2018/11/25
当事者は誰か
クリスマスシーズンである。いやまだ11月だけど、今日妻とスーパーに買物に行ったら店内はすでにクリスマスの飾り付けがしてあった。よく言われることだけど日本人はクリスチャンでもケルト民族でもないのにやれサンタさんだとかやれイブは空いてる?だとかやれハロウィンでコスプレだとか騒いでいる日本人の何と多いことでしょう(®チコちゃん)。
いや別にそれが悪いとかいうんじゃなくて、こういった他民族の風習を日常に取り入れて楽しむ習慣って外国でもあるんだろうかとふと疑問に思ったのだ。
僕らは純粋にクリスマスの意義を踏まえて祝っているわけではなく、雰囲気を楽しんでるわけですよね。好きというより楽しんでいるという表現のほうがピッタリする。
なんにせよ「楽しむ」というのは当事者ではなく立ち位置としては参加者。当事者は楽しむなんていう余裕はなくて、あれこれ準備したり発生した問題を解決したりクレーム対応したり行事の意味を思い返して真剣に祈ったり。
そこへいくと参加者は気楽なもんです。楽しんでればいいんだから。オリンピック選手もむかしは円谷選手のように全日本人の期待の重圧に耐えかねて自殺してしまうひともいたけど、最近の選手は出発前のマスコミのインタビューで「楽しんできます]なんて答えているのは、もちろん練習中は当事者でも、さあいよいよ大会に乗り込むぞというときは参加者として楽しむほうがより実力を発揮できるからなんだろうなと思う。
なぜ当事者より参加者の方が実力を発揮できるかについては以前芸能人の(というよりミュージシャンか)の所さんの謎について考察したときの記事を参考にしてもらうとして、この「当事者ではない」というのが今日の考察のポイント。曰く我々日本人は当事者か、はたまた参加者か?
日本人はそもそも当事者意識の乏しい民族なのではないか?僕らは基本的に「当事者」ではなく「参加者」あるいは「見学者」なのではないか?それはクリスマスなどの外国の風習にとどまらず盆踊りにしてもお正月にしてもお花見にしても、いや実は人生の諸事万端にわたって当事者というよりどちらかというと参加者あるいは見学者として雰囲気を楽しむというのが日本人の基本的な立ち位置なのではないか。
例えば文学などでは西欧の有名な作家たち、ユーゴー、トルストイ、ドストエフスキーなどに見られるいわゆる大小説のような虚構の主催者であるよりも、見て評論する人、例えば清少納言、吉田兼好のようなエッセイストや見る人、見て楽しむ人、例えば松尾芭蕉や千利休などにみられるように、日本人の思潮的主流はドラマの中で格闘するよりも部外者として外から見て楽しむことにあるのではないか。人生幸朗師匠が「責任者出てこい!」と叫んでも誰も名乗りを上げないのは、ここには参加者しかいないからではないか?
では日本人が参加者、見学者、評論家であるなら、当事者はどこにいるのか?あるいは日本における主催者は誰なのか?
僕が思うに日本の当事者あるいは主催者は「無」あるいは「虚」ではないか。
僕達は「虚」をやぐらの中心に据えて盆踊りを踊っている。そしてこのやぐらの中心の虚にはその時時に応じて何でも入りうる。あるときはクリスマス。あるときはお盆。あるときは天皇。そしてあるときは「神」。
そしてなぜ日本人が自らを当事者とすることをよしとしないのかについては、「主格」に重きを置かない日本語という言語と関係があるのではないかと睨んでいる。(ほんまか?)
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