ラベル 発想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 発想 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024/12/15

日常生活の冒険者たち

 

インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国より

日曜日は妻と買い物に行く日課だが今日は妻が出かけているので一人で車で出かけた。走り出してしばらくして携帯を自宅に置き忘れたことに気がついた。あー、やっちまった。携帯がなければ事故ったときに警察にも保険会社に連絡できない。緊急の要件に対応できない。悪い予感ばかりが脳裏をかすめる。戻ろうか?いやいや、悪い予感の9割9分は起きないというじゃないか。ここはハラを決めよう。とにかく慎重に慎重を期して、絶対に事故を起こさないことだ。スピードは控えめに、起こり得るリスクを想定し、右・左折では首振り人形みたいに左右を何度も確認。いやいや、それだけでは不十分だ。フロントピラーに隠れた部分を確認するためには首を左右にシフトする必要がある。
そうやってなんとか無事にショッピングセンターに着いたがまだ油断は禁物だ。階段を降りるときに足をすべらせて転落したらどうする。携帯がないので救急車を呼べないし家族にも連絡できない。あ、向こうから歩いてくる男はひょっとしたらヤバい奴かもしれない。いきなり殴られて喧嘩になったら警察を呼べない。万引き犯と間違われたらどうしよう。そんなふうにいろんなリスクに目を配りながら買い物をしていたら日常が冒険になったことに気がついた。トシを取って頭脳・身体にいろんなハンデを抱え始めると、今までは平和そのものだった日常がまるでトラやライオンが跋扈するジャングルに一変する。これは世界が変わったのではなく、自分が変わったために世界の危険度がアップしたということだ。つまり自分の安全度が低下して、世界の危険度が相対的に上昇するわけだ。

それでなんとか無事に買い物を終えて再び車に乗って帰りながら道を歩いている人達を見るとお年寄りがいっぱいいる。いや僕もお年寄りだがお年寄りがふらふらと危なっかしく歩いている。老人にとって世界は危険に満ちている。そういえば病院で高齢女性が友人の同じく高齢女性にこう言っているのを聞いたことがある。「あのね山本さん、私達は転倒したら終わりだから」。
そうなのだ。目が悪くて視界が十分確保できないひとも、耳が悪くて周りの音がよく聞こえないひとも、頭が悪くなって判断力が低下したひとも、足が悪くてびっこを引いているひとも、みんなジャングルを必死に歩いているのだ。でも考えてみよう。それは悲痛な努力ではない。それはある意味自分にとって未体験の領域に突入したことにほかならず、ワクワクするような冒険を時々刻々体験しているということでもあるのだ。それに気がついた僕は老人を見て「あ、冒険者がいる!」と思わず叫んでしまった。そうなのだ。老人はすべからく冒険者なのだ。そう思った瞬間にしょぼくれてみすぼらしい高齢者はみなカッコいい冒険者に見えてきた。運転しながら、あ、冒険者!あ、また冒険者!あ、またあそこにも冒険者が!という具合に街は冒険者に満ちている。




2024/12/13

悪魔に魂を売る

 



最近ではインスタ映えのために高い崖の上で自撮りして転落死したり列車から身を乗り出した自撮りで頭が吹き飛ばされたり、あえて犯罪を犯してYouTubeにアップしたりするひとのニュースを目にするようになった。ある報告によれば世界全体で2008年から2021年のあいだに自撮り中の事故で379人が亡くなったという(リンク)。

例えばあるひとが今の自分には到底叶えられないようなことを望んだとする。それは例えばとてつもなくバズりたい、素晴らしい小説を書きたい、素晴らしい曲を作曲したい、この世のものとは思えない写真を撮りたい、手の届かない人と一つになりたいとか、まぁなんでもいいんだが、そしてそのためには悪魔に魂を売りわたしてもいいと考えたとしよう。この場合悪魔に売り渡す「魂」とは何なのだろう。そして魂を売り渡すと人間はどうなるのだろう。

とてつもなく叶えられそうもない夢を実現しようとするとひとは具体的にどのような行動を取るだろう。一言で言えばそのひとは常識外れなことをするだろう。常識では届かないものを手に入れようとすれば常識外れなことをするしかない。
ひとは健全な状態にいるときには頭と心と体は良い関係にある。人間の頭と心と体のどれかが常識外れなことを始めれば三者の統合は失われ人間としての存続が危うくなる。
「売春して何が悪い?売手と買手がハッピーなら誰にも迷惑はかけていないじゃないか」と、まぁこれは理屈だが頭(理屈)が独走すると心と体が悲鳴を上げ、トップアスリートのように体が独走すれば頭と心が悲鳴を上げ、恋の奴隷で心が独走すれば頭と体が悲鳴を上げる。

以前僕は「魂」というのは無意識の中で頭と心と身体の統合性を担っている場所のことではないかと書いた(リンク)。ひとがなにか手に届かないものを希求しようとすると頭と心と体の統合性が失われる。その現象を隠喩的に表したものが悪魔に魂を売り渡すということかもしれない。とかなんとか言いながら最近は僕もカヤックでの自撮りにハマっているから我ながら注意が必要だ。まぁバズる気配は微塵もないが。




