内田樹先生の張良のお話。
「中国は漢の武将である張良は、若き日の浪人時代に武者修行の旅先で、黄石公という老人に出会う。
太公望秘伝の兵法の奥義を究めたというその老人は張良に対し、君は見どころがあるので奥義を伝授してやろうという。
張良は喜んで、それからは先生にお仕えするのだが、先生はいつまで経っても何も教えてくれない。
ある日張良が街を歩いていると、向こうから先生が馬に乗ってやってきた。
そして、張良の前まで来るとぽろりと左足の沓(くつ)を落とす。
先生は張良に向かって「拾って履かせよ。」と命じる。
張良は内心ちょっとムッとするが黙って拾って履かせる。
別の日、また街を歩いていると、再び馬に乗った先生と出会う。
すると先生は、今度は両足の沓をぽろぽろと落として
「張良、拾って履かせよ。」という。
張良はさらにムッとするが、黙って先生に靴を履かせる。
その瞬間、張良は全てを察知し、太公望秘伝の兵法の奥義を会得して免許皆伝となる。」
馬上の黄石公は草履を落として言う。
「張良、拾って履かせよ。」
なぜ私たちは世界の不条理に腹を立てるのだろう。
それは私たちがあらかじめ自分で想定した物語の中を生きているからである。
腹を立てると私の精神と身体から自由が奪われ、動きにしなやかさが失われ、膠着し、斬られてしまうのだ。
不幸とは、自分の作ったお話にがんじがらめに縛られて身動きのとれなくなった状態である。
この世界には、不幸から抜け出すための宗教が二種類ある。
一つは、強力なお話に引き込んで、私個人の小さなお話をもっと巨大ななお話にすり替えてしまう宗教である。お話が巨大であることと、膨大な数の他者とお話を共有することで「閉塞」を免れることができる。
もう一つは、あなたを縛っているのはあなた自身の物語であり、それは単にあなたの作ったお話にすぎないということを教える宗教である。いわば「お話」という舞台をちゃらにしてしまうことで「閉塞」や「固着」から自由になるわけである。これは宗教というよりも「知恵」に属する。
前者がユダヤ・キリスト・イスラム教で、後者は仏教である。
仏教の知恵の本質は二つの認識に集約される。
A. 全ては変化する
B. 全ては関係し合っている
この二つの認識からイメージされる像は、空間に漂う編み目(ネット)の結び目が互いに信号を発しながら互いに位置関係を変化させつつ出現と消退を繰り返している様子である。
我々の不幸は、AやBに対する認識の欠如から来る。それは私たちの頭が悪いせいではない。
A'. 対象を固定したい
B'. ある限られた系の中だけで考えたい
という傾向を脳が持つからである。
脳の働きの本質は、外界のモデルを脳の中につくって、それを操作することである。
操作する対象が自由に変化したり、環境がオープンで関連因子が3体以上に増えると計算不可能になって困る。だから脳は油断するとすぐにAやBを否定するのである。
これは脳のもっている「業」である。ガウタマシッダールタはそのことに気付いたのだろう。
Aの否定は、自分にとって好ましいことがずっと安定して持続することを望むこと、あるいは、好ましくない事態が一向に変化しない(と思いこんで)嘆くこと。
Bの否定は、限定した関わりしか持とうとしないこと。
「私」というのは固有の係数ではない。入力される値によって出力を変化させる関数であり、また私たちは種々の関数の間を渡り歩くことも出来るのである。
私たちは、ほとんどいつも単一のモードで行動している。
ほとんどいつも。
どうすれば単一のモードから抜け出せるだろう。
その方法の一つが、ありのままの外界を眺めることである。私たちは外界のディテールを見つめることでモードの多様性に自己を解放することができる。
「私は一瞬一瞬モードを選択することができる」ということ。
自己の内面しか見ず、単一のモードから抜け出すことが出来ないことが不自由であり、悲しみであり、遷延する怒りであり、不幸である。
禅においては、悟りは常に脚下にある。
脚下とはすなわち「地面」であり、それは「私のお話が終わるところ」であり、「ほかのお話が始まるところ」である。
不幸な人が自殺するのは、自分が作ったお話からどうやっても逃れることができないために、そのお話の創作者、つまり自分を破壊することで解放されるのだ。
こんな話がある。ある男が破産して、自殺する前に今東光和尚に一目会いにいった。和尚は男に深く同情し、債権者に対する怒りを発してこう言った。「おれが今からそいつの所へ行ってしょんべんしてきてやる!」男はこれを聞いて自殺しなくてすんだという。またある大学生が自殺を考えて、週刊誌の人生相談をやっていた開高健に手紙を出したところ、開高健は「いっぺん引っ越ししてみたらどうや」と答えたという。
まあ、いつもこのようなやり方が成功するわけではないが、彼らが救われたのは、違う「お話」の導入によって、自分を縛っていた「お話」からの解放がもたらされたからだろう。
私たちが見ている世界は、リアルではなく、「私のバーチャル」であり、私はそのバーチャル世界の登場人物であり、私はそのバーチャル世界の中で、リアルから来る刺激を受けて、常に後付の物語をその本にぺたぺた貼っていく。その後付の物語のモードが単一なのである。この単一のモードで構成される物語が、後追い的に私の世界に対する姿勢と行動を規定している。
青年期というのは多様なモード(物語)を学習する時期である。いろんなものに熱中する。熱中というのはモードの学習過程である。大人になるともうあまり熱中することがなくなって寂しく感じ、熱中できる人をうらやむものだが、大人というのはある程度多様なモードを手に入れてしまったのだから、熱中するものがほとんどなくなっているのが当然なのである。
大人というのは手に入れた多様なモード間を移動できる能力を有している人である。
モードを選択できる人。それが大人である。不幸というのは、単一のモードでしかお話を作れない人、あるいは単一のモードから離脱できない人である。喜びというのは、あるモードからの解放、もしくは新しいモードの知覚である。悲しみとは愛着するモードからの外的な力による離別である。人間とはモードとの固着と離別を繰り返す生き物である。それが人間の定義でもある。
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