれば良いという意味ではなく
人間というのはほっとくと必ず「あれかこれか」という極へ行きたがるが
そのどちらにも行かず「宙ぶらりん」でいることが重要であると。
その、宙ぶらりんで揺らいでいる状態を維持することがいかに難しいか。

2009/08/12

神様は標準装備

今朝車で通勤中に、先日ブログで書いた「アジア人にとって神様はオプション」というセンテンスをぼんやり思い出しているうちに、「標準装備」という言葉が天啓のようにヒラヒラと頭の上に舞い降りた(※)。
そうか。欧米人には神様が標準装備なのかもしれない。



I know jesus is on that mainline Tell him what you want Jesus is on that mainline Tell him what you want Jesus is on that mainline Tell him what you want Call him up and tell him what you want

(電話交換士) 「神様と通話可能です。お出になりますか? お望みは何なりと。 神様と通話可能です。 ご希望は何でしょう。 神様と通話可能です。 お望みは何ですか? 直接彼とお話下さい。

Well, the line aint never busy Tell him what you want Wo, that line aint never busy Tell him what you want Well, the line aint never busy Tell him what you want Keep on calling him up And tell him what you want

ええ。回線がつながっています。いつでもどうぞ。 お望みは何なりと。 ええ。回線はつながっています。 お望みは何なりと。 はい。回線はつながってますよ。 お望みは何ですか? しばらく彼とお話下さい。 お望みは何でも叶えてくれます。

Well, if you want his kingdom Tell him what you want If you want his kingdom Tell him what you want If want his kingdom Tell him what you want Call him up, call him up, call him up, call him up You can call him up and tell him what you want

はい。神の国がお入り用ですね。 ではそうおっしゃって下さい。 神の国がお入り用の方は 彼にそう伝えて下さい。 神の国に入りたい方は 直接彼にご相談下さい。 さあどうぞ。さあどうぞ。さあどうぞ。 直接彼とお話下さい。

Well, if youre sick and wanna get well Tell him what you want Well, if youre sick and you wanna get well Tell him what you want If youre sick and you wanna get well Tell him what you want Call him up and tell him what you want

はい。ご病気の方は彼にご相談下さい。 ええ。早くよくなりたい方は彼にご相談下さい。 そうです。すぐによくなりたい方は直接彼とお話下さい。 どうぞ彼とお話下さい。

And if youre feeling down and out Tell him what you want And if youre feeling down and out Tell him what you want And if youre feeling down and out Tell him what you want Call him up and tell him what you want

落ちぶれて行き詰まった気分の時こそ 彼にご相談を。 滅入ってたまらないときは 彼と話をして下さい。 無一文でどん詰まりなら あなたの望みを言ってみて下さい。 彼にあなたの望みをご相談下さい。

I know jesus is on that mainline Tell him what you want Jesus is on that mainline Tell him what you want Jesus is on that mainline Tell him what you want Call him up, call him up, call him up, call him up Call him up and tell him what you want

はい。お出になります。 どうぞお話下さい。 イエス様とはつながっています。 どうぞお話下さい。 イエス様と通話可能です。 お望みは何ですか? さあどうぞ。さあどうぞ。さあどうぞ。 直接彼とお話下さい。
"Jesus On The Mainline" Ry Cooder 1973



