2008/02/29

シンボルツリー


近くの公園の山茱萸のつぼみが開き始めました。



ぎゅっと詰め込まれた黄色い花弁。


小鳥が飛んできて2mほど先の柵に留まったかと思ったらすぐに飛び立ってしまった。
あわてて撮ったのでちょっとピンぼけです。
何という名前の鳥だろう。僕は花の名前も無知だけど、鳥の名前もサッパリ。
家に帰ってネットで調べよう。でも鳥の名前を調べるのは難しいですね。
そこでこのサイトが役に立ちました。
ジョウビタキ(尉鶲)
日本には冬しかいない渡り鳥だそうです。「チッ チッ」という火打ち石を打ち合わせる音に似た鳴き声なので「火焚き(ヒタキ)」の名が付いたとか(これはwikipediaより)。
知らないことを知るのはおもしろい。


僕の家のシンボルツリーはシャラ。毎年きれいな白い花を咲かせて楽しませてくれていたのですが一昨年枯れてしまってからここは空席でした。
そこで今日は亀岡でキクモモを買ってきてそこに植えました。


家の近くのY字路に高さが5m近くある立派な樹が植わっていて、毎年春に濃い桃色の花が咲くので気になっていたのですが、これまた名前がわからない。
去年その樹に実がなっているのを見つけて囓ってみると桃の味!(なんでも口にするのが僕の悪い癖です)。
ネットで検索して同じ花を見つけました。
それがキクモモ。



植物を植えたり育てたりする人の気持ちが、僕にも少しわかった気がしました。

さて、きれいな花を咲かせてくれるでしょうか。ちょっと不安ですが楽しみです。

2008/02/28

雪化粧の樹々








よく見れば なずな花咲く 垣根かな

先日新聞に載っていた芭蕉の俳句。
アップした写真とは関係ありませんが気に入ったので。

2008/02/26

絶え間なく



絶え間なくほどき続けて「ここ」と「いま」のリアルを維持すること
あるいはまた
自然に結ぼれが生ずる前に遊技としての結ぼれを自らに課すこと

2008/02/24

Let it snow








2008/02/22

春にはまだ早い


久しぶりに山へ散歩に行きました。


梅のつぼみが開いてないかなと思って。


でもそんな気配は全くなく。


まだ冬なんですよ。まだ2月だもんな。とぼとぼ山道を歩く。


池に映った木のかげも寒々しい。


樹の根が腐って出来たほこらに小人たちが住んでいる。


えいえいおー!


名も知らぬ地衣類。すき焼きに入れてしまえ~。


おお、ろうばいが咲いている!って名前も帰ってから調べたんですけどね。
早春に咲く黄色い花。連翹かと思いました。蝋梅です。



梅は咲いていませんでしたが、今日は蝋梅と会えたし蝋梅の名前も覚えたのが成果です。
えいえいおー。

本染め手拭い


Fさんに頂いたわんこの手拭い。唐草模様が素敵です。

2008/02/17

凡人の神



映画「アマデウス」でサリエリは「私は凡人の神だ」「お前たち凡人の罪を許す」という。
大好きな映画で何度も見たけれど、このサリエリの言葉の意味がずっとわからなかった。
サリエリは凡人の代表ではあるけれど、神ではないだろう。なぜ彼が自分と同じ凡人たちの罪を許すことが出来るのか。昨日NHK衛星第二放送で「アマデウス」のディレクターズカット版を放映していたので久しぶりに見て謎が解けた気がする。

彼 は自分が殺そうとしているモーツァルトから「僕は君を誤解していた。僕を許してくれ」と言われ、自分の罪の深さを思い知る。モーツァルトの死後、彼は自分 の罪の重みに耐えかねて神に罪の許しを請いたかったのだ。
だがその罪の許しを請うべき神はまたモーツァルトを悲惨な死に追いやり、信仰心の厚かったサリエ リを恥辱にまみれさせた神でもある。そんな神に彼は許しを請うことはできない。
それなら自分が神になればいい(狂気)と彼は考えた。
自分が神になることで自分の罪を許す。
凡人の代表である自分が凡人の神になることで自分の罪を許すとともに、世の中に満ちあふれている自分以外の凡人たちの罪を許す資格を彼は得たのだ。

