18世紀初頭から18世紀後半の、絵画からも音楽からも文学からも「神」が撤退し始めて、神が去ったあとの巨大な空席に、さて何を入れるべきかをみんなが模索していた時代。
バッハはかろうじて去っていく「神」に追いついて、彼をつかまえることができた。
音楽というガワに神というコンテンツを入れると、その驚異的な上昇気流のおかげで音楽を至上の高みにまで持ち上げることが出来る。それがバッハの作品群だったのではないだろうか。
でもモーツァルトの時代は、もう神が去った後だった。
モーツァルトは中身が空っぽの人なので、自分の中に音楽を丸々入れることが出来た。
そんなモーツァルトだから、彼は必然的に「音楽」というガワに音楽そのものを注ぎ込むことが出来た。
モーツァルトという人は、音楽自身の持つ無限の自由によって「音楽に好きにさせるとどうなるか」を表現した人のような気がする。
ベートーベンに神はない。
さらに彼はモーツァルトのように空っぽの人間ではないので、自分の中に音楽を丸ごと入れることが出来ない。それは彼自身がモーツァルトと直接会って痛いほどわかっていたはずだ。
彼が自分の中に音楽を丸ごと入れることが出来ないのは、彼の中に「自分」があるからだ。(そしてそれこそが近代人の特徴なのだ。彼は音楽の世界に初めて登場した近代人だったのかもしれない)
その「自分という人間」を、音楽というガワに入れたらどうなるだろう。
僕はベートーベンという人は、「音楽」という「ガワ」に「丸のままの人間」というコンテンツを歴史上初めてぶち込んだ人だったんじゃないかと思う。
音楽というガワに人間を入れると、ガワの中に封じ込められた人間は、激しい情動の奔流でガワを引き裂こうとし、ガワを引きずり回す。音楽が、暴れ馬のように暴走する。
ベートーベンの音楽は、神から見放された人間が素っ裸で吹きすさぶ荒野をひとりぼっちで号泣しながら走り回っている姿を僕に連想させる。喜びも悲しみも絶望も希望も、もはや神のいない荒野にむき出しのまま轟き渡る。
じゃあ今の音楽はどうなんだろう。
神が抜けたあと、神の坐っていた席は大きかったので音楽というガワも大きかった。
だから神が抜けてすぐの時代の音楽や文学は、この大きななガワの中で巨大な成長を遂げ、数多くの素晴らしい交響曲や偉大な文学が数多く生まれ、トルストイやドストエフスキーやバルザックやヴィクトル・ユーゴーのような文豪が数多く輩出した。それはいわゆる「巨匠」の時代である。
しかしその後、もはや神のような巨大なコンテンツを入れる必要のなくなったガワは必然的に縮小する。
ガワはどんどん縮小の一途をたどり、今では手の平に乗る位小さくなってiPodに入るようになった。
ガワが小さくなるとコンテンツも縮小する。
それは例えば「昨日の雨」であり、「今日のあなたの一言」であり、「ロックが元気だった頃の思い出」である。
とても俳句的になっていくような気がする。
モーツァルトって 最強だと思うんですね
返信削除形式もコンテンツも彼にとってはどうでもいい
音楽というソフトさえあればほかには何も必要ない
ある意味 千昌夫にとっての味噌汁のような存在(←全然違う)
とーし
うーん、モーツァルトほど「最強」という形容詞の似合わない作曲家はいないと思うんだけど。
返信削除どうなんでしょう。
がははは
返信削除そう言う気持ちは分かるけど、思想も定見もなく、ただ「いい音楽書きゃそれでいいんでしょ」って感じがねぇ
だからこそ最強と言いたいんだなぁ
とーし
>とーしさん。
返信削除うん、それはね。映画「アマデウス」のサリエリの視点だね。
サリエリはモーツァルトに勝とうと思って悪戦苦闘するんだけど、モーツァルトにとってはどうでもいいんです。
「だから最強なんじゃないか」ととーしさんは言うと思うけど、僕が彼の音楽を聴くのは彼が最強だからではなく、彼の目から見た「勝敗を度外視した」世界を僕も見たいからです。
吉田秀和さんにご登場願いましょう。
「ハイドンは、その快活さと誠実との天才で、十八世紀をはるかにぬいて、十九世紀をとびこえて、現代につながるが、モーツァルトは、おそらく、いかなる世紀にあっても、音の芸術が革命的に変化しない限り、感性と精神の自由の芸術的完成の象徴としてのこるのかもしれない」(『LP300選』新潮文庫)
吉田秀和氏に同感だなぁ
返信削除言い方がshin さんと違うけど、同じものを見て同じように感じてるるような気がしますよ そこから湧いてくる言葉が違うのかなと思います
とーし