2024/08/30

お作法


#742
OM SYSTEM OM-1 Meyer-Optic Diaplan 80mm F2.8




赤瀬川原平さんの「千利休 無言の前衛]を読んでいたらそのなかの"古新聞の安らぎ"という段落で彼はひとつの思い出を語っている。
ある時彼がアパートの廊下を見ると見事に正確に折り畳んだ古新聞の山があった。普通はざっくり束ねてゴミの日に出す新聞紙がきちんと折り畳まれて立方体の角が驚くほどの垂直線で切り立っていることに彼は強いショックを受け、それ以後彼も垂直に切り立った古新聞を出すようになった。その理由を彼は「不安を優しく包みこんだリズム」にあるという。古新聞をきちんと畳むという行為が不安を和らげるというのだ。

出勤前の忙しい朝、慌ただしく食事を済ませて家を出ようとすると妻から古新聞をゴミステーションに出しておいてと頼まれる。なんだよ!と思いながらバサバサと乱雑に広がった新聞の束を袋に入れようとするが縦横斜めにはみ出して上手く袋に収まらない。あーっもう!とイライラしながらも結局は新聞を全部袋から出して一束ずつ袋に収めなおしていく。そうしている間にもバスに乗り遅れるのではないかと不安になる。こんな意味のないことをしている間にバスは出発してしまうのだ。

家を出るというA地点からバスに乗るというB地点のあいだにあるのは意味のない時空間だ。そして古新聞はその時空間に存在する。こういった無意味な時空間をなくすために便利な商品が存在する。パナソニックの「古新聞まとめる君」。もうあなたは古新聞を触る必要もありません。読み終わったらまとめる君にポイと放り込むだけ!あとはゴミの日に勝手にごみ集積所に運んでくれます今なら税込19,800円!でもまだ燃えるゴミを運んでくれる商品はないし燃えるゴミと燃えないゴミを分別してくれる商品もない。

A地点からB地点の間に存在する無意味な時空間に存在する古新聞。その古新聞に関わる自分もその時無意味な存在になる。無意味なことをしている自分は無意味なのだ。永遠に無意味な時空間に奇跡のように現れた自分という有意味な存在は死ぬと再び無意味な時空間に溶け込んでいく。ひとはその無意味に帰するという不安に耐えられないからせめて今やっていることに意味を求める。それでひとは退職後にそば打ちをはじめたりブログを書いたりする。
原平さんの先ほどの文章の続きで駅の改札口の切符切りが客と客の合間に切符切りをカチャカチャいわせている行為についても書いている。今はもうそんな光景は目にすることはないが、あれも客と客の間の無意味な時間をカチャカチャ切り刻んでいるのではないか。何もしていない不安を切符きりで切り刻む。

さて長々とこんなことを書いてきたがこの本は千利休の話でつまりは茶道について。
お茶粉の入った湯呑みにティファールでお湯を注げばあっという間にお茶が飲めるのになぜわざわざ面倒なお作法が介在するのか。お作法以前にそもそもお茶の時間は必要なのか。それは無駄な時間ではないだろうか。
そう、お茶の時間やお茶の作法が存在するのはA地点からB地点のあいだの「無意味な時空間」だ。茶道はその無意味な時空間に木枠で入り組んだ水路を構築する。その迷路のような水路を水はきちんとルールに従った道筋で流れていく。お作法という水路を流れる自分に自我はなくそこには作法だけがある。そしてやがてはその作法も消えていく。









2023/05/24

自動巻とのつきあい方

 


最近仕事にORISを腕に巻いて出勤している。週に一度の出勤だから当然最初は止まっているのだが竜頭を巻かずに自動巻きで自然に動き出すに任せる。車が職場についてみると動いているのでそこではじめて時刻を合わせる。半日ほど働いて帰宅し腕時計を外してそのまま置いておく。翌朝起きて時計を見ると日付変更線を超えた夜中あたりで止まっている。針を午前9時に合わせて来週の仕事に備えるという流れ。

ORISを買ったのは2019年。買った当時は自動巻きという機構との付き合い方が分からず、時計が止まるということを受け入れられなかった。動いているのが当たり前という意識があった。かといってずっと腕に巻いているわけにもいかないからせっせと手巻きしていたら2020年に竜頭がロックして動かなくなった。スイス本社に歯車を取り寄せて僕の手元に戻ってくるのに3ヶ月かかった。それでも時計が止まることを了解できなかったので手巻きが駄目ならとワインディングマシンを購入し機嫌良くくるくる回していたら1年後に自動巻のローターが動かなくなった。また修理に出した。今度は1か月で帰ってきた。3年保証の期間内だったのでその時も無料で済んだがさすがに懲りて常時作動があたりまえという意識の呪縛を自ら解いた。

考えてみれば時計というのは仕事や人生の象徴のような立ち位置にある物件なのかもしれない。ひとは、特に男性は腕時計にありうべき自己イメージを投射する。ストップウォッチなどの三針で世界の時刻がわかるガチガチに機能満載な腕時計は人生でも最前線でフル稼働している人やそのような人でありたいと思う人のアイコンだろうし、日光や蛍光灯に数時間当てれば何年も場合によってはずっと止まることのないソーラー腕時計をしているひとはひょっとしたら人生という時間が有限であることを意識したくない気持ちの現われなのかもしれない。いや単に便利だからだ、何をしょーもない深読みしとんねんという声も聞こえてくるが。

僕がクォーツではなく自動巻時計を手に入れたのは退職して2年後だからいつまでも最前線でもないだろうという気持ちがあったからだが、それでも「時計が止まる」ということを受け入れられずせっせと手巻きしたりワインディングマシンを回していたのはまだ仕事や人生に未練があったからだろう。ようやく所ジョージさんのだいたい時計みたいなルーズな気分を手に入れることができたわけだがそれでも時には高機能な時計にあこがれたりもする。そういう憧憬も含めて人生はチクタク動いていく。