脳を携帯電話に例えると、日本人の携帯では「神様」はオプションだけど、欧米人の携帯は神様が標準装備だ。
彼等に言わせれば、「神様」が標準装備なのはあまりに当然すぎて、「神様」の付いていない携帯なんて、ありえないわけだ。
日本人の携帯に神様が付いていないのを知った欧米人は、電話機能のない携帯を見るような目つきで、「アンビリーバブル」と言う。
ああ、それでようやく「信仰を持たない日本人」を彼等が見るときの目つきと、それを持っていないことでなんとなく後ろめたく感じる日本人の関係がわかった気がする。
主語を省略しない印欧語族の脳にはあらかじめ「神様」がインストールされており、主語を省略する日本人の脳には「神様」はインストールされていない。
インストールするためには別途購入が必要なのだ。 でもその必要を感じている日本人は1%に過ぎない。
ほとんどの日本人は「神様」というアプリの必要性を感じずに生活しているが、そんな日本人でも窮地に陥ると「ああ、こんなとき「神様」があったらなぁ」と思ったりする。日本人はこれを「困ったときの神頼み」と言う。
日本人は基本的に「神様」というアプリなしであまり困っていないし、「神様」というアプリの有効性を信じていないけれども、すごく困ると、このアプリがあったらいいのにと考える。 でも神様にお願いしても望みがかなえられることは少ない。 そんなとき日本人は「神も仏もないものか」と言う。
僕はむかし大学浪人で京都の近畿予備校という予備校に通っていたけど、この予備校には英語の橋本先生という老いた名物先生がいた。 この先生は熱心なクリスチャンで、英文解釈の授業中にしばしば宗教について言及し、キリスト教の信仰がいかに高邁で純粋であるか、それに対し日本人の宗教に対する態度を「御利益(ごりやく)宗教」であると痛烈に罵倒していた。
この先生は「~したまえ。」という口調が特徴的で、「諸君、猛勉(激しく勉強すること)したまえ。」という彼の口癖を、僕らはよく真似して仲間と面白がったものだ。
確かに日本人は宗教を道具と考えているふしがある。 ごりやくがあるかどうかが、「宗教」というアプリをインストールするかどうかの基準であり、役目が終わったらアンインストールするのだ(笑)。 欧米人には想像も付かないことだろう。

【追伸】 この文章を書いたあと、日本人にとっては神様はアプリでアンインストールできるけど、欧米人の神様はアンインストールできないということから、ひょっとすると欧米人にとって神様はOSなのかもしれないと思いました。OSを交換するということは人格の同一性が失われるということだもんね。
(※)それにしてもこういうひらめきはどうしていつもお風呂に入っているときや車を運転しているときにやってくるんだろう。こういうのは3B(Bus(車の運転中)、Bath(入浴中)、Bed(就眠中))の時に降りてくるというのは本当だな。

2009/08/07

脳が脳から自由になるための二つの方法

R0012297

世界の人口の33%はキリスト教徒なのに、日本のクリスチャンは1%らしい。
西洋化した国のほとんどはキリスト教国だけど、日本のキリスト教徒の少なさは異常。
戦国時代に宣教師がおおぜい日本にやってきて、さかんに日本にキリスト教を布教しようとしたけどだめだった。


R0012301


初めに言葉があった。
言葉は神とともにあった。
言葉は神であった。
全てのものはこれによって出来た。
出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言葉に命があった。
そしてこの命は人の光であった。
光は闇の中に輝いている。
そして闇はこれに勝たなかった。

これはヨハネによる福音書第1章だけど、西洋人の「言葉」に対するこだわりは日本人とは随分違う。言ったか言わなかったかがすごく重視されるし、自分の正当性を言葉を尽くして説明しようとするし、相手にもそれを要求する。
彼等の住む世界では、黙っていることは許されない。
僕らにとってはどうでもいい定冠詞や不定冠詞の有無も、彼等にとっては大きな意味があるようだし、なにより英語では主語を省略することがほとんどない。        
英語は主語を省略せず、発話者の主体を明確にする言葉だ。
発話の内容に必ず主語が付くというのは、発話内容というバーチャル世界の主人公(神)が明確に存在するということなんだろう。
たぶんキリスト教における「原罪」というは、人が言葉によってバーチャル世界を創造し、話者自らがそのバーチャル世界の神になることを意味しているのだろう。

人は脳(言葉)の働きによってお話(バーチャル世界)を創造する。
そしてそのお話はしばしば話者を苦しめる。
人は自分の作ったお話に縛られて不幸から逃れられなくなる。
不幸とは人の脳が人にもたらす病のことなのだろう。

世界には様々な宗教があるけれども、大きく分けるとユダヤ・キリスト・イスラム教系列(神様は偉大なり!系列)と、仏教系列(悟りや気づきが大切系列)があるような気がする。

