2009/06/26

「父」の不在

「Abraham and Isaac」1634年レンブラント



これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(注:燔祭とは犠牲の動物を祭壇で焼き、神に捧げること)

アブラハムは朝はやく起きて、ろばに鞍を置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。
そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。
アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
こうしてふたりは一緒に行った。
彼らが神の示された場所に来た時、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべに手をかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。


これは旧約聖書の創世記第22章からの抜粋である。
神はユダヤ教の祖アブラハムに息子の殺害を命じる。
アブラハムもその息子イサクも咎められる理由はなにもない。
ただ信仰を試すというだけの理由で息子の殺害を命じられる。
命令する神も神だが、命を受けたアブラハムも、「どうして息子を殺さなければならないのか?」などとは問わず、歯向かいもせず、悩むことも嘆くこともせず、こう言ってよければ、まるで事務作業のように淡淡と事を運ぶ。
理屈のない不条理な、非情の世界。
旧約聖書には理不尽な境遇をただひたすら堪え忍ぶ「ヨブ記」などの話もある。
この世界では「父」の「ひと」に対する優位は圧倒的である。


これに対し新約聖書の「神」は、ひとの弱さを許す神である。
その許しは、イエスの磔刑によってもたらされる。
この許しによって、「父」と「ひと」の位置関係は並列となる。
並列ではあるが、ここには明らかに「父」がいる。
ニーチェが「神は死んだ」と言い、ジョンレノンが「僕らはイエスより有名」と言っても、
それは神が存在するから言えることだ。
存在しないものにとやかくいえるものではない。


「父」の特性とは何か。
(河合隼雄『母性社会日本の病理』より)
「これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。
それはすべてのものを切断し分割する。
主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供をその能力や個性に応じて類別する。
極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。
父性原理は、このようにして強いものをつくりあげてゆく建設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊にいたる面と、両面を備えている。」

「父」は「区別」し、「評価」し、「裁く」。
「父」は「法」によって「分断」し、「断罪」する。
「父」は「非情」である。

村上春樹はエルサレム賞の受賞講演で「システム」が個人を損なうことについて言及し、自分は「壁」よりも「卵」の立場に立つと表明した。
彼の作品に一貫してみられる「父」的なものの不在と関係がありそうな気がする。
また彼がイスラエルという、まさにユダヤ教の「父」の国のまっただ中でこのような発言をしたことも非常に象徴的だ。
「父」は自分の小さな分身として「システム」というものを作り上げて、自分がいない場所でも自分の機能を発揮させようとするからだ。

では「母」の特性とは何か。
(河合隼雄『母性社会日本の病理』より)
「母性の原理は「包含する」機能によって示される。
それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子である限り」すべて平等にかわいいのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。
しかしながら、母親は子供が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子供の危険を守るためでもあるし、母ー子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を飲み込んでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、飲み込み、しがみつきして、死に至らしめる面を持っている。」

僕は楳図かずおのファンだけど、彼の作品は「母」というものの底知れぬ恐ろしさと、それとは裏腹に「母」への限りない思慕を中心に作り上げられている気がする。「漂流教室」では時空を超えた母の愛が描かれている。

ユダヤ教やキリスト教のような明らかに父を持つ宗教を、我々日本人は持たない。
日本に居るのは母だけである。
「母に捧げるバラード」はあるが、「父に捧げるバラード」はない。
森進一は「おふくろさん」と歌っても「おやじさん」とは歌わない。
かあさんがよなべをして手袋を編んでくれるが、お父さんはその時何をしていたのだろう。
太平洋戦争で特攻隊は「おっかさーん」と叫んで死んでいくが「おやじー」とは叫ばない。
日本では非情な断罪は共感を得ない。
日本で好評を博すのは「正義」ではなく、三方一両損のような大岡裁きである。

「日本」に「父」は居ない。
「日本」というバーチャル世界における「父」という駒の存在は限りなく小さく、「母」という駒の存在は限りなく大きいけれども、その理由はどうも日本語という言語に関係があるのではないかという気がする。