2021/04/11

物語を着た欲望


#156
Sigma dp0 Quattro







猫や犬を見ていると欲望そのものに永続性がないことがわかる。しかし人間の欲望は物語(ストーリー)という服を着る。ストーリーは脳の中で手足を突っ張って消失を免れようとする。ストーリーは脳内のほかの物語とつながって命をもらい、脳の中で自由に動き出したり新たな物語を生み出したりする。自動能や永続性を獲得した欲望は排除することがむつかしい。
「女はホルモンの奴隷よ!」という野沢直子の名言があるが、その伝で言えばひとはストーリーの奴隷である。煩悩とは物語を着た欲望のことだ。

どうすれば煩悩から自由になるだろう。
その欲望がストーリーという横糸につながっていること、欲望の根っこがホルモンや生理や習慣という縦糸につながっていることを知れば、連携を切って欲望を本来の裸で身軽な欲望に戻すことが出来るかもしれない。
これは禅・仏教の立場だが、そういえば室町時代の禅僧一休宗純が肉を食し、女を抱き、酒を飲むという一見破戒僧のような振る舞いをしていたのも、彼が物語を脱いだ裸の欲望と戯れる自由を会得していた表れかもしれない。

ちなみにストーリーを着た欲望が「行動」というハンドルを握っているのが問題なのだから運転手を別のストーリーに変えればいいじゃないかという方法もある(キリスト教などの欧米系宗教の立場)。ただ行き先は運転手次第だし、乗客はより大きなストーリーの中に入ることで一見自由な感じはするがストーリーの奴隷であることに変わりはない。禅の自由が青天井なのに対し欧米系宗教は大きな体育館とでも言おうか。






2021/03/07

無駄は無駄か


#131
Nikon D800E Tamron 90mm F2.8






先週107歳で亡くなった篠田桃紅氏著『一〇三歳になってわかったこと』幻冬舎より

人は用だけを済ませて生きていくと真実を見落としてしまいます。
真実は皮膜の間にあるという近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。
雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
無駄にこそ、次のなにかが兆しています。用を足しているときは目的を遂行することに気をとられていますから兆しには気がつかないものです。
無駄はとても大事です。
無駄が多くならなければだめです。
お金にしても、要るものだけを買っているのではお金は生きてきません。
安いから買っておこうというのとも違います。
無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為です。
なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふとあとで思ってしまうことです。
しかし無駄はあとで生きてくることがあります。
私は3万円だと思って買ったバッグが30万円だったことがありました。
ゼロを一つ見落としていたのです。
レジで値段を告げられて驚きましたがいい買い物をしたと思っています。
何十年来そのバッグを使っています。
そして買ってしばらくしてからそのバッグの会社オーナーが私の作品を居間に飾っていることを雑誌で知って、あらお互いさまね、と思いました。
時間でもお金でも用だけをきっちり済ませる人生は1+1=2の人生です。
無駄のある人生は1+1を10にも20にもすることができます。
私の日々も無駄の中にうずもれているようなものです。
毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。時間も無駄にしています。
しかしそれは無駄だったのではないかもしれません。
最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄でどの時間が無駄ではなかったのか分けることはできません。
なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれません。
つまらないものを買ってしまった。ああ無駄遣いをしてしまった。
そういうときは私は後悔しないようにしています。
無駄はよくなる必然だと思っています。

きょじつ-ひまく【虚実皮膜】の意味~新明解四字熟語辞典
芸は実と虚の境の微妙なところにあること。事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとする論。江戸時代、近松門左衛門ちかまつもんざえもんが唱えたとされる芸術論。▽「虚実」はうそとまこと。虚構と事実。「皮膜」は皮膚と粘膜。転じて、区別できないほどの微妙な違いのたとえ。「膜」は「にく」とも読む。


無駄な買い物ばかりしている僕にとって天啓のような言葉だが、彼女の言葉に励まされて、なるほど!よーし、オイラもこれからもドンドン無駄な買い物をするぞという気持ちになるかというとちょっと違う気がする。
篠田さんと僕では同じ無駄でも無駄の方向が違うんじゃないか。

例えば彼女の普段の佇まいやアトリエの様子を見るととてもスッキリしていて、僕の部屋のように愚にもつかないものやなんの意味があるのかさっぱりわからないものが乱雑に積み上げられている様子がない。
おそらく彼女の無駄はトーンが統一していて、あくまでそのトーンのなかで、今は無駄かもしれないが将来役に立つかもしれないものを無意識に選別しているのではないか。だから30万円のバッグを買って身過ぎに感じても、ずっと使っているうちにバッグが次第に自分に馴染んできて「無駄じゃなかったな」と述懐できる。
さらに彼女の場合は虚実皮膜という、いわば意識と無意識の波打ち際に打ち寄せられた貝殻を拾うことを、おそらく創作の産湯にしているので(僕の勝手な想像です)、一見無意味なものがむしろ大切な意味を持っているのだろう。無意識の世界が大きければ大きいほど打ち寄せられる無意味も豊潤であるに違いない。

でも僕の場合は単なる思いつきや一時の激しい思い込みで手に入れて、時間が経つにつれて熱が冷めるだけならまだしも、どうにも使いあぐねて手放してしまうのだから、篠田さんのように「そういうときは私は後悔しないようにしています」とは言えない。そういった自分の身の回りにある無駄な物品は、少なくともその時僕は自分の欲望に忠実であったのだという、単なるアリバイ物件としてしか居場所がないようなのだ。
ただ思い返してみれば「トーンの統一がない」というのが僕のそもそもの有り様なら身辺がとっちらかっていても、それはもう仕方がないんじゃないかとも思う。たぶんこれからも後悔しながら無駄な買い物をしていくのだろう。