人はそれぞれ自前のお話に固着して苦しむんだから、列車の線路のポイントを、ガチャンと切り替えるように、脳のスイッチを神様系の巨大なお話に切り替えることで、個人の不幸なお話の引力圏から脱出し、大きなお話の引力圏に入ることができる。
なぜ西洋人はカミサマが好きかというと、西洋人は言葉の引力が強すぎて、脳のスイッチを切ることが出来ないんだろう。彼等はスイッチを切るかわりに、スイッチを切り替えるという方法をとるんだな。きっと西洋人は脳の病から逃れるために神様系の宗教を作ったのだろう。
西洋人にとっては、神様はオプションではなくて必需品なのだ。

仏教はスイッチを切り替えるのではなく、スイッチを切る(!)ことによって個人のお話をチャラにする。きっとアジアの人々は、西洋人ほど言葉に縛られていないので、言葉によるバーチャル世界のスイッチを切るのは西洋人よりは得意なんだろう。
日本人にとっては、神様は必需品じゃなくてオプションなのだ。

だが、より大きな強いお話のスイッチを切るのは簡単ではない。
どのようにしてスイッチを切ったらよいかというと、身体を使うという手がある。

脳は言葉を使ってお話を作るけど、身体は言葉を持たないのでお話を作らない。
ふだんカラダは脳の召使いだけど、これを逆転して、カラダが脳を召使いにすることでお話のスイッチを切る。
例えば座禅や、読経や、写経や、舞踊や、呼吸法やお掃除などはカラダをご主人様にすることで脳のスイッチを切るという意味があるんじゃないだろうか。

因みに本を読むこと、お話を聞くこと、映画を観ること、テレビを観ること、音楽を聴くことなどは、自分のお話を、自分とは違うお話に切り替える方法なんだろうな。

いやたぶん間違いだらけだと思います。
そんなことはわかりきっています。
お願いですからどうかほっといてください(笑)。



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2009/06/26

「父」の不在

「Abraham and Isaac」1634年レンブラント



これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(注:燔祭とは犠牲の動物を祭壇で焼き、神に捧げること)

アブラハムは朝はやく起きて、ろばに鞍を置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。
そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
こうしてふたりは一緒に行った。
彼らが神の示された場所に来た時、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべに手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。


これは旧約聖書の創世記第22章からの抜粋である。
神はユダヤ教の祖アブラハムに息子の殺害を命じる。
アブラハムもその息子イサクも咎められる理由はなにもない。
ただ信仰を試すというだけの理由で息子の殺害を命じられる。
命令する神も神だが、命を受けたアブラハムも、「どうして息子を殺さなければならないのか?」などとは問わず、歯向かいもせず、悩むことも嘆くこともせず、こう言ってよければ、まるで事務作業のように淡淡と事を運ぶ。
理屈のない不条理な、非情の世界。
旧約聖書には理不尽な境遇をただひたすら堪え忍ぶ「ヨブ記」などの話もある。
この世界では「父」の「ひと」に対する優位は圧倒的である。


これに対し新約聖書の「神」は、ひとの弱さを許す神である。
その許しは、イエスの磔刑によってもたらされる。
この許しによって、「父」と「ひと」の位置関係は並列となる。
並列ではあるが、ここには明らかに「父」がいる。
ニーチェが「神は死んだ」と言い、ジョンレノンが「僕らはイエスより有名」と言っても、
それは神が存在するから言えることだ。
存在しないものにとやかくいえるものではない。


「父」の特性とは何か。
(河合隼雄『母性社会日本の病理』より)
「これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。
それはすべてのものを切断し分割する。
主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供をその能力や個性に応じて類別する。
極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。
父性原理は、このようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊にいたる面と、両面を備えている。」

「父」は「区別」し、「評価」し、「裁く」。
「父」は「法」によって「分断」し、「断罪」する。
「父」は「非情」である。

村上春樹はエルサレム賞の受賞講演で「システム」が個人を損なうことについて言及し、自分は「壁」よりも「卵」の立場に立つと表明した。
彼の作品に一貫してみられる「父」的なものの不在と関係がありそうな気がする。
また彼がイスラエルという、まさにユダヤ教の「父」の国のまっただ中でこのような発言をしたことも非常に象徴的だ。
「父」は自分の小さな分身として「システム」というものを作り上げて、自分がいない場所でも自分の機能を発揮させようとするからだ。

