映画「アマデウス」でサリエリは「私は凡人の神だ」「お前たち凡人の罪を許す」という。
大好きな映画で何度も見たけれど、このサリエリの言葉の意味がずっとわからなかった。
サリエリは凡人の代表ではあるけれど、神ではないだろう。なぜ彼が自分と同じ凡人たちの罪を許すことが出来るのか。昨日NHK衛星第二放送で「アマデウス」のディレクターズカット版を放映していたので久しぶりに見て謎が解けた気がする。
彼 は自分が殺そうとしているモーツァルトから「僕は君を誤解していた。僕を許してくれ」と言われ、自分の罪の深さを思い知る。モーツァルトの死後、彼は自分 の罪の重みに耐えかねて神に罪の許しを請いたかったのだ。
だがその罪の許しを請うべき神はまたモーツァルトを悲惨な死に追いやり、信仰心の厚かったサリエ リを恥辱にまみれさせた神でもある。そんな神に彼は許しを請うことはできない。
それなら自分が神になればいい(狂気)と彼は考えた。
自分が神になることで自分の罪を許す。
凡人の代表である自分が凡人の神になることで自分の罪を許すとともに、世の中に満ちあふれている自分以外の凡人たちの罪を許す資格を彼は得たのだ。
もともとサリエリにとって神とは取引の相手であった。
彼は自分の童貞を含めた全てを捧げることで、神の栄光を褒め称える才能と栄光を自分に与えたまえと祈った。
自分の魂を売ることでこの世の栄光を欲するという行為が連想させるものがある。
それは「悪魔に魂を売る」という行為だ。
彼が全てを捧げた対象は神ではなく悪魔だったのかもしれない。
だが悪魔は契約違反を犯した。そこで彼は悪魔を見限り、自分が悪魔になりかわって復讐を行った。
その後彼は自分の罪の深さに耐えきれなくなり許しを望む。今度は神になりかわって「許しの神」になることで自分の罪を許そうと考えたのだ。
私はこの映画を見たときサリエリは自分だと思いました。私も音楽が好きですがピアノの才能はないんです。それがわかってしまったとき、12歳のときでした。そのときはもちろん、そんなことはわかりませんでしたがこの映画を見たときわかったんです。自分は選ばれなかったという悲しみというか悔しさは生涯消えません。
返信削除コメントありがとうございます。
返信削除この映画を見る人のほとんどはサリエリに感情移入するのではないでしょうか。
自分の頭の悪さを持て余していた大学浪人時代の僕も、ご多分に漏れず激しく神を呪っていました。当時の僕はあの世で神を殺すために自殺しようかと思っていたほどでしたから。
でもこの映画で死に瀕したモーツァルトがサリエリに「僕は君に嫌われていると思っていた。僕を許してくれ」と言うのを聞いて、僕はこの世にある「能力の格差」というものと和解したような気がします。
あなたの悲しみや悔しさは生涯消えないかもしれません。でもそれを許す日はいずれ来るかもしれません。