追記:そういえばむかし見たテレビのムーミンではジャコウネズミさんという哲学者がいつも「無駄じゃ無駄じゃ、すべては無駄じゃ」と呟いていましたが、あながちこの言葉も無駄ではないのかもしれませんね。










2020/06/20

欲する理由を欲する


P7161007
Olympus OM-D E-M1 M.ZUIKO DIGITAL ED 30mm F3.5 Macro



私は動物なので本能的に動くことを欲している
訳もなく動けば腹がへるので動くには理由が必要で
その訳というのは欲望だ
欲望がなぜ生じるかといえばそこに空虚があるからだ

人間以外の動物は空腹や性欲という具体的な空虚が欲望をドライブするが
人間は具体的な空虚がないと空虚を作ってでも欲望をドライブする
どうやって空虚を作るかというといろんな方法があるが
他人の空虚とシンクロするという方法がある

例えばある人(仮にAさん)がBというカメラが欲しいとネットで書く
切々と書く
すると自分も欲しくなってくる
別に自分には差し迫った必要もないのに
Aさんの必要が自分の必要になる
このとき私は自分の妄想が私を騙していることを知っているが
騙されて自分の中に空虚が作られることを喜んでいる
ひとは欲望のためには喜んで騙される生き物なのだ
ひとは常に騙されたがっている

やがてAさんがBというカメラを買う
買って嬉しいAさんのブログを読む
自分ももう手に入れたような気分になる
それなのに手元にはBというカメラがない
空虚である
空虚なので買わねばなるまいと思う
つまりいいなぁという羨望や嫉妬も空虚を作る手段の一つだ
われわれは羨ましがりたい生き物なのだ

別にAさんがいなくても
私はBというカメラを買った自分を想像する
買って行きもしない場所へ行って写真を撮っている私を想像する
つまり私は自ら作り出したお話によって
今はまだ現実化していないという空虚を作り出す
われわれは何もないところにお話を捏造してでも
飢えを作りたい生き物なのだ

念願かなって私はBを買う
さて買ってしまえば空虚も終わりである
手元に残るのはBというカメラだが
これはもう空虚にはなりようがない
メルカリに売ればまた空虚になるが
ブログにBのことを書けば他人の欲望を喚起できる
私は他人も羨むBを持っているので
Bは他人の空虚の源泉である
私は他人の空虚をここに持っている
こうして私は実態としてはBを持っているにも関わらず
あたかもBを持っていないかのように空虚を確保できる
われわれは他人の羨望を
あたかも自分の中の空虚のように感じることができる
優越感という空虚

いやもう別に欲しいものもないし
何もないところに空虚を作り出す気にもなれない
かろうじて日々の空腹などの生理的欲求だけで
最小限の動きをしているのは動物的とも言える
猫を見ているとそんな気がする








 

2019/12/11

自由は恐ろしい





ひと(特に男性)と仕事との関係は凧と糸の関係に似ている。
糸が切れたらどんなに自由だろうと想像するが、自由を感じるのは仕事から開放されたつかの間だけで、しばらくすると仕事一筋だったひとは文字通りどうしていいかわからなくなってしまう。糸の切れた凧は風に巻かれてくるくる回って、自分が上昇しているのか下降しているのかさえわからない。

糸という不自由がなくなると、ひとは自由になるだろうか。
残念ながらそうはならない。自由というのは、自分で自分の姿勢を制御してはじめて可能なのだ。糸は私の自由を束縛するとともに私の姿勢制御を行っていたのだ。

仕事という糸が切れてしまったら、自由どころか自らの姿勢制御ができなくなってしまう。それで男性は急に慌てて蕎麦打ちを始めたり陶芸に凝りだしたりカメラを持ってうろついたり大型バイクの免許をとって旅に出たりするのだが、果たしてそれが心底楽しいかといえば実は身の置き所のない気持ちを宥めているだけだったりする。

だが問題は男が心底楽しいと思えるものと出会えたかどうかではない。
男に必要なのは凧の姿勢制御のための重りなのだ。糸の切れた凧は自分に重りをぶら下げなければならない。重りだから楽しいかどうかは二の次である。

考えてみると現役の男性は社会やシステムという他者から与えられた重りによって姿勢を制御してもらっていたのだ。だから仕事をやめたら自分で自分におもりを付けて自分で姿勢を制御しなければならない。

気の合わない配偶者というのも実は凧の糸だったりする。糸が切れたら自由だろうと想像するが、他者とつながることの得意な女性達ならいざしらず男性というのは糸が切れたらそれっきり。ありあまる自由に耐えきれず死を選ぶようなことにもなる。
自由というのは恐ろしいものだ。

気ままな生活を送っていた桑野さんが今後大きな束縛を抱え込むことが火を見るより明らかなのに、なぜまどかさんと暮らすことを選んだのか。
昨日の「まだ結婚できない男」の最終回を見ながらあれこれ考える初冬の夜でした。