では「母」の特性とは何か。
(河合隼雄『母性社会日本の病理』より)
「母性の原理は「包含する」機能によって示される。
それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子である限り」すべて平等にかわいいのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。
しかしながら、母親は子供が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子供の危険を守るためでもあるし、母ー子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を飲み込んでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、飲み込み、しがみつきして、死に至らしめる面を持っている。」

僕は楳図かずおのファンだけど、彼の作品は「母」というものの底知れぬ恐ろしさと、それとは裏腹に「母」への限りない思慕を中心に作り上げられている気がする。「漂流教室」では時空を超えた母の愛が描かれている。

ユダヤ教やキリスト教のような明らかに父を持つ宗教を、我々日本人は持たない。
日本に居るのは母だけである。
「母に捧げるバラード」はあるが、「父に捧げるバラード」はない。
森進一は「おふくろさん」と歌っても「おやじさん」とは歌わない。
かあさんがよなべをして手袋を編んでくれるが、お父さんはその時何をしていたのだろう。
太平洋戦争で特攻隊は「おっかさーん」と叫んで死んでいくが「おやじー」とは叫ばない。
日本では非情な断罪は共感を得ない。
日本で好評を博すのは「正義」ではなく、三方一両損のような大岡裁きである。

「日本」に「父」は居ない。
「日本」というバーチャル世界における「父」という駒の存在は限りなく小さく、「母」という駒の存在は限りなく大きいけれども、その理由はどうも日本語という言語に関係があるのではないかという気がする。

月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」によれば、様々な国の言語を比較すると、母音の比重の大きい言語では主語や人称代名詞が省略されやすいという。
日本語には、胃(い)、鵜(う)、絵(え)、尾(お)などの一母音単語や、
愛(あい)、合う(あう)、青(あお)、言う(いう)、家(いえ)、上(うえ)、魚(うお)、甥(おい)などの二母音単語といった母音だけで出来た単語がたくさんある。
日本語では語尾に母音が来る確率が100%であるのに対し、英語では25%にすぎない(日本語をローマ字で書くとすべての単語が母音で終わり、子音で終わる単語は存在しない)。英語では命令形を除いて主語を省略することはないが、日本語では頻繁に主語を省略する。日本語のほかにポリネシア語も日本語と同じく高率に母音を重視した言語だそうで、ポリネシアも主語を省略することが多いという。そして母音の比重が大きければ大きいほど、その言語では人称が省略される比率が高くなるという。

なぜ母音の比重が高くなると人称が省略されるのか。
その原因を月本氏は以下のように説明する。
母音は声帯を動かす段階で生成され、子音はその後の舌、唇、歯などの形を変えることで生成される。したがって発声の準備は母音が先である。
さて、欧米人は母音にあまりなじみがないので、母音は言語野のない右脳で処理されるが、日本人は母音を多用するので、この音は言語野のある左脳で処理される。
欧米人は母音を右脳で聴くが、母音を多用する日本人は母音を言語野のある左脳で聴くわけだ。

さて、欧米人が発声するまでの過程を追ってみよう。
欧米人は母音の準備を右脳で行う。
この右脳には自他を区別する認識領域が存在する。
信号はこの自他の認識領域を刺激してから脳梁を通って左脳の言語野に達する。
この間の時間の経過は数十ミリ秒。
欧米人はこの数十ミリ秒の間は文章を作ることが出来ない。
この数十ミリ秒の間に先ほど刺激を受けていた自他の認識領域によって人称が準備され、「I(アイ)」と発声し、続いてようやく文をしゃべることが出来る。
「love you.」

日本人は母音の準備を左脳で行いそのまま言語野を刺激して発声する。
このあいだの信号の伝達は瞬時に行われ、当然右脳の自他の分離の認識領域は眠ったままでしゃべる。
「愛してる。」


