内田百閒が山陽本線の、新しい特急の処女運転に招待された。
岡山を通過したあたりで新聞記者が乗り込んできて百鬼園先生にインタビューを始める。
「大阪から乗られましたか」
「いや京都から」
「いかがです」
「何が」
「沿線の風景に就いて、感想を話してください」
「景色の感想と云うと、どう云う事を話すのだろう」
「いいとか、悪いとか」
「いいね」
「しかしですね、今、日本は戦争か平和か、国会は解散と云うこう云う際に、
この様な列車を走らせることに就いては、どう思われますか」
「そんな事の関聯(かんれん)で考えたことがないから、解らないね」
「更(あらた)めて考えて見て下さい」
「更めても考えたくない」
「国鉄のサアヴィスに就いては、どうですか」
「サアヴィスとは、どう云う意味で、そんな事を聞くのです」
「車内のサアヴィスです」
「それは君、今日は普通の乗客ではないのだから、いいさ」
「サアヴィスはいいですか。いいと思われますか」
「よくても、いいのが当り前なんだ。よばれて来たお客様なのだから」
「広島へ行かれましたか」
「行った」
「いつです」
「最近は一昨年」
「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話してください」
「僕は感想を持っていない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になったからさ」
「その理由を話して下さい」
「そう云う分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、
あの塔に就いては、一言半句も触れなかった。触れてやるまいと思っているから、触れなかった」
「解りませんな」
「もういいでしょう」
漸く(ようやく)隣席から起ち上がった。
「お忙しい所を済みませんでした」と云って向こうへ行った。
大阪の甘木君が、にやにやしながら、通路に起っている。
「僕はちっとも忙しくなかった。おかしな事を云いますね、甘木さん」
「口癖なんですね、お疲れの所を、と云う可きだったな」
それから広島に着き、又ホームで一騒ぎして、人が出たり這入ったりして、広島を発車した。
ちくま文庫 内田百閒集成1春光山陽特別阿房列車より。
不思議な会話である。
今日最後のESWL(尿管結石の破砕治療)を受ける前に待合室でこの箇所を読んでいて、ちょっと途方に暮れてしまった。
ここでは、一体何が起こっているのだろう。
僕は治療を受けながら、と言ってもただ寝転んでいるだけなのだが、ぼんやりとこの問題について考え続ける。
普通の人なら新聞記者に対してこんな態度はとらないだろう。
質問者の意図を読み取った上で、
肯定するにせよ否定するにせよ時尚を配慮しながら注意深く返答することだろう。
だが彼はそうしない。
それは単に新聞記者という存在が疎ましいというよりも
そもそもまるで、質問の意図が理解できないという様子である。
こちらからすれば新聞記者の意図は明白である。
当然百鬼園先生もその意図は丸見えのはずで、
おそらく彼はそれをわかったうえでしらばっくれている。
そして「あなたは何を聞きたいのか、さっぱりわかりませんな」という阿呆を演じているわけだが
記者にはその裏が読めない。
なぜ記者に裏が読めないのか、それこそが百鬼園先生の疑問であり苛立ちであって、
そして苛立っているからこそ彼の返答は更に無愛想だ。
なぜ百鬼園先生は記者の質問に答えようとしないのか。
それを考えるヒントはこの会話の中に見える。
「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話してください」
「僕は感想を持っていない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になったからさ」
「その理由を話して下さい」
「そう云う分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、
あの塔に就いては、一言半句も触れなかった。触れてやるまいと思っているから、触れなかった」
触れてやるまいと思っているから・・・。
それはつまり原爆ドームが、彼にある特定の、人として当然抱くはずの感想を
強く要求してくるのを感じたからだろう。
それはまるで強引に土俵に入るように仕向けられて、
一旦土俵に入ってしまったら相撲を取らされてしまうのを彼が嫌ったからとも読める。
こういった、強引に土俵入りを促すものに対して頑固に拒否するという彼の態度は一貫している。
ソフトバンクのCFに出てくるトミー・リー・ジョーンズ演ずる宇宙人のように
地球上に無数に存在する土俵の、その外側から土俵のなかの不思議な光景を眺めるというのが彼の基本的なスタンスなのだろう。
内田百閒は土俵間空間の住人である。
そう考えると、すっきりする。
ここには阿呆や死者たちが跳梁跋扈していて、彼はそういった異人たちと親しい関係にある。
村上春樹は今日の朝日新聞への投稿で、先ほどの僕の言葉に翻訳すると我々は土俵間空間での対話を続けるべきであって、お互い自分の土俵の中に相手を引きずりこもうとするべきではないと述べている。
それは本当に正しいことを言っているのだが、対話の相手が土俵の外に出ないことを決意していてしかも土俵間空間をすべて自分の土俵の中に取り込むことで土俵間空間がなくなってしまうかもしれない場合に彼はどこに立っていられるのだろうか。
我々は最終的に土俵を確保することを通じてしか、土俵間空間を維持できないのではないだろうか。
また更に言えば僕個人はこういった土俵間空間からの視点を愛する方に属するけれども、かつて村上春樹が育てた、土俵間の住人を個人的に内面から支える「土俵間住人の倫理」といったものを明らかに強大な土俵に属する朝日新聞というメディア内で発表するというのはどうなんだろうか。