2018/11/25

当事者は誰か

L1000790C4
Leica M10-P Noctilux 50mm F0.95

クリスマスシーズンである。いやまだ11月だけど、今日妻とスーパーに買物に行ったら店内はすでにクリスマスの飾り付けがしてあった。よく言われることだけど日本人はクリスチャンでもケルト民族でもないのにやれサンタさんだとかやれイブは空いてる?だとかやれハロウィンでコスプレだとか騒いでいる日本人の何と多いことでしょう(®チコちゃん)。
いや別にそれが悪いとかいうんじゃなくて、こういった他民族の風習を日常に取り入れて楽しむ習慣って外国でもあるんだろうかとふと疑問に思ったのだ。
僕らは純粋にクリスマスの意義を踏まえて祝っているわけではなく、雰囲気を楽しんでるわけですよね。好きというより楽しんでいるという表現のほうがピッタリする。
なんにせよ「楽しむ」というのは当事者ではなく立ち位置としては参加者。当事者は楽しむなんていう余裕はなくて、あれこれ準備したり発生した問題を解決したりクレーム対応したり行事の意味を思い返して真剣に祈ったり。
そこへいくと参加者は気楽なもんです。楽しんでればいいんだから。オリンピック選手もむかしは円谷選手のように全日本人の期待の重圧に耐えかねて自殺してしまうひともいたけど、最近の選手は出発前のマスコミのインタビューで「楽しんできます]なんて答えているのは、もちろん練習中は当事者でも、さあいよいよ大会に乗り込むぞというときは参加者として楽しむほうがより実力を発揮できるからなんだろうなと思う。
なぜ当事者より参加者の方が実力を発揮できるかについては以前芸能人の(というよりミュージシャンか)の所さんの謎について考察したときの記事を参考にしてもらうとして、この「当事者ではない」というのが今日の考察のポイント。曰く我々日本人は当事者か、はたまた参加者か?

日本人はそもそも当事者意識の乏しい民族なのではないか?僕らは基本的に「当事者」ではなく「参加者」あるいは「見学者」なのではないか?それはクリスマスなどの外国の風習にとどまらず盆踊りにしてもお正月にしてもお花見にしても、いや実は人生の諸事万端にわたって当事者というよりどちらかというと参加者あるいは見学者として雰囲気を楽しむというのが日本人の基本的な立ち位置なのではないか。
例えば文学などでは西欧の有名な作家たち、ユーゴー、トルストイ、ドストエフスキーなどに見られるいわゆる大小説のような虚構の主催者であるよりも、見て評論する人、例えば清少納言、吉田兼好のようなエッセイストや見る人、見て楽しむ人、例えば松尾芭蕉や千利休などにみられるように、日本人の思潮的主流はドラマの中で格闘するよりも部外者として外から見て楽しむことにあるのではないか。人生幸朗師匠が「責任者出てこい!」と叫んでも誰も名乗りを上げないのは、ここには参加者しかいないからではないか?

では日本人が参加者、見学者、評論家であるなら、当事者はどこにいるのか?あるいは日本における主催者は誰なのか?
僕が思うに日本の当事者あるいは主催者は「無」あるいは「虚」ではないか。
僕達は「虚」をやぐらの中心に据えて盆踊りを踊っている。そしてこのやぐらの中心の虚にはその時時に応じて何でも入りうる。あるときはクリスマス。あるときはお盆。あるときは天皇。そしてあるときは「神」。
そしてなぜ日本人が自らを当事者とすることをよしとしないのかについては、「主格」に重きを置かない日本語という言語と関係があるのではないかと睨んでいる。(ほんまか?)







2018/06/30

陽のルートで生きたい

hydrangea
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135


僕はいろいろと不満や満たされない思いや着心地のわるい服を着ているような、自分の生き方に確信が持てない気持ちで生きているが、いやそうではなくて僕はむしろ不満や気に入らないことを「探しながら」生きているのではないか。そして僕はそういった気に入らないことを見つけてそれを解決するか、あるいは何で紛らわすかを探したり見つけたりすることに生きる歓びを感じているのではないか。
そう考えたのはつまり仕事を退職して不愉快なことが解消されたにも関わらず、今度は自分の中に不満を見つけて鬱々として楽しまない日々を送っているのは、どっちにしろ何らかの不愉快のタネを探しているからではないかと思ったからだ。

つまり僕は自分で不愉快の種を探して当然自分で不愉快になりそれを紛らわすための妄想探しにこそ喜びを見出していると。

不愉快に対するセンサーの感度が高く、センサーが不愉快を感知したら不満、怒り、攻撃、緊張などの情動が励起される、この反復反射でセンサーから情動へのルートが太くなっており、それを解消するための愉快的解消行動(妄想や購買欲)を生命エネルギーにしているのが僕なのではないか。

そうではなくて一義的に面白いことや喜ばしいことに対するセンサーが鋭敏で、それがうれしさや楽しさといった情動と直結していることが好ましい生き方なのではないか。
そして僕のように「負のセンサーから負の情動を発現させそれを解消することでようやく陽の情動を獲得する人」というのは、ひょっとするとこれまでの生涯で嫌というほど「苦労→ご褒美」パターンを繰り返し自らに課してきた結果生み出されたのではないか?

