2009/06/20

空いっぱいの空

The sky full of sky
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気分とは裏腹に気持ちのいい青空でした。

2009/06/19

Green & Blue

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しなければならないことは山ほどあるけど
何もする気が起きない金曜日。


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気分はgreen and blue.


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それでも写真は撮りに行くべし。


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半年くらい南の島でぼーっとしたいな。
夢のまた夢。

2009/06/18

Why email is invented



何度見ても可笑しいので思わずアップしてしまいました。

2009/06/17

恥ずかしいという感情の起源について

主なる神はアダムとイブにエデンの園にある知恵の実だけは食べるなと命じた。しかし二人は掟を破ってその実を食べてしまう。その途端、二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉を身にまとった。

恥ずかしいという感情はどこから生まれるのだろう。
素っ裸で外に飛び出したら往来の真ん中だったり、
満員電車の中でおならをしてしまったり、
演奏の発表会で間違って素っ頓狂な音を出してしまったり、
自慢げに話した内容がまるっきり的外れだったことに気付いたり、
外出から帰ってきたらズボンのチャックが全開だったことに気付いたり。

共通するのは、
「あらまほしき規範からの逸脱の自覚」である。
自分は本来は調和の側にいるはずなのに調和に対し無頓着な人間であると誤解されるような状況に陥ったこと。
調和とは、あるべき自分にそぐう状態にあること。
あるべき自分とは、私が抱く世界のバーチャルイメージの中における「私という駒」の纏っている姿勢のことだ。

誰がその駒にその姿勢を纏わせたのか。
それはそのバーチャル世界がその駒に課した役割だから、私にその姿勢を纏わせたのはバーチャル世界を想像した私自身に他ならない。

そしてそのバーチャル世界を生み出したのは「言葉」であり、「智恵」である。
智恵の実を食べたというのは、自前のバーチャル世界を生み出す能力のこと、つまり言葉のことだ。
自前のバーチャル世界を持つことは、そのバーチャル世界の掟を自分で作り出すということで、つまり私はバーチャル世界の神なのだ。
人は言葉を持つことでバーチャル世界の神になる。

罪というのは言葉によって人間が自らバーチャル世界の神になることだ。
英語ではすべての文章に主語が必要だ。
私は、で始まる文章はすべてI(アイ)を省略できない。
つまり西欧人はすべてのバーチャル世界に私という刻印を押す民族なのだ。
しかし日本人は主語を使わない。
日本人は極力自分という刻印を押したがらない民族だ。
もちろん日本人もバーチャル世界を作っているのは自分なのだが、そのことに対し私たちは意図的に無自覚だ。
日本人に罪の意識が希薄なのはそのせいかもしれない。

イエスは何をしたか。彼は「私という刻印(=原罪)」とともに死に、いったん「私という刻印」を神に返したのち私のバーチャル世界に「神」という駒を導入したのだ。
「私という神」をいったん神に返さなければ「神」という駒は手に入らないからだ。
以後このバーチャル世界では「神」と「私」が並んで歩くようになる。

「私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7:15-24)

「肉体によって弱められた律法にできなかったことを神はしてくださいました。つまり自分のひとり息子を罪の体のかたちで世に送り、わたしたちが肉でなく律法を全うして生きられるように、肉のうちにある罪を処断してくださったのです。」(ローマの信徒への手紙8:3-4)

(以上は私のひとりごとです。たぶん勘違いしているので放置して下さい)。

2009/06/16

sign of the cross


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キリスト教のシンボルである十字架はイエスを磔にして吊している様子を表している。
だがある宗教が自分たちの宗教の創始者が殺された様子をシンボルマークにするというのは、考えてみると異様なアイデアだ。
例えば獄門打ち首になった晒し首をシンボルにする宗教や、釜茹でにされた創始者が煮えたぎる油釜の中で苦しんでいる様子をシンボルにする宗教を想像してみれば、それがいかに奇妙な宗教かがわかる。

ひどい目に遭わされた創始者の様子をシンボルにするのは「この恨みを決して忘れない」という決意表明以外の何ものでもないが、キリスト教のこのシンボルは、イエスが我々の罪を神に許してもらうために自ら生け贄になってくれたというありがたいしるしなのであって、決して「恨みはらさでおくものか」という決意表明ではない。

みんなの罪はおいらが引き受けた。
おいらがみんなの罪を背負って生け贄になることで、みんなの罪は神様から許されるんだという。

僕自身かつて新約聖書を真剣に読んで、この宗教を通じて世界と和解した経験があるので、聖書にはたくさん感動させられたけれども、一番理解できないのは「罪」、あるいは「原罪」という部分だ。
「愛」については賛同できるにもかかわらず、「罪」を背負ってイエスが我々の代わりに死んでくれたという、おそらくこの宗教にとっては最も根幹の部分こそが同時に僕らが一番「わからない」部分なのだ。
この「罪」という言葉は、僕たち日本人にはどうにもなじまないような気がする。
彼等にとって一番大事な部分が、僕らにとっては一番不可解なのだ。
それはたぶん西欧の人たちの世界認識と、僕たちの世界認識の根本的な違いに起因しているのではないかという気がする。

(後日記:この問に対するひとつの答えを6年後に記す




2009/06/14

運命が扉を叩くのを待つ

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この世界につまらないものなどはない。
だが僕に縁のあるものはわずかだ。
意識をなるべくぼんやりさせて呼ばれるのを待つ。
そのうちに霞のような世界で誰かがドアを叩く。
運命が扉を叩くのを待つ。


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blue blue blue
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