2009/03/13

時空を超えて届く折り畳まれた手紙のようなもの

SDIM9901

なぜか自分でもわからないが、最近無性に怪談が読みたくなって、ラフカディオ・ハーンの「怪談」に続いてちくま文庫の「文藝怪談実話」というのを買って読んでいる。
身体が明らかに何かを欲している状態から始まる読書というのはあまり経験がないので、たとえそれが怪談であってもやはりうれしいものだ。

もともと僕自身は悲しくもほとんど霊的なものを信じない人間で、死ねばエントロピーの低い状態から高い状態に移行してバラバラの分子に分解するだけだと思っている。生命というのはある情報の入れ物のようなもので、この世の始まりからこの世の終わりまでをじっとして過ごす物質もあれば、時間の中をある特定のパターンで転がっていく物質もある。生物という存在様式は、特定の転がり方のパターンを維持する情報を入れた入れ物の示す時間の過ごし方なのだろう。

幼い頃はそれが無性に怖かった。つまり全く何もなくなってしまうということが。
永遠に無の状態が続いていく。それは想像するだに耐えられないことだ。せめて幽霊にでも成れるものなら、幽霊になってでも意識を保ちたいと思ったものだ。
だが最近車を運転していてふと思ったのは、僕等はこの世に生まれる前は単なる浮遊する分子だったし、死ねば再び浮遊する分子になる。
みんな死ぬことを恐れるが誰も生まれる前の状態を怖がらない。
「あー怖かった!」「何が?」「生まれる前。」
そんな会話は聞いたことがない。
生まれる前のことを怖く思っていないのだから、死んだあとのことも怖がる必要はないのだろう。

だがこの景色は何もなくてすがすがしいがあまりに殺風景だ。
幽霊は、いた方が楽しい。
このちくま文庫の「文藝怪談実話」は明治・大正・昭和の作家や著名人が経験した不思議な実話を集めたものだ。
この本を読むと、当時の人たちは本当にたくさんお化けを見ていたんだなと感心する。お話はあくまで怪談だが、その時代の息吹や生活の細部も描かれているのでおもしろい。
まだ半分くらいしか読んでいないが、中でも感心したのがブルースの女王、淡谷のり子の体験談だ。文章がうまい。この人はこんなきちんとした文章を書く人だったのだ。この人に限らず昔の人の文章は背筋が伸びていて気品がある。
彼女は多くの不思議な体験をしているがこの本にはそのうちの4つの体験が載っている。いずれの話も非常に興味深い。ここには書かないがいずれも霊の存在を前提にしなければ納得できないものばかりで楽しくなってくる。やはり霊というのは存在するのだろうか。

だが待てよ、とやはり僕は思う。嗅覚の優れた犬はガンの人を嗅ぎ分けるというが僕達にその違いはわからない。それと同様に僕達は多くの信号を周囲に発しながら生きているが全てが意識に昇っているわけではないし、微妙な信号をキャッチできる人は限られている。

僕達はひょっとしたら時空を超えて届く折り畳まれた手紙のようなものを発信しながら生きているのかもしれない。僕達が死んで完全に消滅してもそれは宙を舞いながらその限りなく小さく折り畳まれてはいるがたくさんのお話を乗せた手紙を開いて読んでくれる人を待っているのかもしれない。





4 件のコメント:

  1. 匿名3/13/2009

    おもしろそうな本ですね。
    私もshinさんと考え方は似ていて、人は死んでしまえば考えることも思い出すことも無くなるので、生きている間の方が辛いことも多いから考え方によっては死んだ方が楽かな、と。
    3歳くらいから「自分はどこから来たのか」とよく考えました。場所は決まってトイレで(笑)自分の魂が入っているこの体は一体なんなのか、と。
    体の細胞は200種類ほどでしたっけ。それが60兆あるとして、その中の情報量っていうのはものすごいじゃないですか。
    その持ち主が死んでしまえば、例えばPCの強制終了の時のように「キューーーン」とかいうんでしょうか。あはは

    自分がなくなる前に、沢山のものを残しておきたくて頑張って生きているとかげでした。

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  2. 匿名3/13/2009

    yamです。
    ガンを嗅ぎ分ける犬、ニュースで見た事有ります。
    ちょっと違うかもしれないけど、私、匂いで人を判断するときがあります。
    のちに自分に害を及ぼす人はケモノのような匂いがするんです。
    動物園できつねの辺りにいくと臭うような匂いです。(きつねゴメン)
    「すごく臭ったね」なんて一緒に居合わせた人に言うと「何も臭いませんでしたよ」…。
    どうやら私だけがその匂いを感じるようなので、その後は臭いなと思ってもだまって「おくちチャック」です。コレも微妙な信号をキャッチしてる事になるのかな?
    でも自分の中で密かにケモノ臭の人には用心です。

    ラフカディオ・ハーン、以前松江を旅行した時にハーンが住んでいた家を見学した事があります。極度の近眼で執筆時は机につっぷしたようにして字を書いていたそうです。珈琲が好きな人だったらしく、ラフカディオ・ハーン珈琲を土産に買いました。

    私も時折、京極夏彦のぶ厚〜〜〜〜〜い文庫を時間も忘れて読みふける時があります。でも私はオバケより生きてる人間の方がコワイかなぁ?
    くくくっ。

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  3. 匿名3/14/2009

    死という完全なる無があるからこそ、我われの生にドラマが発生するんでしょう。
    仮に永遠の生があるとすれば、それは平板で、死と変わらないものになるんじゃないかと思います。

    な~んて、私の死生観っていまのところ、そんなものですね。

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  4. とかげさんサンキュです。
    >生きている間の方が辛いことも多いから・・・。
    たしかに生きてると辛いことが多いですね。
    でも辛いことと楽しいことのどっちが多いかというのは難しい。
    辛いことばっかりだなと思っているとそのうちにまた楽しいことがやってきて、辛かったことを忘れたり。
    いろいろ考えてると辛いことが多いですが、前後のつながりを全部チャラにして、「今が一番幸せなんだ!」とあえて言い切っちゃうと、たしかにこれで何が不満なんだ。今が一番幸せだと言えんこともないよなという気にもなれたりします。

    yamさんありがとうございます。
    出ましたねー。待ってました、こういう話。
    やっぱりいるんですね、こんなに身近に特殊な能力を持った人が。
    すごい。
    すごく特殊な能力なのに、ごく普通に生活していて、本人もそれほど特殊な能力とは思っていないところがまたすごい。
    僕にはかけらもない能力なのでとてもあこがれてしまいます。
    僕も数年前松江のハーンの住んでいた家を観に行きました。
    すてきな日本家屋だったですね。つくばいがあったりして。
    このときの経験をきっかけにして僕も日本家屋にあこがれるようになってしまいました。

    とーしさんサンキュです。
    う~ん、悟ってはりますね~。僕はやっぱり未練があるかな。

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