世の中には(非常に稀だが)あらゆる刺激を陽の情動に変換できる能力を持った人がいる。
そのことに気づいたのは昨日YouTubeで所さんのCM集を取り上げたものの中で劇団ひとりの揚げ足取り発言に対し所さんが間髪を入れず陽気に屈託なく返事をしているのを見て少し感動したからだ。僕だったらすぐに不機嫌になっていただろう。ひょっとすると所さんは負のセンサーからユーモアへのルートが太いのかもしれない。

夜録画していた所さんの世田谷ベースを観る。
「面倒なことが幸せなんだよ」








2018/04/10

人生における入力と出力

現実の世界で収入と支出があるようにバーチャル世界にも収支があるのではないか。
そのインプットとアウトプットのトータルバランスのことを考えている。
ひとが生まれて成長しその過程で様々なことを学習し、働きだしてからその学習した内容を社会に還元する。そして退職する頃には出涸らし状態。いや見た目は以前と変わらないし働こうと思ったら働けないわけじゃないが、その内容はほとんどがルーチンワークで脳はほとんど活動していない。

もちろん高齢になってもバリバリ新しいことにチャレンジして脳をフル回転している人もいるので一概には言えないが、僕の場合は退職する一年ほど前から脳の収入と支出のバランスがマイナスになっている感じがしていた。具体的にはそれは《朝起きたときに仕事に行きたくないという感情》として現れた。
「うつ」に似ている。あるいは「うつ」の一部は脳の収支のバランスがマイナスになっていることが原因なのかもしれないが僕は専門ではないのでわからない。ただ要するにそういった状態が僕の場合は収支の問題だったのではないかと退職してからなんとなく感じている。

さきほど人生の前半は入力、後半は出力とざっくり分けたけれども、もちろん人生の前半にも出力はあるし後半にも入力がある。むしろ後半で出力より入力の多い人もいるだろう。ただ傾向としてはやはり後半は入力より出力のほうが多いと思うし、僕の場合もいろいろ知識や経験や新しいアイデアなどで入力に努めてはいたが結局最後は枯渇してしまった。これは脳の破産と言ってよいかもしれない。

脳が破産するとどうなるか。具体的には「自分に飽きる」。もう逆さに振っても鼻血も出ない。出てこない自分に飽き飽きする。自分のことをつまらなく感じる。自分を捨てたくなる、いやそこまではいかないけど、少なくとも生きる喜びを感じれないまま過ごしていた。

転機になったのは病気の発症だった。2年前にメニエール病になって、眩暈、耳鳴り、難聴のために一時入院。去年の5月末には仕事の続行が実質上不可能になってしまった。そして二ヶ月間休職。ところがこの休職が僕にとって砂漠のオアシスとなった。10年ぶりに海で泳いだり、毎日プールで泳いだり、ジョギングしたりと、まるで小学校の夏休みに戻ったような日々を過ごすことができた。8月に復職したものの結局仕事続行が無理であることを再確認するだけだったので12月に退職させてもらった。

そういう、わがままが出来る境遇であったことには感謝しかないが、そして同じように永年命を削るような修羅場で過ごしてきてまだ戦い続けている同年代の戦友たちには申し訳ないが、今こうして自分のためだけに時間を使える自由というのは、ひょっとすると再び将来の出力のための入力期間なのかもしれないと思って日々セッセとポルトガル語を勉強したりギターを弾いたりして遊んでいる。











2018/02/12

学び続ける

studying portuguese

今日ふと思ったんだけど
どんなときでも「学び続ける」ということが
僕が人生という舟を漕ぎ続けるための
オールだったし
それはこれからも僕にとって
希望であり続けるだろう

こころが死にかけていると学ぼうとしないし
身体は死にかけても学ぼうとするかぎり
こころは死なない














2017/05/05

river of May

river of May


もうカメラ・写真なんかどうでもいい。何ならやめてもいいと思うくらいになってからカメラとの本当のつきあいが始まるのかもしれない。
もちろんそれなくしては日も夜も明けぬという時期はあるだろうけれど、その時期を過ぎたらじゃあもう別れるかというふうに考えるんじゃなくて、さてそこから穏やかなバランスのとれた生活が始まるんだと。

















2017/01/05

写真を撮るということ


写真を撮るというのはとてもおもしろい行為で、それは人によっていろんな楽しみ方があるだろうけれども私にとっては曲がりなりにも作品を作るという、創造する過程をとても楽しんできた。

作品になるような対象を見つけ、それが作品になるためにはどんなカメラ、どんなレンズが適切か、どのアングルからどんな構図で撮るべきか、撮った写真をどんなふうに仕上げるか、出来上がった作品をどのように提示するかといったことを含めいろんなファクターを考えることすべてがとても刺激的で面白かった。

私はありのままの自分にうんざりしている人間だから、外界からの刺激によって変容できるものなら変容したい。それが例えばカメラなら、それを使って作品を創造する自分は、作品とそれを作りそれを見る自分との交歓のなかに自分ならざるものがそこに入ってくることをこそ喜びとしてきた。
それが入ってこなくなって自分しか出てこなくなったらやる意味が無い。

だから畑を耕していて最初はいろんな作物が撮れても、自分という作物しか撮れなくなったら、肥料を変えるとか鍬を変えるとかトラクターを購入するとか、あるいは思い切って種を変えるとか耕し方を変えるとかする。
それでも自分しか取れなかったら違う畑に行くしかないだろう。

そういった脱皮の喜びのようなものを繰り返して、脱皮しても脱皮しても相変わらず自分であることに変わりはなく、ただ脱皮するという行為そのものの快感だけを追い求めているという図式は滑稽としか言いようがないが、趣味というのはそういうものなのかもしれない。












2016/09/11

生命力の枯渇

lotus, decay
Nikon D800E Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135 ZF2

