2012/09/20

般若心経の電脳的解釈


これくふて茶飲め
仙厓画「これくふて茶のめ」




観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、
ブッダが深く思索を重ねた結果

照見五蘊皆空、度一切苦厄。
人間の身体も脳も脳の働きもすべてバーチャルだと気が付いて、すべての苦しみや行き詰まりをコントロール下に置くことができた。(そしてこのように言った)

舎利子。色不異空、空不異色、
(しみじみと)なあ舎利子くん。僕らの感じていることに嘘はないと僕は思っていたし、根拠のない妄想は到底現実ではないと思っていたんだ。

色即是空、空即是色。
でも驚いたことに僕らの感じていることは全てバーチャルだったんだ。そしてバーチャルこそが僕らの現実だったんだよ。

受想行識亦復如是。
僕らを取り巻く世界やそこから僕らが感じたり考えたりすることすべてが、実はバーチャルだったなんて信じられるかい?

舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色無受想行識、
舎利子くん。僕らが日々感じている、世界を動かしている見えない力みたいなものもやっぱりバーチャルで、
生まれたとか死んだとか、きれいとか汚いとか、増えたとか減ったとか、そういったすべては結局僕らの脳が生み出したものだったんだ。

無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、味覚も、触覚も、そしてそれらの総体から生まれるイメージも、全部バーチャル空間での出来事だ。

無眼界乃至無意識界。
つまり感覚受容器からインプットされる情報の総体としてのイメージ空間は脳内仮想現実ということだ。

無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽。
悩みというものは確かに存在するが、それは脳が作りだしたものにすぎない。
老化現象や死もまた確かに存在するが、それもまた脳の中だけにあるのであってリアルではない。

無苦集滅道。
苦しみやその原因である煩悩やそこからの悟りや悟りへ至る方法などを僕はずっと追い求めてきたが無駄だった。

無智亦無得以無所得故。
そもそも知識を得ることでこの問題が解決すると思っていたのが間違いだったんだ。

菩提薩埵依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
以上がブッダが言ったことだ。
ブッダのこのバーチャルリアリティ認識を理解すれば思考はより自由になり、
思考が自由になることで恐怖や本末転倒な考えから自由になれる。

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
過去現在未来を問わず、このことに気がついたものは真の自由を得てきたし今後も得ていくだろう。

故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
そういうわけでこれがもう究極のこの世界の認識形態であって、ここに一切の苦しみは終わり一切の偽りも終わる。

故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、
こういったことを忘れないように呪文にしておいたので
これを唱えるたびに思い出すようにしよう。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経
ギャテイギャテイハラギャテイハラソウギャテイボジソワカハンニャシンギョウ



「般若心経」というのはブッダの「バーチャルリアリティ宣言」みたいなものだ。
いま僕らのまわりにはテレビや映画やゲームなどのバーチャルリアリティがあふれているので
仮想現実という言葉が意味するものをイメージすることは難しくない時代になったけど
ブッダの時代に彼が「バーチャル」というイメージを獲得できたことは驚くべきことだ。

そしてこういったバーチャルリアリティという言葉をを容易にイメージできる今の日本だからこそ
彼の言いたかったことを理解できる素地は充分できていると思う。
それで僕みたいな門外漢が解釈するなんておこがましいが
僕なりに般若心経を電脳的に解釈してみた。

問題は空の取り扱いなんだろう。
僕らが生きている世界は「無」だと言われても、
目の前にあるパンはないって言うなら君は食べなくてもいいよ、僕が食べるまでだし。

つまり「ない」のではなくてありかたの問題だと。
実際それはあるんだけど脳内バーチャルリアリティとして存在している。

だから例えばパンがないことに絶望して自殺するというのは
パンがないという仮想空間で行き詰まっているという事態に対してパソコンの電源を切ってしまうという、ちゃぶ台返しみたいな行動に出ているわけでそれは本末転倒じゃないかと。
パンしか見えないパンデフォルト空間からスパゲッティデフォルト空間に移動すれば、実はパンの横にスパゲッティがあることに気が付いてスパゲッティが食べられるかもしれない。

人間は自分の住む仮想空間を絶対視してしまうためにやすやすと絶望してやすやすと電源を切ってしまう傾向がある。
だから悲しむなとはいわない。悲しみ続けるなと。怒るなとはいわない。怒り続けるなと。
電源は切ってもいいけど、切らなくてもいい。

なおこの般若心経の電脳的解釈にあたっては
リービ英雄氏の般若心経英訳やネット上での様々な仏教解説などを参考にさせていただきましたが
これは学術的論考ではなく一個人の奔放な解釈であり、語義理解の間違いは全て私個人に帰するものです。

追記
仏教における中道とは
わざわざ道の端に行くな、道の真中にいれば良いという意味ではなく
人間というのはほっとくと必ず「あれかこれか」という極へ行きたがるが
そのどちらにも行かず「宙ぶらりん」でいることが重要であると。
その、宙ぶらりんで揺らいでいる状態を維持することがいかに難しいか。

6 件のコメント:

  1. 今回も興味深く拝読させて頂きました.

