ガリラヤ湖でイエスは弟子たちを舟に乗せ向こう岸へ向かわせる。
陸から離れたところで舟は強い逆風にみまわれ漕ぎ悩む。
イエスは湖上を歩いて弟子たちの舟に近づく。
弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ恐怖のあまり叫び声をあげる。
イエスは彼らに話しかける「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
ペトロは「主よ、あなたでしたらわたしに命令して水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言う。
イエスが「来なさい」と言ったので彼は舟から降りて水の上を歩きイエスの方へ進む。
しかしすぐに強い風に気付いて怖くなり沈みかけ叫ぶ「主よ、助けてください」
イエスは彼を捕まえて言う「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
「信仰」という物語を信じることにより我々には不可能と思われていることが可能になるということを彼は顕現させたかったのだろう。
しかし信仰する者には今後数多くの艱難辛苦が待ち受けているだろうということ、強い信仰なくしてはその困難を乗り越えることは出来ないだろうということをこの話は示唆している。
その視点で読み返してみるとこの話が明瞭に「寓話」の形式を取っていることがわかる。
問題は彼が本当に湖上を歩いたかどうかではなく、この話が読む者に何を伝えたがっているかなのだ。
そしてそれは彼の「復活」においても。
追記:
向こう岸とは天国。
舟は教会。
イエスは信仰の顕現者。
逆風は文字通り逆境。
動揺する舟は教会の受難。
誘われて舟から下りるペトロは教会の外で神と相対する個人の姿。
風に驚いて溺れかけるペトロは信仰の揺らぎ。
無信仰なワタシなどは、いつも「溺れてる状態」なのかも知れませんね。。
返信削除いざ、神を呼ぶ言葉を唱えん・・
「オゥ、マイ、ガァッ!」
TiM3
>TiM3さん。
返信削除お返事を書いているうちに大きくなったので(いつものことですが(笑))、「日本人の無宗教」という内容でブログにアップしました。TiM3さんのコメントから僕は刺激を受けてイメージが広がることが多いです。いつもサンキュです。
>TiM3さんのコメントから僕は刺激を受けてイメージが広がることが多いです。
返信削除>いつもサンキュです。
恐縮ですm(_ _)m
色々と考えが広がったり、飛んだりするんですが、
いざ話し合いになると興味が急速にしぼんだりします(=^_^=)
だから「会議の序盤は好きだけど、だらだらするのが大嫌い」なのです。
あ、出世出来ない理由が分かって来・・
TiM3
>だから「会議の序盤は好きだけど、だらだらするのが大嫌い」
返信削除たぶんみんなTiM3さんの思考の速度についていけないんだと思います。「もー どうしてこんなことがわからないんだよ!」ってなることがありますね。
反対に、周りがみんな分かってることが、
返信削除ワタシにはさっぱり分かんないこともありますけどね。。
ある意味、麻生総理っぽい部分があるのかも(・ω・)
TiM3
麻生さん。尊敬する作家吉田健一氏の血縁なので期待していたんですが。
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