2019/07/18

互恵的利他行動

two lotuses
Olympus OM-D E-M1 Carl Zeiss Apo-Sonnar T* 2/135
 
 
 
以前京大の霊長類研究所で行われた実験をヒントに考えたことを書いてみたいと思います。
それはこのような実験です。
 
第一の実験
二匹のチンパンジーを別々の部屋に入れる。
2つの部屋は透明な隔壁で仕切られており相手の行動が見える。
それぞれの部屋にはリンゴの自販機がある。
Aの部屋のチンパンジーにコインを渡す。
チンパンジーはリンゴが出てくると思ってコインを入れる。
するとBの部屋の自販機からリンゴが出てきた。
当然Bの部屋のチンパンジーは喜んでリンゴを食べる。
がっかりするAのチンパンジー。
今度はBの部屋のチンパンジーにコインを与える。
Bの部屋のチンパンジーがコインを入れたことでAの部屋のチンパンジーもリンゴにありつくことができた。
以後互いに相手にリンゴを与えたら自分もリンゴをもらえると知ってこの行動パターンは存続する。
 
第二の実験
Aの部屋のチンパンジーにコインを与える。
チンパンジーはコインを入れる。
すぐにそのチンパンジーに複数個のコインを与える。
Aのチンパンジーはコインを入れ続ける(おいB!、お前もはやくそっちでコインをれておれにリンゴをよこせ!)
しかしBのチンパンジーは立て続けに出てくるリンゴに喜んで食べるばかりで研究員が渡すコインに見向きもしない。
やがてAのチンパンジーはコインを入れるのをやめ、Bも同じ過程を経てコインを入れなくなる。
二匹のチンパンジーはどちらもコインを入れず、どちらもリンゴにありつくことができない。
 
京大霊長類研究所の松沢哲郎教授はこの実験についての記事の最後にこう述べている。
 『人間はそうではない。母親が子どもの口元に「あーんして」とリンゴを持って行くと、子どもは次の1切れをつまんで「お母さんも」と母親の口に持って行く。大人も子どもも、自然と相手のための行動を取る。その結果、互いに相手のために行動しあう「互恵的利他行動」が生まれる。
 チンパンジーには、こうした互恵的利他行動ができない。互いに硬貨を投入し合えばリンゴを食べられるのに、相手だけに利益があることはしたくない。互いに助け合うことができないまま、無為に時間が過ぎてゆく。人間は、困っている相手を見ると、他人でも進んで手を差し伸べる。池で溺れかけている人がいれば、飛び込んで助けようとすることさえある。
 困っている人を見過ごしにできない。これは、霊長類の中でも人間だけに見られる特質だ。人間は互いに助け合うようにできている。』
 
人間に置き換えて考えてみる。
第二の実験のようにいつまでたってもBの人物がコインを入れないのにAの人物があきらめずにコインを入れ続けるかどうかは疑問だ。
Bの人物が断固としてコインを入れない可能性もある。
しかしそれは実際にはマレなのだ。
 
それはA(の人物)がコインを入れ続けてB(の人物)がリンゴを食べ続けている間に、まずBの心には「やましさ」や「Aに対する憐憫」や「Aに対する負い目」が生まれ、その心的ストレスを解消するためにいずれBはコインを入れるだろうからである。
AはAで「Bはそこまで人間の心を失っていないだろう」と信じてコインを入れ続ける。
 
だが我々は知っている。世の中には諦観や絶望でコインを入れないAや、呪いや復讐や自分の主義のためにコインを入れないBのようなひとがいることを。
長期にわたって、平然とこのような非人間的な行動をとることができるひとがいるのだ。

こういった、いわゆる世間的に「悪」とみなされる行動がなぜ可能なのかについて一番理解しやすいのは、結局ひとはそれぞれ自分の物語を生きていて、その中の主人公である自分の行動は「物語の中では整合性を保っている」ということだ。
 
だがこのような非人間的な行動をとるそれぞれの理由がいかに(本人たちにとっては)合理的であったとしても、松沢教授が言うように「互恵的利他行動」が人間に備わっている本能的な欲求であるならば、そのような非人間的な行動は本人にとって心的ストレスになっているだろうし、心の物語の中で整合性がとれていても本能(身体)との間にギクシャク感が残って、それはずっと沈殿していくだろう。
ではこのような心的ストレスは人にどのような影響を及ぼすだろうか。
 
ユング心理学者の河合隼雄先生が「自分の心が納得して売春しているのに何が悪いのか」とある少女から言われた時、先生は「売春は心には悪くないけど魂に良くないよ」と言ったという。
それは、「売る側も買う側もハッピーなんだからなんの問題もないとする彼女の頭によって言いくるめられた心」と「本当はこんなことはしたくないという心の深い部分や本能」との間の統合性が損なわれるからではないか。
僕は魂というのは無意識の中で「頭と心と身体の統合性を担っている場所」のことではないかと考えている。
 
ひとはみな自分の物語を生きている。
自分の行動は物語の中では整合性を保っていても心の深い部分や本能(身体)との不整合があると魂はアラート(警告)を発する。アラートは夢に現れたり、物語(心)に対し修正を要求したり、身体にサイン(病気)を送ったりしているのかもしれない。



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