「原罪」と同様我々日本人にとって馴染みにくい概念に「悪魔」がある。
オーメンやエクソシストといった映画を観ると「神」や「天使」と同様、「悪魔」というキャラクターは欧米人の脳内劇場の大看板として専用の楽屋を与えられているような気がする。
欧米人ではない我々には本当のところは分からないが、彼らの心のなかには常に天使と悪魔がいて天使が勝つと善行を、悪魔が勝つと悪行に走るという、ディズニーアニメのようなこと(これとか)が本当に行われているのかもしれない。
彼らの脳内ではイデアが人格化しやすいのだろう。
日本人にはこの、悪行を悪魔のせいにするという習慣があまり見られない。
少なくとも日本人にとって「悪」は分割統治の対象ではない。
それは我々には人格神がなく、また悪魔という人格悪も持っていないからだろう。
さてでは日本人にとって「悪」とは何だろう。
「あいつはワルだ」とか言うけれど、我々の中では「悪」は悪魔というキャラ以前に積極的なイデアとしてさえも存在していないような気がする。それはむしろ「非道さ」だったり「わがままさ」だったり「幼稚さ」だったりというふうに心の自己管理の問題として捉えられているような気がする。
この日本人の「自己管理」ということと深いつながりがあるのが「修行」という言葉で我々は何かというとすぐに「まだまだ修行が足りません」と言う。僕は写真が趣味だけれども、写真関係のブログやSNSには驚くほど頻繁にこの「修行」という言葉が登場するし、実際自分でも使う。前述の「まだまだ修行が足りません」を筆頭に、「修行中です」「修行したいと思います」など、ここは禅寺かと思うほど人々は修行に明け暮れている。
これは日本人だけに見られる現象だろうか。
「修行が足りない」は英語では"have more to learn"とか"require more training"ということになる(英辞郎)。
ここには学習や訓練というイメージはあっても自己研鑚的なイメージは弱い。
Flickrでも外人がこれに類することを書いているのはみたことがない(彼らは"Catching up soon"とか"Catching up slowly"とかは言うけど、これは大雑把に言えば勝ち負けの世界の言葉で自己研鑚的な意味合いは薄い)。
つまり趣味にしろ仕事にしろ日本人は自己研鑚という座標軸の中を生きているのではないか、そして「善」も「悪」も、もちろんその社会への影響を抜きには語れないけれども、概念の出自としては主に自己研鑚という座標軸のプラス極とマイナス極として存在しているのではないか。
というなんだか収まりの悪い結論のまま今日のお話は終了です。
まだまだ修行が足りませんね。
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