もともとサリエリにとって神とは取引の相手であった。
彼は自分の童貞を含めた全てを捧げることで、神の栄光を褒め称える才能と栄光を自分に与えたまえと祈った。
自分の魂を売ることでこの世の栄光を欲するという行為が連想させるものがある。
それは「悪魔に魂を売る」という行為だ。
彼が全てを捧げた対象は神ではなく悪魔だったのかもしれない。
だが悪魔は契約違反を犯した。そこで彼は悪魔を見限り、自分が悪魔になりかわって復讐を行った。
その後彼は自分の罪の深さに耐えきれなくなり許しを望む。今度は神になりかわって「許しの神」になることで自分の罪を許そうと考えたのだ。



2008/02/16

水面を跳ねる水滴



水滴は細かく振動しながら水面から分離してわずかな時間ダンスを踊る。
私達の命もわずかな時間振動したあとみなもに融ける。
水滴の姿を借りた振動現象としての私。
かりそめの、あずかりものとしてのあなた。
かりそめの、あずかりものとしての私。

2008/02/12

目論見の消滅のために。

...
Yael Naim "New Soul"


(無人称から私への)プレゼントとしての世界。
(だから世界は私のものではない)

(無人称から私への)プレゼントとしての私。
(だから私は私のものではない)

それは無人称からのプレゼント。
(だからそこには契約も義務も条件もない)

2008/02/11

Whiskey


以前長距離通勤していた頃は土曜日夕方に仕事が終わって車のラジオをつけるとサントリーサタデーウェイティングバーが始まるという仕組みでした。
何しろ長い道中です。この番組は結構楽しみでした。
会話と会話の間にちょっと古いジャズボーカルが流れるのも良かったけれど、CMで取り上げられるいろんなシングルモルトウィスキーがすごく美味しそうです。僕は基本的にお酒はあまり飲めませんが、チャンスがあれば一度味わってみたいなと思っていました。まんまとサントリーの思うつぼですね。
今日たまたま買い物に行ったらバレンタインのプレゼント用にウィスキーのミニチュアボトルが並んでいて、その中に番組で良く取り上げられていたウィスキーを見つけたので買ってきました。