さて、では主語を省略することは僕たちの発想にどんな影響を与えるだろうか。
主語を省略すると、発語者の主体の境界がおぼろになり、責任の所在がはっきりしなくなる。
責任の所在がはっきりしなければ、分断し、区別し、評価し、裁くことが困難になる。
「日本」というバーチャル世界では、そこで運用される言語のために「父」が育たない。
抑圧されてきた「父性」や「男性性」はごくたまに激しく暴発し、歴史に禍根を残す。
「父性」や「男性性」が社会の中で生き生きと、あるいは健康な形で息づいていないため、それがごく稀に歴史の表面に姿を現す時には、非常に拙い、粗暴な形で表面化する。
その悪い面だけが、後味として残る。我々はいまだにそれをぼんやりと反省している。
だがこの国は、卑弥呼の時代からそもそも「女性の国」だったし、実は今もそうなのだ。
僕がちゃんとした父親になれなかったのも、それが原因だったのだ。
唐突にあらわれたわけのわからない言い訳で、今日のお話は終了です(笑)。

えー、これは学術論文ではなく、間違いだらけの文章です(それにしてはえらそうな書き方ですが(笑))。
単なる思いつきを文章にしただけのものですので、興味のある方のみお楽しみ下さい。




2009/06/17

恥ずかしいという感情の起源について

主なる神はアダムとイブにエデンの園にある知恵の実だけは食べるなと命じた。しかし二人は掟を破ってその実を食べてしまう。その途端、二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉を身にまとった。

恥ずかしいという感情はどこから生まれるのだろう。
素っ裸で外に飛び出したら往来の真ん中だったり、
満員電車の中でおならをしてしまったり、
演奏の発表会で間違って素っ頓狂な音を出してしまったり、
自慢げに話した内容がまるっきり的外れだったことに気付いたり、
外出から帰ってきたらズボンのチャックが全開だったことに気付いたり。

共通するのは、
「あらまほしき規範からの逸脱の自覚」である。
自分は本来は調和の側にいるはずなのに調和に対し無頓着な人間であると誤解されるような状況に陥ったこと。
調和とは、あるべき自分にそぐう状態にあること。
あるべき自分とは、私が抱く世界のバーチャルイメージの中における「私という駒」の纏っている姿勢のことだ。

誰がその駒にその姿勢を纏わせたのか。
それはそのバーチャル世界がその駒に課した役割だから、私にその姿勢を纏わせたのはバーチャル世界を想像した私自身に他ならない。

そしてそのバーチャル世界を生み出したのは「言葉」であり、「智恵」である。
智恵の実を食べたというのは、自前のバーチャル世界を生み出す能力のこと、つまり言葉のことだ。
自前のバーチャル世界を持つことは、そのバーチャル世界の掟を自分で作り出すということで、つまり私はバーチャル世界の神なのだ。
人は言葉を持つことでバーチャル世界の神になる。

罪というのは言葉によって人間が自らバーチャル世界の神になることだ。
英語ではすべての文章に主語が必要だ。
私は、で始まる文章はすべてI(アイ)を省略できない。
つまり西欧人はすべてのバーチャル世界に私という刻印を押す民族なのだ。
しかし日本人は主語を使わない。
日本人は極力自分という刻印を押したがらない民族だ。
もちろん日本人もバーチャル世界を作っているのは自分なのだが、そのことに対し私たちは意図的に無自覚だ。
日本人に罪の意識が希薄なのはそのせいかもしれない。

イエスは何をしたか。彼は「私という刻印(=原罪)」とともに死に、いったん「私という刻印」を神に返したのち私のバーチャル世界に「神」という駒を導入したのだ。
「私という神」をいったん神に返さなければ「神」という駒は手に入らないからだ。
以後このバーチャル世界では「神」と「私」が並んで歩くようになる。

「私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7:15-24)

「肉体によって弱められた律法にできなかったことを神はしてくださいました。つまり自分のひとり息子を罪の体のかたちで世に送り、わたしたちが肉でなく律法を全うして生きられるように、肉のうちにある罪を処断してくださったのです。」(ローマの信徒への手紙8:3-4)

