日本人の無宗教というのは宗教を「持たない」というネガティブな姿勢ではなくて
「宗教を持たない」というポジティブな姿勢である。
私達は宗教というものがついには一個の「物語」であり、物語を選択しない自由もあるということを無意識に知っている。
日本人の特性は、宗教の有無よりもう一つ上のステージ、「宗教という物語を私達は採用しない」という立場からもたらされる。
私達は「現象の上をたゆたう身軽な愚か者」としての立場を無意識のうちに選んでいる。
そしてそれはその行動においてはすぐれて宗教的なものだ。
西欧の一般的な宗教が半周目とすれば私達の無宗教は回り終えて一螺旋上の原点に回帰した立場といえるかもしれない。
そして私達はそれを意識せずに行っている。
だから西洋人から、あんたがた日本人には宗教がない、嘆かわしいことだと言われても反論できない。西洋人からそういわれると、宗教を持たなくちゃいけないんだろうかと自問したりする。また宗教がないにもかかわらず自らがすぐれて宗教的な特性を持っていることをうまく説明できない。
ある日西洋人がやってきて、あんたがた日本人はスパゲティーを食べない。嘆かわしいことだという。西洋人からそういわれると、スパゲティーを食べなくちゃいけないんだろうか、そういえば外人はみんなスパゲティーを食べている。なぜ我々はスパゲティーを普段食べていないんだろうと自問したりする。
ある知識人は日本が偉大な思想家を輩出しないのはスパゲティーを食べないせいだという。またなぜ私達はスパゲティーを食べていないのにこんなに栄養状態がいいんだろうと不思議に思う。
それは私達はスパゲティーも食べたけど、やっぱりお米の御飯の方がおいしいということを知っていて、スパゲティーを食べたことがあることを忘れてしまっているからかもしれない。あるいはスパゲティーは食べたことはないけれども、お米だけで充分すぎるほど幸せなので、あえてスパゲティーを食べたいと思わないのかもしれない。
だから私達から見ると西洋人がスパゲティーを食べているのを見て、妙なものを食べているなとは思っても、スパゲティーを主食にしようとは思わないし、スパゲティーを食べている人に向かって、お米を主食にしたら?などとお節介を焼いたりしない。お米で充分幸せなので、もうこのことは私達のテーマではないのだ。
何を食べたらいいかは、もはや僕達のメインテーマではない。
それはかつて僕達のメインテーマであったかもしれないが今はそうではない。
僕らが一周回り終えて原点に回帰したというのはそういう意味だ。
西洋人にとっては、何を食べたらいいかはまだ依然として彼等のメインテーマである。
彼等は同じスパゲティーなのにカルボナーラがいいかペペロンチーノがいいかを巡って殺し合いをする。
あるいはスパゲティーを食べない民族の口をこじ開けてスパゲティーをむりやり押し込もうとする。
どうしてもスパゲティーを食べようとしない民族を皆殺しにしたりする。
僕達はただ御飯を食べて「おいしい」という。
テーマが「食文化の押し売り」にも掛かって来ましたね。
返信削除ワタシの勝手な推測では、いわゆる「東側」の国の人々の方が、
「連帯感」も無論あり「足るを知り、消費文化に毒されず、個々のレベルでは優しくて素晴らしいんじゃないか」と(も)感ずるものです。
その一方では、宗教にも似た(中枢部による)「精神的な支配」を余儀なくされてることでしょうが・・
以前に読んだ『ゴルゴ13』のエピソードで、マイケル・ジャクソンの「BAD」を耳にした東側将校(?)だかが「退廃の象徴め!」みたいに毒づくコマがあったのを思い出しました。
主観的には「感じ方の自由」なんだけど、根本で「価値観のすり込み」が行われてる例と言えるかも知れません(・ω・)
TiM3
>TiM3さん。
返信削除東洋は多色でもいいとおもっているのに西洋はなぜか一色に染め上げようとするんですよね。
困った人たちです。
ホラー映画でも、西洋モノの方がキャーキャー騒いでうるさいですよね。
返信削除あれは、東洋人からすると実に「鬱陶しい」もんです(・ω・)
きっと宗教観の違いから来るものかなぁ、と。
TiM3
頭に666と書いてあったら笑っちゃいます。
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