2013/06/09

共鳴するトーン

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「昭和三十六年に開催されたその「美の美」展で、佐野乾山が初めて世間にお目見えしたのです。
いまでも忘れられないのですが、第一線の陶磁学者である林家晴三さんが、作品のキャプションに「乾山の深い詩情の世界に、深く深く魅せられてしまった」という賛辞を書かれていました。
しかし私はそれを一瞥して、真贋は別としてなんて騒々しい乾山なのだろうかと思いました。
乾山はああいうものではない。もっと華やかでありながら、その後には、なにか枯淡の精神が流れているように思っていたからです。」
『「ニセモノ師たち」中島誠之助著 講談社』からの引用。

僕はテレビのなんでも鑑定団が好きでよく観ます。
鑑定団の面々が持ち込まれた物品の真贋を説明をするときの言辞に僕は興味がある。
例えばそれが書画なら描かれた題材、筆の勢いやタッチ、銘や押印。
陶磁器なら形や色合い、大きさや肌触り、使われている土の性質、高台の造りなど、それまでに見つかっている名作との比較で理屈に合わない所がないかをチェックする。
こういう科学的アプローチは真贋を客観的に判定する手法として最も説得力のあるところです。
そのような説明のなかにそれこそ聞き手に強い印象を残すものがあって、それが冒頭にも引用した中島誠之助氏の抱く第一印象についての言明です。

予め断っておきますが、僕は帰納法的アプローチのほうがより精確だとか、印象による評価抜きにして真贋は語れないとかいう議論をしたいのではありません。
印象とひとことで言っても文字通り無数の修羅場をくぐってきた中島氏のような超一流の鑑定士だからこそ意味を持つわけで、我々のような素人の遊び半分の印象とは訳が違う。

ではなぜ素人である僕がこのあたりのことに興味が有るのか。
引用したのはニセモノにまつわる本ですが、僕に興味が有るのはニセモノのニセモノ性ではなくて、何をもって本物というのか、あるいは本物とは何か。

工業製品ならすべての製品は細部に至るまで同一です。
しかし作者の中には「揺れ」がある。
だから作品にはその「揺れ」の反映として色や形や取り上げる題材などが前作と全く同じではありえない。
だから鑑定士は作品を構成する個々のファクターについて同じかどうかを見ているのではなくて、その揺れが許容範囲かどうかを見ているのでしょう。
しかし作者によって揺れの振幅が違うわけです。
振幅の小さい作者は工業製品に近くなるので判定が容易ですが振幅の大きな作者は判定が難しい。
そこにこの帰納法的アプローチの限界がありそうです。

しかし作者が同一である以上取り上げる素材が変わってもテーマは殆ど変わらない。
テーマが変わらないとどうなるかというと作品の発するトーンが同じになる。
で、実はこのトーンというのが馬鹿にならない。
例えば音叉のA音は440Hzですが、別の音叉の固有振動数が441Hzでわずかに違ってもこの二つの音叉は共鳴しないのですね。
鑑定士は作者のテーマが発するトーンを肉体的な共鳴として自らの内にあらかじめ持っている。
それはかつて作品を観た時に感じた内なる振動であり(ひとはそれを感動という)、必要なときにすぐに内面に再現できるわけです。「ああ、あのとき観た乾山は本当に素晴らしかった」。
そしてそのトーンと目の前の物品が共鳴するかどうかで非常に精確に真贋を判断できるということになります。
これは仮定ですよ。そう仮定すればひと目で真贋を見抜く彼らの根拠をうまく説明できるという。

しかしこの仮定があながち出鱈目でないと思われるのは前述の引用文のしばらくあとに更にこんな記述があるからです。
「むろん骨董界のほとんどの人たちは、佐野乾山が「腹に入らない」(納得がいかない)ということで取り扱う人は少なかったようですが。」同引用。

腹に入らない、面白い表現です。腹にひびくという言葉もあるように、ひとは大切なものかどうかの判定にその多くを(理性ではなく)身体のひびきや反応で感知しているように思われます。
そしておそらくそれは非常に精確なのです。



2 件のコメント:

  1. とても面白い話でした。
    いままで漠然と理解していた事を、綺麗に言い当ててくれたような気がします。
    最後の「腹に入る」という言葉は面白い表現ですね。
    やっぱり人間や芸術表現を完全に理解するということは、理屈や計算でなく、作者の表現している色や音の背後にあるトーン、振動、周波数のようなものが自分の腹に入って同化した状態の様な事ですよね。

    コメントをするのに手間がかかるので、あまり書き込んだりすることが出来ていませんが、
    SHINさんの作品も僕の腹に入って居るので、よく見に来ています。
    別々の人が撮った写真を並べてもらって、どれがShinさんの作品か判定して下さいという問題が出たら、当てる自信はあります(^^)

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  2. jawaさんありがとうございます。
    感動的な作品とは何で、感動できない作品とは何か。
    つまり我々は何に感動しているのかということのヒントがこの話の中に少し見える気がするのです。
    おそらく良い作品にはトーンがある。
    その作品固有の振動数があるのですね。
    そしてそれを観る我々の中の同じ固有振動数の部分がその作品と出会うことで共鳴するのだと。

    感動のない作品とはいわば作者とさえ共鳴していない作品なのです。
    以前の僕の写真を見返していると、やっぱりいいトーンが出ている写真は今でも好きですが
    どんなにうまく撮れたつもりでもトーンがなければだめなんだ。

    ジャズには"スイングがなければ意味が無い"という言葉があるけど
    写真の場合"トーンがなければ意味が無い"という気がします。
    じゃあどうすればトーンのある写真が撮れるのかというと、わかりません。
    たぶん心が震えなかったらシャッターを切らないとか、出来た写真に心が震えなかったら潔く捨てるとか、そんなこと。
    いろいろ考える割に結論は大したことないですね、いつもながら(笑)。

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