(以上は私のひとりごとです。たぶん勘違いしているので放置して下さい)。

2009/06/16

sign of the cross


R0011249

キリスト教のシンボルである十字架はイエスを磔にして吊している様子を表している。
だがある宗教が自分たちの宗教の創始者が殺された様子をシンボルマークにするというのは、考えてみると異様なアイデアだ。
例えば獄門打ち首になった晒し首をシンボルにする宗教や、釜茹でにされた創始者が煮えたぎる油釜の中で苦しんでいる様子をシンボルにする宗教を想像してみれば、それがいかに奇妙な宗教かがわかる。

ひどい目に遭わされた創始者の様子をシンボルにするのは「この恨みを決して忘れない」という決意表明以外の何ものでもないが、キリスト教のこのシンボルは、イエスが我々の罪を神に許してもらうために自ら生け贄になってくれたというありがたいしるしなのであって、決して「恨みはらさでおくものか」という決意表明ではない。

みんなの罪はおいらが引き受けた。
おいらがみんなの罪を背負って生け贄になることで、みんなの罪は神様から許されるんだという。

僕自身かつて新約聖書を真剣に読んで、この宗教を通じて世界と和解した経験があるので、聖書にはたくさん感動させられたけれども、一番理解できないのは「罪」、あるいは「原罪」という部分だ。
「愛」については賛同できるにもかかわらず、「罪」を背負ってイエスが我々の代わりに死んでくれたという、おそらくこの宗教にとっては最も根幹の部分こそが同時に僕らが一番「わからない」部分なのだ。
この「罪」という言葉は、僕たち日本人にはどうにもなじまないような気がする。
彼等にとって一番大事な部分が、僕らにとっては一番不可解なのだ。
それはたぶん西欧の人たちの世界認識と、僕たちの世界認識の根本的な違いに起因しているのではないかという気がする。

(後日記:この問に対するひとつの答えを6年後に記す




2008/12/12

日本人の無宗教

日本人の無宗教というのは宗教を「持たない」というネガティブな姿勢ではなくて
「宗教を持たない」というポジティブな姿勢である。

私達は宗教というものがついには一個の「物語」であり、物語を選択しない自由もあるということを無意識に知っている。
日本人の特性は、宗教の有無よりもう一つ上のステージ、「宗教という物語を私達は採用しない」という立場からもたらされる。

私達は「現象の上をたゆたう身軽な愚か者」としての立場を無意識のうちに選んでいる。
そしてそれはその行動においてはすぐれて宗教的なものだ。
西欧の一般的な宗教が半周目とすれば私達の無宗教は回り終えて一螺旋上の原点に回帰した立場といえるかもしれない。

そして私達はそれを意識せずに行っている。
だから西洋人から、あんたがた日本人には宗教がない、嘆かわしいことだと言われても反論できない。西洋人からそういわれると、宗教を持たなくちゃいけないんだろうかと自問したりする。また宗教がないにもかかわらず自らがすぐれて宗教的な特性を持っていることをうまく説明できない。

ある日西洋人がやってきて、あんたがた日本人はスパゲティーを食べない。嘆かわしいことだという。西洋人からそういわれると、スパゲティーを食べなくちゃいけないんだろうか、そういえば外人はみんなスパゲティーを食べている。なぜ我々はスパゲティーを普段食べていないんだろうと自問したりする。
ある知識人は日本が偉大な思想家を輩出しないのはスパゲティーを食べないせいだという。またなぜ私達はスパゲティーを食べていないのにこんなに栄養状態がいいんだろうと不思議に思う。
それは私達はスパゲティーも食べたけど、やっぱりお米の御飯の方がおいしいということを知っていて、スパゲティーを食べたことがあることを忘れてしまっているからかもしれない。あるいはスパゲティーは食べたことはないけれども、お米だけで充分すぎるほど幸せなので、あえてスパゲティーを食べたいと思わないのかもしれない。
だから私達から見ると西洋人がスパゲティーを食べているのを見て、妙なものを食べているなとは思っても、スパゲティーを主食にしようとは思わないし、スパゲティーを食べている人に向かって、お米を主食にしたら?などとお節介を焼いたりしない。お米で充分幸せなので、もうこのことは私達のテーマではないのだ。

