2011/08/09

押し殺した驚きとしての写実

さて、あらかじめ私たちの外側に美があるなら
それをそのまま提示する行為は意味を持つでしょう。
でも美は私たちの外側に「モノ」としてあるのではない。
美とは私たちの驚きのあり様(ありよう)なのです。
それが個々人の驚きのあり様でありますから
できるだけ写実的であろうとすることにはあまり意味がありません。
ただこのことは言っておかねばなりません。
驚きのあり様にはまた「押し殺した驚き」というものがあります。
それがまるで私たちの眼に写実のように映るのです。
押し殺した驚きとしての写実。それこそが、写真とリアリズムの交差点なのです。

2 件のコメント:

  1. 撮影者が何に驚いたのか。
    それが一見して伝わってくる写真というのは魅力がありますね。
    シャッターを押す瞬間に呼吸を忘れるほどの驚き。
    誰でもがそんな瞬間を味わえるわけではないので、
    せめて鑑賞者としては、そんな驚きを焼きつけた写真に出会ってみたいです。

    「押し殺した驚き」は興奮に弾んだ呼吸とは違う
    目を閉じて深く長く少しずつ吐きだす腹式呼吸のように思えます。
    どこからか湧き出て、いつのまにか心に沁み渡るような、
    押し殺した驚きを表現した作品に出会ってみたいです。

    返信削除
  2. bouquet-nさんありがとうございます。
    絵画と比較すると写真や映画は見たものをそのまま記録できるので、自分の外側に美や感動があると考える人にとっての仕事は題材の選択だけであって、選択された題材をそのまま提示すれば作品になるというふうに誤解しがちです。
    それは例えば僕が写真を撮るときに、客観的に美しいとされる花を感動のないまま撮影して提示してしまうことに対する戒めとして、僕は時々こういう文章を書くのです。
    ただ題材そのものにイメージを喚起する力が強い時、それに触れてしまうことがその題材の持つ強いイメージ喚起力を損なってしまうおそれがあると判断した場合は、それをそのまま提示することがあるでしょう。私の中には大きな驚きがあるんだけれども、それが作品に影を落とすと作品を損なってしまうと判断したとき、できるだけ題材をいじらずに提示しようとするのだと思います。その時作品はリアリズムに近くなる。それは初めからリアリズムを追求しているわけではなくて、初めにあるのは驚きで、その驚きを活かすための手段としてリアリズムになってしまったということだと思います。
    だから人はそれを見たときに、やっぱり美は私たちの外側にあって、それをそのまま提示すれば作品になるのだと考える。いや、そうではなくて驚きこそが私たちの内側にあって、それを提示する一形態としてリアリズムはあるのだとやっぱり僕は考えたいのです。

    返信削除

twitter