2018/07/30
summer
いよいよ来月ニコンからフルサイズのミラーレスが発表されるらしい。ティザー画像のファインダー部をみるとGFXのデタッチャブルファインダーみたいなシルエットなのでアングル機構もついているかもしない。ソニーがα7を発表してからもう5年も経つんだから、単なる後追いじゃなくて写欲を掻き立てるような魅力的なカメラになっているといいな。
先日すごく久しぶりにハッセルブラッド熱が再燃した。
一時は寝ても覚めてもハッセルのことを考えていて、結局買うことはなかったけど今でもたまに片思いが再燃することがある。
それで中古のハッセルブラッドの価格を調べてみたら相変わらず高くてがっかり。でもインスタでハッセルで撮られた写真を見ながら思ったのは、「どんなに憧れてもそれは私の現実ではない。そのための機材を手に入れてもそこに手が届くわけではない。それは私の現実ではない」ということ。
じゃあニコンのフルサイズミラーレスを買ったら「私の現実」が撮れるかというと、それも自信がない。
夜お風呂で赤瀬川原平さんのゼロ通信を読んでいたら次のような文章があった。
「現実とは、整える暇のない現在である」
原平さんにしては珍しく1行独立の、言い切りのセンテンス。そのとき自分のためにとりあえず一つクサビを打ち込んでおかなくてはと思われたんだろう。
じゃあ整える暇のある現在とはなんだろうと考えると、それは自分のお話として正統と認められた現在だろう。僕が撮ってきた写真の多くはどちらかといえば自分のお話として正統と認められた現在のような気がする。ただ写真というのは意図するもの以外のものが撮れるので、そこに整える暇のない現実が入ってくるのが面白くて続けてきたんだけど、撮る能力が向上すると整える暇のない現実の入ってくる比率がだんだん減ってくる。
すると自分しか撮れなくなる。というのはつまり撮れたものに自分しか写っていないことになる。つまらない。それで写欲がなくなって撮らなくなったのだと思う。それで今僕がどちらかというと写真を撮ってアップしたりするアウトプットよりもインプット、ファットバイクに乗って峠へ行ったり、ポルトガル語を勉強したり、ギターを練習したりしているのは、整える暇のない現実を自分の中に取り込みたい、自分の中の未開拓領域を探検したいと思っているからだ。つまり「整える暇のない現在」を自分の中に見つけようとしているからだと思う。
写真を撮るというのは僕にとって「見たものに驚き」「それを外界に発信する」という行為であり、何かに驚くというのは自分の中の未開発領域を刺激されることなのだが、今の自分は自分に飽きているのでもう何を見ても驚かない。だから写欲がないわけだ。それではいかんというので(自分に飽きると生きていく意欲がわかないので)、直接自分の中の未開発領域を開発している。
新しいカメラが欲しいという気持ちや、写真を撮る楽しさは言を俟たないが、何を撮るかとなると途端に途方に暮れてしまうのはそういう訳なんだと、書きながら考える。チコちゃん風に言うと、「写真が撮れなくなったのは」ドドン!「自分に飽きたから~」。
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