風邪を引いて寝込んでいるせいか、ふと「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という芭蕉の句を思い出した。夢というと現代では肯定的な意味合いが強いが、同じく芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」にも見えるように、当時の日本人にとって夢というのはいずれ消え去ってしまう、叶うことのない儚い念のようなものだったろう。
そしてこの句の中には読み過ごすことの出来ない単語がひとつ含まれていて、それは駆け巡るという言葉だ。芭蕉は、夢は枯野をさまようでもなく、枯野を漂うでもなく、枯野を散歩するでもなく、ましてや枯野に佇むでもなく、「駆け巡る」と言っている。駆け巡るというのは、抑えきれぬ衝動で走り回る様子を表している。
枯れ野とは何も無い荒野のことだから、つまり「夢は枯野を駆け巡る」というのは叶うことのない妄執が、何も無い荒野を、抑えきれぬ衝動で走り回っている様子を描いていることになる。
芭蕉という人は、そういう業の深い人だったということなのだろう。
僕は以前
俳句というのはスナップショットで、芭蕉の旅は、ひょっとすると
カメラを携えた撮影旅行だったのではないかと述べたけれども、つまり彼は貪婪なスナップシューターで、何も無い荒野だからこそ、かえって撮りたい獲物を探す妄執を駆り立てられるわけで、そういう深い業を負った自分が今は病に臥せっている。
この句はだから、写真でいえばセルフ・ポートレートということになるのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