もうすぐ還暦ということもあって定年退職のことをぼんやり考える。
仕事をしなくなったら自分は日々をどのように過ごすのだろうか。
仕事一本槍でバリバリ働いてきた男性が定年後に何もしなくなって魂が抜けたように一気に老けこんで鬱や認知症になってしまう話は有名だが、僕の場合は趣味の写真があるしブログもやってるし、あくまでひとごとだと思っていたけれど、ふと今の自分には何の欲望もないことに気が付いた。せめて写欲があれば写真旅行でもしながらブログも続けられるしと以前は考えていたけど今は写欲もブログ更新の意欲もない。それどころか欲望そのものが枯渇してしまっている。

今日妻の買い物に付き合いながら考えていた。
女性はただ女性であるだけで豊かな生命力を持っているが、男性の存在基盤は機能性なので定年後に機能性を要求されなくなるとガックリ落ち込んでしまう。せめても何かに対する欲望があれば生きていけるが、欲望がなくなれば生きていく力がなくなってしまう。結婚して女性と生活するということは、豊富な生命力に伴う欲望を女性から安定供給されるということで、それはそれなりに男性にとってはしんどいことではあるが、少なくとも自前で生産できない欲望の供給源として大切な役割を担っているのではないか。

それでふと連想するのが「潮吹き臼」という民話で、貧乏な男が兄にもらったハムと交換に地獄の小人から手に入れた臼を回すとなんでも欲しいものが臼から飛び出してくる。噂を聞きつけた欲深い兄(別の話では船長)が止め方を知らずに船の上で臼を回してしまったために臼の出す塩の重みで船が沈んでしまい、海の水が塩辛いのは今も海の底で臼が回り続けているからだという。
海の底で静かに回り続ける臼のイメージは神秘的で美しい。恐らく潮吹き臼というのは女性の暗喩だろう。
節度ある男性が女性と一緒になれば臼(女性)との関わりから生まれてくる欲望を動機にして一所懸命働いて生活が豊かになるが、欲深な男や女性の欲望を制御できない男は海の底に沈んでいく。

そもそも男性という生き物は単独では欲望を作り出すことができず、他者特に女性を介して生じる欲望をモチーフとして生きている生き物なのではないか。
精力旺盛な高齢男性が配偶者と死別するたびに新しい妻を迎えたりするのは生命力の結果というより欲望の供給源としての女性を常に必要としているからではないか。

なんていう勝手な妄想を文章化することでなんとか自らの生命力を鼓舞しようとするわたし。
写真は二ヶ月前に撮ったもの。










2015/06/27

chocolates

chocolates


僕は欲望の枯渇を恐れている。
欲望の対象が枯渇すると焦り、欲望する力が枯渇すると寂しい。
そしてそのどちらもなくなると生きる意欲が消える。

欲望とは中心の虚のことで、欲望が枯渇するというのはその虚が消失することを意味する。
そしてそれを寂しく感じるというのは虚がなくなったことを虚として感じるということだ。

ひとは新たな虚を求めてさすらう。
ひとはこうして自ら虚を創りだしてでも欲望(生命への意欲)を掻き立てようとする。
そして「少なくともそのとき私は欲望に忠実だった」というアリバイ物件だけが身辺に溜まっていく。

もし老いや死に対する不安がなければ生命への意欲を無理やり掻き立てることもないだろう。
そうすれば中心の虚の消失を焦ることもなくなるだろう。
そうすれば身辺もずっとすっきりするだろう。





2015/06/18

芭蕉のセルフポートレート

desolate

風邪を引いて寝込んでいるせいか、ふと「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という芭蕉の句を思い出した。夢というと現代では肯定的な意味合いが強いが、同じく芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」にも見えるように、当時の日本人にとって夢というのはいずれ消え去ってしまう、叶うことのない儚い念のようなものだったろう。

そしてこの句の中には読み過ごすことの出来ない単語がひとつ含まれていて、それは駆け巡るという言葉だ。芭蕉は、夢は枯野をさまようでもなく、枯野を漂うでもなく、枯野を散歩するでもなく、ましてや枯野に佇むでもなく、「駆け巡る」と言っている。駆け巡るというのは、抑えきれぬ衝動で走り回る様子を表している。
枯れ野とは何も無い荒野のことだから、つまり「夢は枯野を駆け巡る」というのは叶うことのない妄執が、何も無い荒野を、抑えきれぬ衝動で走り回っている様子を描いていることになる。
芭蕉という人は、そういう業の深い人だったということなのだろう。

僕は以前俳句というのはスナップショットで、芭蕉の旅は、ひょっとするとカメラを携えた撮影旅行だったのではないかと述べたけれども、つまり彼は貪婪なスナップシューターで、何も無い荒野だからこそ、かえって撮りたい獲物を探す妄執を駆り立てられるわけで、そういう深い業を負った自分が今は病に臥せっている。
この句はだから、写真でいえばセルフ・ポートレートということになるのだろう。



2015/02/22

欠如を欲望する。

Giulietta

"私たちは欲求が完全に永遠に満たされて、もう何も欲しなくなるようなニルヴァーナを求めているわけではない。むしろ、この欠如を私たちは積極的に愛しているのである" 「他者と死者」208頁。

なるほど。確かに僕たちは手に入れたあとより、ある明確な何ものかを欲望している時の方がワクワクしているというのは実感としてわかる。だから埋めなければならない欠乏がみつからないとなんとなく寂しく、生命力が枯渇しているように感じる。

エベレスト登山隊のキャンプにはエロ本があふれているという話や、登山家の野口健氏が雪山でいよいよ生命の危険を感じた時には女性用香水を嗅いでしのぐという話を聞くと危機的な状況においてひとはわざと欲望を喚起して、それによって生命力を呼び覚ますものなのだと知る。