何を食べたらいいかは、もはや僕達のメインテーマではない。
それはかつて僕達のメインテーマであったかもしれないが今はそうではない。
僕らが一周回り終えて原点に回帰したというのはそういう意味だ。
西洋人にとっては、何を食べたらいいかはまだ依然として彼等のメインテーマである。
彼等は同じスパゲティーなのにカルボナーラがいいかペペロンチーノがいいかを巡って殺し合いをする。
あるいはスパゲティーを食べない民族の口をこじ開けてスパゲティーをむりやり押し込もうとする。
どうしてもスパゲティーを食べようとしない民族を皆殺しにしたりする。
僕達はただ御飯を食べて「おいしい」という。

2008/12/09

イエス湖上を歩く

ガリラヤ湖でイエスは弟子たちを舟に乗せ向こう岸へ向かわせる。
陸から離れたところで舟は強い逆風にみまわれ漕ぎ悩む。
イエスは湖上を歩いて弟子たちの舟に近づく。
弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ恐怖のあまり叫び声をあげる。
イエスは彼らに話しかける「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
ペトロは「主よ、あなたでしたらわたしに命令して水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言う。
イエスが「来なさい」と言ったので彼は舟から降りて水の上を歩きイエスの方へ進む。
しかしすぐに強い風に気付いて怖くなり沈みかけ叫ぶ「主よ、助けてください」
イエスは彼を捕まえて言う「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」


「信仰」という物語を信じることにより我々には不可能と思われていることが可能になるということを彼は顕現させたかったのだろう。
しかし信仰する者には今後数多くの艱難辛苦が待ち受けているだろうということ、強い信仰なくしてはその困難を乗り越えることは出来ないだろうということをこの話は示唆している。
その視点で読み返してみるとこの話が明瞭に「寓話」の形式を取っていることがわかる。

問題は彼が本当に湖上を歩いたかどうかではなく、この話が読む者に何を伝えたがっているかなのだ。
そしてそれは彼の「復活」においても。



追記:
向こう岸とは天国。
舟は教会。
イエスは信仰の顕現者。
逆風は文字通り逆境。
動揺する舟は教会の受難。
誘われて舟から下りるペトロは教会の外で神と相対する個人の姿。
風に驚いて溺れかけるペトロは信仰の揺らぎ。

2007/06/08

私たちはモードの多様性に開かれているか?

内田樹先生の張良のお話。
「中国は漢の武将である張良は、若き日の浪人時代に武者修行の旅先で、黄石公という老人に出会う。
太公望秘伝の兵法の奥義を究めたというその老人は張良に対し、君は見どころがあるので奥義を伝授してやろうという。
張良は喜んで、それからは先生にお仕えするのだが、先生はいつまで経っても何も教えてくれない。
ある日張良が街を歩いていると、向こうから先生が馬に乗ってやってきた。
そして、張良の前まで来るとぽろりと左足の沓(くつ)を落とす。
先生は張良に向かって「拾って履かせよ。」と命じる。
張良は内心ちょっとムッとするが黙って拾って履かせる。
別の日、また街を歩いていると、再び馬に乗った先生と出会う。
すると先生は、今度は両足の沓をぽろぽろと落として
「張良、拾って履かせよ。」という。
張良はさらにムッとするが、黙って先生に靴を履かせる。
その瞬間、張良は全てを察知し、太公望秘伝の兵法の奥義を会得して免許皆伝となる。」

馬上の黄石公は草履を落として言う。
「張良、拾って履かせよ。」

なぜ私たちは世界の不条理に腹を立てるのだろう。
それは私たちがあらかじめ自分で想定した物語の中を生きているからである。
腹を立てると私の精神と身体から自由が奪われ、動きにしなやかさが失われ、膠着し、斬られてしまうのだ。


不幸とは、自分の作ったお話にがんじがらめに縛られて身動きのとれなくなった状態である。
この世界には、不幸から抜け出すための宗教が二種類ある。
一つは、強力なお話に引き込んで、私個人の小さなお話をもっと巨大ななお話にすり替えてしまう宗教である。お話が巨大であることと、膨大な数の他者とお話を共有することで「閉塞」を免れることができる。
もう一つは、あなたを縛っているのはあなた自身の物語であり、それは単にあなたの作ったお話にすぎないということを教える宗教である。いわば「お話」という舞台をちゃらにしてしまうことで「閉塞」や「固着」から自由になるわけである。これは宗教というよりも「知恵」に属する。
前者がユダヤ・キリスト・イスラム教で、後者は仏教である。
仏教の知恵の本質は二つの認識に集約される。

