2013/03/13

作品が立つ

frog in the light

写真というものが撮影者の手を離れて独り立ちできるかどうかを決定付けているものは何か。
触覚や嗅覚までをも呼び覚ます克明な描写や偶然性だけでは作品として立ちようがないということについてはこれまで繰り返し述べてきた。

以前「ガマの油芸術論」で考察したように私達を感動させる作品の多くは作者が病にかかることで生み出される分泌物のような性質を持っている。
こういった作品が独り立ちできる力を持っているのは、そもそもこれらの作品には世に生まれるべき必然性があったからだ。

我々の生体内では侵入してきた細菌やウイルスをマクロファージが取り込んで免疫システムが活性化し、免疫グロブリンや種々のサイトカインを放出して周囲の防御細胞や組織細胞に警告信号を発したり防御物質の放出を促したりするわけだが、我々の社会でも新たに発生してきた問題にいち早く罹患し、病と格闘することで作品という分泌物を出して周囲の人々に注意を促したり、病みかけている人に薬としての分泌物を提供するマクロファージのような人達がいる。
こういった作品には、自らが病と格闘してその結果として(自らは意図しないところで)生み出されるという点においても、そしてまた彼を取り巻く社会がそれを希求しているという点においてもこの世界に出現するのっぴきならない必然性を負っている。
そのような切羽詰まった必然性を負っているからこそ作品は作者の手を離れて自立することが出来る。

通常、病んだひとは作品を分泌しながらみずからは治癒していくのでいずれ作品という分泌物は出なくなるが、なかには職業として作品を作り続ける人たちがいる。
こういったひとたちがなぜ作品を作り続けることができるかといえば、そうやすやすと瘉えることのない難治の病にかかっているか、あるいは癒えても次々と新たな疾患に罹患していく、いわば「病み屋さん」のような役割を担っているからだろう。

病んでいること、健康でないことが人々に通底する作品を生み出す土壌であるなら、深く病んでいない我々が大きな作物(さくぶつ)を生み出し得ないのはしかたのないことだ。
しかし健康というものを単に症状が表面化していない病気ととらえればひとは誰しも程度の多寡こそあれ病気なのであり、大病を患っていなくてもひとは日々どこかしら病んでいる。
「病み屋さん(芸術家)」でなくても、創作活動を自らに課すことで自らを癒す可能性が生まれ、また作物を通じて他者を癒し他者とつながることが出来るということが、幸運にして大病を患っていない我々が創作活動を続けていく希望となる。








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