1924年、哲学史を教えるために来日していたドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルは、弓道を通じて日本の「禅」を学ぶため、有名な弓道の師範である阿波研造師に弟子入りする。この後ヘリゲルは六年間にわたって阿波氏に師事することになる。
ヘリゲルは「禅」の習得には、理屈よりも体験が大切であることは理解していたが、典型的な西洋人であり、かつなまじ射撃の心得があったため、「理論的な弓道技術の習得」という視点からなかなか離れることが出来ない。そのためたびたび師範との間で激しいやりとりが行われる。それは西洋思想と東洋思想の息詰まる攻防である。
師範「あなたがなぜ放れを待つことが出来ないのか、またなぜ射放される前に息切れになるのか、ご存じですか。正しい射が正しい瞬間に起こらないのは、あなたがあなた自身から離れていないからです。あなたは充実を目指して引き絞っているのではなくあなたの失敗を待っているのです。そんな状態である限り、あなたはあなたに依存しない業をあなた自身で呼び起こすより他に選ぶ道がないのです。」
(私の解釈:あなたは射の失敗をおそれるので、射を自分の管理下に置きたいと思っている。だから自然な射が訪れないのだ。だが射はあなたの「外」にあるのだ)
師範「我々弓の師範は申します。射手は弓の上端で天を突き刺し、下端には絹糸で縛った大地を吊していると。もし強い衝撃で射放すなら、この糸がちぎれる虞れがあります。意図をもつもの、無理をするものには、その時天地の間隙が決定的となり、その人は天と地の間の救われない中間に取り残されるのです。」
ヘリゲル「では私は何をすればよいのでしょう」
師範「あなたは正しく待つことを習得せねばなりません。」
(私の解釈:私は天と地の間で、弓を媒介にして世界とつながっている。私が無理な射を行うと、世界とのつながりが切れてしまう。私が射を追い求めるのではなく、射が私を訪れるまで、私は待っていなくてはならない)
おそらく阿波氏は相手が同じ日本人であればこんな親切な説明はしなかったであろう。相手が西洋人であり、かつ哲学教授であったこと、また何よりヘリゲルが弓道の体得に強い熱意を持って誠実に努力したからこそ、相手の土俵に入って、何とか「禅」を言語化しようとしたのだと思われる。ヘリゲルがこの貴重な経験を西洋人の視点から記述して後世に残してくれたことは非常に価値がある。
我々自身が、東洋的なものの考え方を半ば忘れかけているからである。
2007/07/31
弓と禅
2007/07/30
初心に帰ろう。
Bloggerでブログを始めて、初心者なりに気に入った写真をアップしているうちに、ミクシィやFlickrで自分より遙かに写真の上手な人たちを知りました。すると欲が出てきて、もっとすばらしい写真を撮って、みんなをびっくりさせてやろうとか、もっと評価してもらいたいとか、そのためにもっといいカメラが欲しいとかいった、どろどろした欲望が生まれてきました。
そもそもこの五月に僕がブログを始めたのは、丁寧に生きることの大切さをある人のブログから教えられたからです。
写真は、普段僕が見過ごしているものをもう一度丁寧にとらえ直すための手段に過ぎなかったのです。
ところが今日はある人のすばらしい写真を見て僕は「ああ。この人にはとてもかなわない」とこころの中でつぶやきました。そうしたら、ふと自分がどうしてこういったことを始めたのかを思い出したのです。
そうでした。僕はこれらを自分のためだけに始めたのでした。
The Musical Offering
バッハの「音楽の捧げもの」。
最初に大学生の時に聴いたのがミュンヒンガー指揮のLP盤で、その重厚かつ幽玄な音楽に魅了されました。
最近また聴きたくなってAmazonで調べたら、ミュンヒンガー盤は日本では手に入らない。カールリヒター盤が人気なのでそちらを購入しました。
リヒター盤はチェンバロなのでミュンヒンガー盤のような重厚な音ではありません。しばらく聴いていたのですがミュンヒンガー指揮のCDも聴きたくなって、改めてアメリカのAmazonからミュンヒンガーの「音楽の捧げもの」と「フーガの技法」の二枚組を購入し、今は両方を愛聴しています。
iPodに入れて勉強したり読書したりしながら聴いているのですが、短く玄妙なテーマが手を変え品を換えて延々と繰り返される音楽で、これをAlbum repeat modeで終日聴いているとちょっと頭が変になって、愉快です。