月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」によれば、様々な国の言語を比較すると、母音の比重の大きい言語では主語や人称代名詞が省略されやすいという。
日本語には、胃(い)、鵜(う)、絵(え)、尾(お)などの一母音単語や、
愛(あい)、合う(あう)、青(あお)、言う(いう)、家(いえ)、上(うえ)、魚(うお)、甥(おい)などの二母音単語といった母音だけで出来た単語がたくさんある。
日本語では語尾に母音が来る確率が100%であるのに対し、英語では25%にすぎない(日本語をローマ字で書くとすべての単語が母音で終わり、子音で終わる単語は存在しない)。英語では命令形を除いて主語を省略することはないが、日本語では頻繁に主語を省略する。日本語のほかにポリネシア語も日本語と同じく高率に母音を重視した言語だそうで、ポリネシアも主語を省略することが多いという。そして母音の比重が大きければ大きいほど、その言語では人称が省略される比率が高くなるという。

なぜ母音の比重が高くなると人称が省略されるのか。
その原因を月本氏は以下のように説明する。
母音は声帯を動かす段階で生成され、子音はその後の舌、唇、歯などの形を変えることで生成される。したがって発声の準備は母音が先である。
さて、欧米人は母音にあまりなじみがないので、母音は言語野のない右脳で処理されるが、日本人は母音を多用するので、この音は言語野のある左脳で処理される。
欧米人は母音を右脳で聴くが、母音を多用する日本人は母音を言語野のある左脳で聴くわけだ。

さて、欧米人が発声するまでの過程を追ってみよう。
欧米人は母音の準備を右脳で行う。
この右脳には自他を区別する認識領域が存在する。
信号はこの自他の認識領域を刺激してから脳梁を通って左脳の言語野に達する。
この間の時間の経過は数十ミリ秒。
欧米人はこの数十ミリ秒の間は文章を作ることが出来ない。
この数十ミリ秒の間に先ほど刺激を受けていた自他の認識領域によって人称が準備され、「I(アイ)」と発声し、続いてようやく文をしゃべることが出来る。
「love you.」

日本人は母音の準備を左脳で行いそのまま言語野を刺激して発声する。
このあいだの信号の伝達は瞬時に行われ、当然右脳の自他の分離の認識領域は眠ったままでしゃべる。
「愛してる。」


さて、では主語を省略することは僕たちの発想にどんな影響を与えるだろうか。
主語を省略すると、発語者の主体の境界がおぼろになり、責任の所在がはっきりしなくなる。
責任の所在がはっきりしなければ、分断し、区別し、評価し、裁くことが困難になる。
「日本」というバーチャル世界では、そこで運用される言語のために「父」が育たない。
抑圧されてきた「父性」や「男性性」はごくたまに激しく暴発し、歴史に禍根を残す。
「父性」や「男性性」が社会の中で生き生きと、あるいは健康な形で息づいていないため、それがごく稀に歴史の表面に姿を現す時には、非常に拙い、粗暴な形で表面化する。
その悪い面だけが、後味として残る。我々はいまだにそれをぼんやりと反省している。
だがこの国は、卑弥呼の時代からそもそも「女性の国」だったし、実は今もそうなのだ。
僕がちゃんとした父親になれなかったのも、それが原因だったのだ。
唐突にあらわれたわけのわからない言い訳で、今日のお話は終了です(笑)。

えー、これは学術論文ではなく、間違いだらけの文章です(それにしてはえらそうな書き方ですが(笑))。
単なる思いつきを文章にしただけのものですので、興味のある方のみお楽しみ下さい。




3 件のコメント:

  1. シンさんはじめまして。以前から拝見していました。シンさんの写真が好きなのと、時々書いている(今日のような)事がおもしろいのとでお邪魔するのが続いています。私もカトリックです。今日は、またすごく真面目な話だなと読んでいました。が、最後の数行で吹き出してしまいました。おもしろかったのでついコメントしてしまいました。
    綺麗な写真、楽しみにしています^^(チャーリーの写真も)

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  2. やきもの好きさんこんばんは。
    「私もカトリックです」というところまで読んで、ワッ、本物のクリスチャンの人から抗議のコメントだ!
    しまった、生意気なことを書くんじゃなかったとびくびくしながら最後まで緊張しながら読んでしまいました(笑)。
    うれしいコメントありがとうございます。これからもごひいきによろしくです。(^_^)。
    あっ、それから梅の甘露煮おいしそうですね!

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  3. やきもの好き6/26/2009

    アハハ^^本物のクリスチャンておもしろい言い方ですね。
    私は不信心でいけません。片足はずれかけてる感じです(反省)
    最初はDP1で検索していてshinさんのブログに行き当たったんですよ。
    DP1は持っていませんが・・・ほんとに写真が綺麗ですね〜ひいきしまくります!
    (あ、覗いてくれたんですね〜嬉しいです!)

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