2009/06/16
sign of the cross
キリスト教のシンボルである十字架はイエスを磔にして吊している様子を表している。
だがある宗教が自分たちの宗教の創始者が殺された様子をシンボルマークにするというのは、考えてみると異様なアイデアだ。
例えば獄門打ち首になった晒し首をシンボルにする宗教や、釜茹でにされた創始者が煮えたぎる油釜の中で苦しんでいる様子をシンボルにする宗教を想像してみれば、それがいかに奇妙な宗教かがわかる。
ひどい目に遭わされた創始者の様子をシンボルにするのは「この恨みを決して忘れない」という決意表明以外の何ものでもないが、キリスト教のこのシンボルは、イエスが我々の罪を神に許してもらうために自ら生け贄になってくれたというありがたいしるしなのであって、決して「恨みはらさでおくものか」という決意表明ではない。
みんなの罪はおいらが引き受けた。
おいらがみんなの罪を背負って生け贄になることで、みんなの罪は神様から許されるんだという。
僕自身かつて新約聖書を真剣に読んで、この宗教を通じて世界と和解した経験があるので、聖書にはたくさん感動させられたけれども、一番理解できないのは「罪」、あるいは「原罪」という部分だ。
「愛」については賛同できるにもかかわらず、「罪」を背負ってイエスが我々の代わりに死んでくれたという、おそらくこの宗教にとっては最も根幹の部分こそが同時に僕らが一番「わからない」部分なのだ。
この「罪」という言葉は、僕たち日本人にはどうにもなじまないような気がする。
彼等にとって一番大事な部分が、僕らにとっては一番不可解なのだ。
それはたぶん西欧の人たちの世界認識と、僕たちの世界認識の根本的な違いに起因しているのではないかという気がする。
(後日記:この問に対するひとつの答えを6年後に記す)
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原罪という認識はたしかに日本人にはないかもしれませんね
返信削除私は原罪というのは動物的なことだと思っています
動物としてあった時に罪はなかったわけですけど 人間になったとたん 動物として行なっていたあらゆることが罪となってしまった
それが原罪だと個人的に思っています
とーし
by ふあいあふおつくす
>とーしさん。
返信削除聖書では原罪を「肉」とも言うようだから、たしかに人間の動物的な面を言っているのかもしれませんね。