    先日,山を登りながら息苦しくなりましたが,この感覚はどこまでバーチャルでどのぐらいになったら(閾値を超えたら)リアルに変わるのかなと考えていました.
    今思うに,空想も現実も同じものなんだなと.

    扇動的な情報が錯綜する中で,どこまでがやらせで,何が本当の情報かと考えていましたが,やらせと真実に境界はないのかなあとも思います.これが宙ぶらりんで続いていいればいいのですが,極端な方向に進めて利を得ようとする力が強いのが心配ではあります.もっとも周囲が道の端に行っても,自分は宙ぶらりんが維持できれば良いと思いますが...

    国際問題に関して,ツイッターからのリンク先も大変参考になりました.ありがとうございます.

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  2. とど2号さんありがとうございます。
    精神統一すれば火もまた涼しとか言いますが
    悟りを得ると辛いものも辛く感じなくなるなんてことは実際にはなくて
    やっぱり痛いものは痛いしお腹も空くし(笑)。
    ただ、痛いから不幸だ、不幸だから死のうという流れは脳が作ったお話なんだろうなという気がします。
    いや僕自身がそういうお話街道を突っ走ってしまう傾向があるので
    こういう文章を書くのも自分の精神のバランスを取るためという目的があります^^。

    政治問題というのは結局のところ
    どちらがどれだけ強引に自分たちのお話を押し付けるかというパワーゲームなんでしょうけど
    押し付けられる側としてはそのお話の「構造」が知りたいのに
    新聞もテレビも、今どちらのお話が優勢かぐらいしか伝えてくれないし
    ひどい場合には背後勢力と一緒になってお話を押し付けようとしてくるのがとても嫌ですね。
    なんだか最近、時代に流れている空気が禍々しくて、
    このまま互いに憎悪のお話同士をぶつけあっていくようなことになっていくんでしょうか。
    マスコミの中に、正気とユーモアを持った人が登場して欲しいです。

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  3. 般若心経は読んだことがなかったので、shinさんの解釈はとても現代的で面白かったです。
    仏とは色も形も無く、無限の広がりを持っていると言われています。
    それはとても人間の理解を遙かに超えた存在です。
    釈迦はただ一人それを悟って、その視点で語っているのだと思います。なんとか我々にも理解しやすいようにいろいろ手を尽くし、「方便の教え」として無数の教典が残されていますね。
    僕が拠り所にしている教えには、空とか無とか難しい教えを聞く事により、自分には全く悟ることが出来ないダメ人間だと自覚したときに、仏の救いがすぐ近くに来ているという教えです。
    極限まで単純化すると、自力で悟って仏になるか、仏に救ってもらって仏になるかということです。
    僕なら後者を選びます。
    一人で分かった気になっているのが一番危険だという教えもあります。
    shinさんも「要するに、よく分からないわw」でいいとおもいますよw ぼくも分かりません。

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  4. jawaさんありがとうございます。
    僕らはえてして古いものほど神がかっていたり魔術的であったり謎めいていると思いがちですが
    実はものごとは生まれた時が一番シンプルで現実的であって、年代を経るごとに魔術化し神話化していくような気がします。
    ブッダにしてもイエスにしても我々と同じ生きて歩く一人の人間だったのに歴史の中でどんどん神格化していく。
    ひとは知恵を作るが歴史は神を作る。

    僕はキリストが言ったことにしてもブッダが言ったことにしても、生身の人間が言ったことを同じ生身の人間が理解できないはずはないと考えるタイプの人間です。
    精確に理解できなくても、彼らが何を伝えたかったのか、それを文章の語調をヒントに読み解くことができるのではないか。
    それはやっぱり僕はイエスやブッダが「わかった!」と思った感動を共感したいからだと思う。
    彼らも当然自分が感じた感動を他の人にも共感して欲しかったに違いないと思う。
    だから僕はわからないまま呪文を唱えるよりも「結局あなたは何を伝えたかったの?」と問い続けたいのです。
    わからないということに対する謙虚さももちろん必要だと思いますが
    長い歴史の中で変成していったものが、最初はそもそもどんな形をしていたのかが知りたいのです。

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  5. その探求心は僕にもあります。ぼくもshinさんと同じ気持ちでいろいろな教典を読んでみたことがあります。
    この探求心こそが非常に重要で、その答えが自分で探すまでもなく2500年前に完成していたことに非常に驚きました。
    shinさんも、「自分のための教え」に出会えると良いですね。
    いままでの自分を完全に翻させられる体験をすると思います。そしてその体験が仏典の導きなしに絶対にたどり着けなかった事も自覚もするでしょう。
    その上で「分からない」なのです。
    説明が不十分すぎますが、ただ分からないわwとはおおきな差があります。
    何を言いたいかというと、その探求心をどうか大切にしてくださいってことです。

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  6. jawaさんありがとうございます。
    今後教えを請いたくなったらjawaさんに相談させて頂きます^^。

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