お風呂につかりながら保坂和志氏の『夏の終わりの林の中』を読む。
木の生態系などについて話しながら二人の男女が自然教育園という林の中を歩いている。
目立った起伏もなく二人はただ思いつくことをしゃべりながら歩く。
展開していく林の中の情景が淡々と描写される。そしてお話は何の前触れもなくぷつんと終わる。
僕は茫然としたまま本を閉じ、湯船からあがって身体を洗い始める。
タオルで石鹸を十分すぎるほど泡立てて身体を洗っているうちに伊丹十三の短編を思い出す。
小学生の伊丹さんが理科の時間に先生の話を聞く。
汚れを落とすためには石鹸が細かな泡になって汚れの分子を包み込む必要がある。だからお風呂ではタオルで身体をごしごし洗う必要はなくて、泡立てた石鹸を身体に付けてじっとしていればよいと先生はいう。
夜更けにしんしんと冷えてくる寒さに耐えながら体に石鹸の泡を付けたまま洗い場でぽつねんと座っている先生を伊丹さんは想像する。
理屈で生きている人が迷い込んだ不思議に滑稽な森の情景。
そんなことを考えているうちに僕は伊丹さんのドキュメンタリーに共通するものに思い当たる。
それぞれの人のそれぞれの森の中に伊丹さんが入っていく。彼がその森を描写するときの驚きと好奇心とくすぐったいようなおかしみがないまぜになった語り口。
それから僕は保坂さんの短編についてもう一度考える。
その短編は林の中を歩く二人の会話から成り立っていて、短編そのものも一つの森になっている。
物語が始まるとともに僕はその森に入っていき、急に話が終わって僕は森の外に放り出される。
僕は起き上がってズボンのすそをはたく。
森が終わるところ、そこは再び僕の森である。僕は僕の森の中に突然現れた別の人の森の中に入っていき、やがて森が終わって再び僕の森の中に立っている。
小説を読むというのはそういうことかもしれない。
高橋源一郎さんが以前朝日新聞の書評で江國香織さんの『号泣する準備はできていた』を取り上げたとき、同じようなことを書かれている。
「気がつくと、ぼくたちはいつの間にか江國さんの小説の中にいる。その事が楽しい。嬉しい。(中略)まず、なにもない。無だ。そこに江國さんは、ぎゅん、と力をふりしぼって、りんとした感情をいきなり存在させる。その瞬間、ばらばらだった時間や、場所や、人々の関係が一つの世界を形づくる。なにもなかったところに突然小説が生まれる。小説とはそういうものだ。詩もエッセイも、批評も、結局そのことだけはできないのである」
小説を読むということ。それはその人の表面に接触するのでも、その人の考えを僕の中に取り込むのでも、僕なりに解釈するのでもなく、その人の森に入っていってその森の鳥のさえずりを聞くという体験なのかもしれない。
考えてみれば、それは小説にとどまらない。
映画を見ることも、音楽を聴くことも、絵画を見ることも、ブログを見ることも、普段の会話も、診察も、およそ僕たちが人と関わることのすべては、その人の森の中に入っていくということなのかもしれない。
2008/02/09
そのひとの森に入っていく
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