生命力が減退すると、当然欲望も減退する。
生命力が横溢すると「もっと生きたい!」という思いが欲望をドライブする。
欲望をドライブすると、それによって生命力が沸き起こってくる。

我々が基本的に欠如を愛しているのは生きたいという自分の欲望を愛しく思い、かつそれを肯定しているからなのだろう。

写真は本題と関係がなさそうでありそうなアルファロメオジュリエッタの初期型。
ディーラーに飾ってあったのをiPhoneで撮ってWaterlogueで加工。

2014/11/28

侘び寂び試論


日本固有の美意識としてよく取り上げられるキーワードが「わび・さび」。
何となく感覚として理解しているつもりでも、じゃあワビって何?サビって何?
そしてワビとサビはどう違うのか改めて考えるとよくわからない。
わからないままにしておいてもいいけれど掘り下げると面白そうなテーマなので整理してみました。

侘(わ)び
侘びという言葉を辞書で調べてみると、質素、簡素、粗末、不如意(思い通りにならないこと)、みすぼらしさ、わびしさなどの説明に行き当たります。
この言葉は元来モノが不足していたり不体裁なために気持ちが萎(な)えてしょんぼりする気持ちを表していたらしいのですが、時代を経るにしたがって禅宗や茶道、俳諧などの影響でむしろポジティブな意味に変化していったようです。
ひとは豪華で豊潤なものに接すると心が満たされる感じを覚えますが、むしろみすぼらしいものに接してしょんぼりする自分の心を面白がるスタイルがこの言葉にはあるようです。

寂(さ)び
寂びという言葉を調べてみると、寂しさ、静寂、古いこと、枯れていること、もの静かで落ち着いた奥ゆかしい風情などといった説明に行き当たります。
つまりこの言葉は本来「時間の経過によって劣化した様子」を意味していたらしいのですが、侘びと同じくこの言葉も時代を経るにつれてポジティブな意味を帯びていきます。
ひとは若々しく活発でエネルギッシュなものに接すると元気が出て気持ちが高揚するものですが、その反対に古くて活性の低いもの、停止していて静かなものに触れて心のざわめきが収まることに価値を見出すというのが寂びの立場のようです。

これらをさらに言い換えると
侘びとは物質的欠乏に共感する言葉
寂びとは活性的欠乏に共感する言葉
というふうにまとめることが出来るかもしれません。

さて、これら二つの言葉は共に不足、欠損、障害、老朽、不活性といった、いわば反生命的なものにわざわざ価値を見出すという天邪鬼な性質を持っています。ここで反生命的と書いたのは、私たちが生命と聞いてイメージするところの、伸びる、満ちる、輝く、十全に機能する、若くて活発ということに対し、縮む、枯れる、くすむ、歪んで機能不全に陥る、老いて活性が低下するという方に価値を置いているように思えるからです。

生命に対する反生命。テーゼに対するアンチテーゼ。そしてそこにはそこはかとないユーモアも感じられます。当事者にとっては悲惨でも第三者の、いわば無責任な視点を自らの内に導入することで意味の相対化と逆転をもたらすという、これは赤瀬川原平さんの老人力(エイジングを面白がる気持ち)と似ています。

ワビ・サビというと古臭いイメージですが、実は既存の価値観をひっくり返す生き生きとしたダイナミズムがこれらの言葉の裏にありそうです。
とても革命的でモダンな言葉。















2014/11/21

僕自身のための赤瀬川原平試論


「赤瀬川さんは、いろいろやったように見えて実はひとつの事をやっていた人なのではないか」という南伸坊氏のコメントが芸術原論展の図録に載っているらしい。
散歩にしても野次馬にしても、「見る」ことで自分という反応体がどんな反応を示すかを面白がるために散歩に出かけるわけで、「自分の面白がり方を面白がる」というのが彼の一貫したスタイルだったのではないか。
だから晩年にすぐれない体調を押して過密なスケジュールを受け入れていたのも外からの刺激で自分の中から何が出てくるかを見たいという、これはもう彼の業のようなものだったのだろう。

僕たちは彼が面白がっていることを通じて面白さを知る。
いや、彼が自分の面白がる様子を面白がる様子を見て彼の面白がり方を学ぶ。
そういう意味では彼は面白がり方の師匠なのであって、例えばトマソン物件にしてもトマソン物件を通じて彼の面白がり方に共振するというのが僕たち赤瀬川ファンの立場で、僕たちは実際には自分でトマソン物件を探しに行ったりはしない。

美術家としての赤瀬川原平の代表作を選ぶとしたら何になるのだろうかと彼の仲間内で話題にのぼったとき、建築家の藤森照信氏は一言「ないんじゃない」と言ったという(赤瀬川原平『全面自供!』)。では彼の取り巻きや彼の著作や行動を愛していた我々は彼の何に欲望していたのか。
それは彼の眼だったのではないか。そう考えると自分の心が一番しっくりする。

たださらに重要な点は実は彼の本質は面白さの探求だけではなくて見ることで彼の中に起きる化学反応にあって、人間という生きものの全体としてのアメーバの動きの一番先端にいる鋭敏な触覚である彼自身が、その触手の先端で触ったものにどう反応するか、自分というリトマス試験紙は今の日本人のあるいは現代人の無意識の総体として対象に触ってどう反応するのかをみることで、アメーバが今いったいどこに進んでいるかを知ることが出来る、そういう面白さを面白がるということを、彼が意識的にやっていたと思われることだ。



twitter