2013/10/06

僕が知りたいことは

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF

最近新聞を日経に変えたのであれこれ記事が目新しい。
けさの朝刊(平成25年10月6日)の文化欄に毎週日曜連載の哲学対話「哲おじさんと学くん」が載っていて面白く読んだ。書いておられるのは哲学者の永井均氏で今日が第22回らしい。タイトルは「君の存在には因果連関がある」。

 (前略)僕が知りたいことは、みんな同じように脳があって、脳が意識を作り出す仕組みは同じなのに、なぜこの一つしか実際には感じられないのか、この違いは何に由来しているのかなんだよ。

 両親から髪が茶色く目の大きい男の子が生まれ、「学」と名づけられた。
彼は自己意識を持つようになり、「なぜ僕は存在するのか?」と問うにいたった。
このプロセスはすべてしかるべき因果連関に支配されていると言える。

 その子が僕であることは?その子がそういう子で、そういう問題を考えていても、つまり僕と全くそっくりでも、それでも僕ではないこともありうるよね?逆に、この僕とは似ても似つかない16世紀に生まれたドイツ人が僕というあり方をしていてもよかったよね?
つまり、こいつが僕であることにはしかるべき因果連関がないよね?だって、科学的な因果連関から言えば、そもそもこの僕なんて生じる必要はないんだから。
脳がどんな意識を作り出してもそれが僕の意識である理由なんかないのと同じで。

 さっきも言ったが、君でなかった場合のその学くんも、同じ経過をたどって、その同じ問いを問うが・・・。

 同じ問いかな?確かに、僕自身以外の誰にも、その学くんと僕とを識別することはできない、というかその区別が意味を持たない。それでも、僕の問いは彼の問いとは違うよ。だって、その違いこそがこの問いの主題なんだから。

 …と学くんという人が言っていると、君自身以外の人はみな理解するだろう。
そして、その発言にいたる全プロセスは、全体論的にであれ唯物論的にであれ、因果的に説明できるから、その意味では君の存在にはしかるべき因果連関がある、ともいえるわけだ。

 そうすると、世界の中に学という人は存在しているけど僕は存在していないことになる?
その僕がいなければ何もないのと同じなのに!
(以上引用終わり)

むつかしいですね。
扱っているテーマも難しいけど、そもそも他人の発言の趣旨を理解することは難しい。
それで二人の対話を僕なりに編集してみました。括弧内()が僕の付記です。
では始めます。

 僕が知りたいことは、みんな同じように脳があって、脳が意識を作り出す仕組みは同じなのに、なぜこの一つしか実際には感じられないのか、この違いは何に由来しているのかなんだよ。
(なぜ僕は自分の意識にしかアクセス出来ないんだろう。他人も自分と同じメカニズムで意識が生じているなら他人の意識にアクセスできてもいいはずなのに)

 両親から髪が茶色く目の大きい男の子が生まれ、「学」と名づけられた。彼は自己意識を持つようになり、「なぜ僕は存在するのか?」と問うにいたった。このプロセスはすべてしかるべき因果連関に支配されていると言える。(それぞれの意識は個別の因果関係で生じているものであり、意識を自由に他人と交換できるわけではない)

 その子が僕であることは?その子がそういう子で、そういう問題を考えていても、つまり僕と全くそっくりでも、それでも僕ではないこともありうるよね?逆に、この僕とは似ても似つかない16世紀に生まれたドイツ人が僕というあり方をしていてもよかったよね?つまり、こいつが僕であることにはしかるべき因果連関がないよね?だって、科学的な因果連関から言えば、そもそもこの僕なんて生じる必要はないんだから。脳がどんな意識を作り出してもそれが僕の意識である理由なんかないのと同じで。(僕がこの世界に登場する必然性が因果律では説明できないなら、この入れ物に僕の意識が入る必然性はない。16世紀のドイツ人が僕であってもよかったんじゃないか)

 さっきも言ったが、君でなかった場合のその学くんも、同じ経過をたどって、その同じ問いを問うが・・・。(因果律という根っこの生えた意識はそれぞれが別々になぜ僕が僕なのか?って問うよね。)

 同じ問いかな?確かに、僕自身以外の誰にも、その学くんと僕とを識別することはできない、というかその区別が意味を持たない。それでも、僕の問いは彼の問いとは違うよ。だって、その違いこそがこの問いの主題なんだから。(いや、僕が知りたいのは同じ問いを発しているのにそれぞれが互換不能な個体にとどまっているのはなぜかということ)

 …と学くんという人が言っていると、君自身以外の人はみな理解するだろう。そして、その発言にいたる全プロセスは、全体論的にであれ唯物論的にであれ、因果的に説明できるから、その意味では君の存在にはしかるべき因果連関がある、ともいえるわけだ。(個体はそれぞれ自らの因果律によってその問いを発するのであって、君の問いだけが特別なものではないということを君以外の人はみんな理解しているよ)

 そうすると、世界の中に学という人は存在しているけど僕は存在していないことになる?その僕がいなければ何もないのと同じなのに!(それぞれの脳がそれぞれの因果律に従って意識を持っているのはいいとしても、僕が自分の目を通して世界を認識していることは、僕が僕であることの特殊性が担保しているおかげだと思うわけで、僕が特殊でないなら僕から観た世界も存在しないことになってしまう)
(以上引用と付記の終わり)



問題は、他の人でありえたかもしれない自分が、なぜ私をやっているのか、なぜ私はあなたではないのかということです。そしてさらに、なぜ私はこういう問いを発せずにはいられないのか?

学くんの疑問を整理してみよう。
「私」という意識がある。まずある。
その「私」は「学くん」の中に住んでいる。
なぜ「私」は16世紀のドイツ人の中ではなく学くんの中に住んでいるんですか?

それに対する哲おじさんの答え。
順序が逆なのです。
「私」は学くんの中に「あとから」発生してきたものである。

それに対する学くんの疑問(彼のこの疑問で今週のコラムは終了している)
えっ?学くんが先で私があとなんですか?私があるから世界があるわけで、私がなければ世界はないはずですよね!

さて、だいぶ整理できた気がするので喩えを変えてみよう。
学くんは、自分が運転手ならクルマを乗り換えてもいいはずなのになぜ乗り換えることが出来ないのかと考えた。
それに対し哲おじさんは、君はクルマの運転手じゃなくてクルマのこれまでの車検歴みたいなものだと答えてるんですね。
哲おじさんが学くんをどのように導くのか、来週の日曜日をお楽しみに。
ちなみに哲おじさんと学くんで「哲学」というわけですね。




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上記について考えながら書いたメモ

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