2013/06/28

写真は誰のものか(改訂改訂また改訂)

reflection

内田樹氏が2005年に京大で映画論の集中講義をしたときに「バルトが「作者の死」を宣言してから20年以上経つのに未だに常識に登録されないのは作者の抵抗が強いからかもしれない」と述べている。

世間に流布している「作品」のほとんどに著者名や製作者名が記載されているのに、いきなり「作者はいない」と言われてもなかなか納得しにくい話だが、延々と続くエンドロールを見れば、映画ひとつ作るのにどれほど多くの人が関わっているかがわかる。
たとえそれが小説のようにたった一人で夜中にコリコリ書き上げるものであっても作者は連綿と続いてきた人類の暗い無意識の盛り上がりが水面に顔を出す際の窓枠のような役割しか担っていないのではないかと思えばその帰属を一個人に寄すべきものでもないように思う。

それについては例えば以前伊丹十三が「女たちよ!」の冒頭に自分の持っている知識はすべてこれまで自分が関わった多くの人たちからの贈り物であり、私自身はただの空っぽの入れ物にすぎないと書いていたことや、The Beatlesが自分たちの人生に影響を与えた多くの人物をサージェント・ペパーのジャケット写真に載せていたことを思い出す。

オーサーシップの否定というのはつまり我々の創作物は自分の力だけで作り上げたものではないということで、それを制作した私自身さえも私の創造物ではなく人類という網の目のなかの一つの結節点のようなもので、その結ぼれが世界や過去からの波動を受けて振動しているその振動が私だけのものだと踏ん張ってみたところで踏ん張る足もただ虚しく宙を蹴るだけだろう。

それ自身が持つ固有の浮力でネットワーク上をどこまでも運ばれていく作品というものがある。
誰のものともしれない写真が、その写真自身の浮力で空間と時間の中を漂っていくというのは人間の営為の存続の仕方として好ましい形態の一つではないだろうか。

しかしその一方で「名前」によって世界のネットワークに繋がっている作品がある。
我々のこの世界では「名前」と「値札」を付けないと社会のネットワークに乗らないという特性も厳然として存在する。




これは2007年にジョシュア・ベルという有名なバイオリニストがワシントンの地下鉄の駅で黙ってバッハを弾いたときのビデオで、1000人もの通行人のうち足を止めて音楽に聞き入ったのはほんの数人だったようだ。(皮肉なことにその2日前に彼がボストンで催したコンサートは一枚100ドルのチケットも売り切れだったそうである)
しかしもしここに彼の名前や「五億円のバイオリンで弾いています」という掲示があったら駅の構内は大変な騒ぎになっていただろう。

我々の世界で何かが流通するためには「名前」と「値札」が必要なのだろう。
価値を証明してくれる但し書きが必要なだけではなく、そもそも流通というネットワークが名前と値札で織り上げられているとしたら作者がなかなか死ねないのも当然かもしれない。



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