A. 全ては変化する
B. 全ては関係し合っている

この二つの認識からイメージされる像は、空間に漂う編み目(ネット)の結び目が互いに信号を発しながら互いに位置関係を変化させつつ出現と消退を繰り返している様子である。

我々の不幸は、AやBに対する認識の欠如から来る。それは私たちの頭が悪いせいではない。

A'. 対象を固定したい
B'. ある限られた系の中だけで考えたい

という傾向を脳が持つからである。
脳の働きの本質は、外界のモデルを脳の中につくって、それを操作することである。
操作する対象が自由に変化したり、環境がオープンで関連因子が3体以上に増えると計算不可能になって困る。だから脳は油断するとすぐにAやBを否定するのである。
これは脳のもっている「業」である。ガウタマシッダールタはそのことに気付いたのだろう。
Aの否定は、自分にとって好ましいことがずっと安定して持続することを望むこと、あるいは、好ましくない事態が一向に変化しない(と思いこんで)嘆くこと。
Bの否定は、限定した関わりしか持とうとしないこと。

「私」というのは固有の係数ではない。入力される値によって出力を変化させる関数であり、また私たちは種々の関数の間を渡り歩くことも出来るのである。

私たちは、ほとんどいつも単一のモードで行動している。
ほとんどいつも。
どうすれば単一のモードから抜け出せるだろう。
その方法の一つが、ありのままの外界を眺めることである。私たちは外界のディテールを見つめることでモードの多様性に自己を解放することができる。

「私は一瞬一瞬モードを選択することができる」ということ。
自己の内面しか見ず、単一のモードから抜け出すことが出来ないことが不自由であり、悲しみであり、遷延する怒りであり、不幸である。

禅においては、悟りは常に脚下にある。
脚下とはすなわち「地面」であり、それは「私のお話が終わるところ」であり、「ほかのお話が始まるところ」である。
不幸な人が自殺するのは、自分が作ったお話からどうやっても逃れることができないために、そのお話の創作者、つまり自分を破壊することで解放されるのだ。
こんな話がある。ある男が破産して、自殺する前に今東光和尚に一目会いにいった。和尚は男に深く同情し、債権者に対する怒りを発してこう言った。「おれが今からそいつの所へ行ってしょんべんしてきてやる!」男はこれを聞いて自殺しなくてすんだという。またある大学生が自殺を考えて、週刊誌の人生相談をやっていた開高健に手紙を出したところ、開高健は「いっぺん引っ越ししてみたらどうや」と答えたという。
まあ、いつもこのようなやり方が成功するわけではないが、彼らが救われたのは、違う「お話」の導入によって、自分を縛っていた「お話」からの解放がもたらされたからだろう。

私たちが見ている世界は、リアルではなく、「私のバーチャル」であり、私はそのバーチャル世界の登場人物であり、私はそのバーチャル世界の中で、リアルから来る刺激を受けて、常に後付の物語をその本にぺたぺた貼っていく。その後付の物語のモードが単一なのである。この単一のモードで構成される物語が、後追い的に私の世界に対する姿勢と行動を規定している。

青年期というのは多様なモード(物語)を学習する時期である。いろんなものに熱中する。熱中というのはモードの学習過程である。大人になるともうあまり熱中することがなくなって寂しく感じ、熱中できる人をうらやむものだが、大人というのはある程度多様なモードを手に入れてしまったのだから、熱中するものがほとんどなくなっているのが当然なのである。
大人というのは手に入れた多様なモード間を移動できる能力を有している人である。
モードを選択できる人。それが大人である。不幸というのは、単一のモードでしかお話を作れない人、あるいは単一のモードから離脱できない人である。喜びというのは、あるモードからの解放、もしくは新しいモードの知覚である。悲しみとは愛着するモードからの外的な力による離別である。人間とはモードとの固着と離別を繰り返す生き物である。それが人間の定義でもある。






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