ボウモア、ラフロイグ、マッカラン。



ボウモア。



マッカラン。



ラフロイグ。

どのウィスキーも独特の味わいがありますね。ラフロイグはちょっと薬草のような香り。
一番気に入ったのはマッカランでした。

2008/02/10

2月10日早朝


きのうはめずらしくたくさん雪が降りました。
積もった雪が夜の間に凍って、歩くとざくざく音がしました。


二階の窓には結露がいっぱい。



結露の一つ一つにベランダの柵が写っています。

2008/02/09

そのひとの森に入っていく



お風呂につかりながら保坂和志氏の『夏の終わりの林の中』を読む。
木の生態系などについて話しながら二人の男女が自然教育園という林の中を歩いている。
目立った起伏もなく二人はただ思いつくことをしゃべりながら歩く。
展開していく林の中の情景が淡々と描写される。そしてお話は何の前触れもなくぷつんと終わる。
僕は茫然としたまま本を閉じ、湯船からあがって身体を洗い始める。
タオルで石鹸を十分すぎるほど泡立てて身体を洗っているうちに伊丹十三の短編を思い出す。
小学生の伊丹さんが理科の時間に先生の話を聞く。
汚れを落とすためには石鹸が細かな泡になって汚れの分子を包み込む必要がある。だからお風呂ではタオルで身体をごしごし洗う必要はなくて、泡立てた石鹸を身体に付けてじっとしていればよいと先生はいう。
夜更けにしんしんと冷えてくる寒さに耐えながら体に石鹸の泡を付けたまま洗い場でぽつねんと座っている先生を伊丹さんは想像する。
理屈で生きている人が迷い込んだ不思議に滑稽な森の情景。
そんなことを考えているうちに僕は伊丹さんのドキュメンタリーに共通するものに思い当たる。
それぞれの人のそれぞれの森の中に伊丹さんが入っていく。彼がその森を描写するときの驚きと好奇心とくすぐったいようなおかしみがないまぜになった語り口。
それから僕は保坂さんの短編についてもう一度考える。
その短編は林の中を歩く二人の会話から成り立っていて、短編そのものも一つの森になっている。
物語が始まるとともに僕はその森に入っていき、急に話が終わって僕は森の外に放り出される。
僕は起き上がってズボンのすそをはたく。
森が終わるところ、そこは再び僕の森である。僕は僕の森の中に突然現れた別の人の森の中に入っていき、やがて森が終わって再び僕の森の中に立っている。
小説を読むというのはそういうことかもしれない。
高橋源一郎さんが以前朝日新聞の書評で江國香織さんの『号泣する準備はできていた』を取り上げたとき、同じようなことを書かれている。
「気がつくと、ぼくたちはいつの間にか江國さんの小説の中にいる。その事が楽しい。嬉しい。(中略)まず、なにもない。無だ。そこに江國さんは、ぎゅん、と力をふりしぼって、りんとした感情をいきなり存在させる。その瞬間、ばらばらだった時間や、場所や、人々の関係が一つの世界を形づくる。なにもなかったところに突然小説が生まれる。小説とはそういうものだ。詩もエッセイも、批評も、結局そのことだけはできないのである」
小説を読むということ。それはその人の表面に接触するのでも、その人の考えを僕の中に取り込むのでも、僕なりに解釈するのでもなく、その人の森に入っていってその森の鳥のさえずりを聞くという体験なのかもしれない。
考えてみれば、それは小説にとどまらない。
映画を見ることも、音楽を聴くことも、絵画を見ることも、ブログを見ることも、普段の会話も、診察も、およそ僕たちが人と関わることのすべては、その人の森の中に入っていくということなのかもしれない。

雪の日



















2008/02/06

作業仮説としての中医理論



作業仮説(working thesis)
「ある一定の現象に終局的な説明を与える目的で設けられる仮説ではなくて,研究や実験の過程においてそれを統制したり容易にしたりするために,有効な手段としてたてられる仮説」(広辞苑)


その理論は、「その有効性においてのみ暫定的に認証される「道具としての理論」である」という認識を持つものだけに、微笑みかける。

2008/02/04

4001の小さな幸せ


昔買ったバーバラ・アン・キッパー著、(あみんの)岡村孝子翻訳
「昨日よりも、今日よりも」
日々の生活の中で感じる小さな幸せが4001個も載っています。
最初のほうに載っているいくつかを紹介すると、

月が昇るのを見る。
辞書を読む。
夜、遠くに飲みに行く。
男の子のだぶだぶセーター。
コンサートの帰りに手をつなぎ合う。
打ち寄せる波が届かない、平らでなめらかでひんやりした砂。
頭を整理する。
ぬかるみで足をばちゃばちゃはね散らかす。
釣ったばかりの魚をもらう。
お風呂につかって本を読みながらオレンジジュースを飲む。

といった具合です。
残念ながらこの本も絶版になってしまいました。
というわけで、僕もいくつか考えてみました。

与えられたテーマを面白可笑しく解決すること。
雨が近いことがにおいでわかる。
盲目になったことを想像して目をつむって歩く。
池に石を投げて音を聞く。
みかんを反対側から剥いてみる。
気持ちよく寝ている犬の鼻の穴をふさいで起こす。
新しい教科書のにおい。
引き出しの奥に一つだけ残っていたキャラメルを見つけて無人島にいることを想像して食べる。
知ったかぶりをする。
新しい石鹸をあける。
グラスを揺らして氷の立てる音を聞く。
いい子いい子する。
いい子いい子される。
思いがけず行く手に虹を発見する。
野原に寝転がってのびをして草のにおいを嗅ぐ。
背後に宇宙の暗黒を思わせるほど深い青空。
正しい診断。
良い治療効果。
どうしても名前が思い出せないときに五十音順にひらがなを呟いてついに見つける。
本屋さんに入ったときのにおい。
わさび茶漬け。
勇気を出して声をかける。
字をきれいに書いてみる。
朝起きて鏡を見たら髪に寝癖が全くないことに気付く。

どうでしょう。けっこういろんなことが思いつきます。
ではみなさんもどうぞ。

2008/02/03

世界を支えているもの


Fさんにもらったしおり。
高邁な理想や主張よりも
世界は案外
このようなささやかだけどラブリーなものたちによって
支えられているような気がします。


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