2008/07/05

その星でも青は進め赤は止まれ







アメリカの火星探査機が地球に送ってくる映像の最も驚くべき点は、その景色の日常性だ。
アポロが撮った月面写真の非日常性と比べて、火星には大気があるために空も地面も明るい。
精細なその地表の写真を見ると、この手ですくって指の間からこぼれ落ちる火星の土の感触がリアルに想像できる気がする。僕達のすぐ隣にある日常性。火星の地面は悲しいほど隣の空き地に似ている。

だがここに火星人はいない。地平線の彼方まで広がる火星の大地を見ていると、どこまで行ってもここには誰もいないのだという寂寥感に胸が苦しくなる。

この広い宇宙のどこかには、僕達の思いもよらない生物が、僕達の考えも及ばないような文明を築いているかもしれないと、以前は思っていた。
でも最近はどこへ行ってもあまり代わり映えしない景色かもしれないと思う。
どんな景色を見てもあまり驚かないだろうと思うのは年を取ったせいかもしれない。
高度な文明を築く生物は酵素によるゆっくりした酸化過程によって強く安定したエネルギー供給を受けているだろう。その生物はケガをすると赤い血を流すだろう。その生物は赤い色を危険信号として使うだろう。
多量の酸素はクロロフィルによる光化学反応を行う生物によってもたらされたものだろう。地表の多くはその生物に覆われていて、その緑は知的生物の心の安らぎになっているだろう。

その星では知的生物たちは重力に抗して前方に進む柔らかい四つの輪に支えられた乗り物に乗っているだろう。
お互いにぶつからないようにシグナルが立てられていて、そのシグナルの緑は進め、赤は止まれを意味しているだろう。
その生き物はこの広い宇宙のどこかに自分たちの思いもよらないような生き物が、考えも及ばないような文明を築いているのを想像している。だが僕達を形作っている元素の種類がこの宇宙のどこにいても同じなら、僕達の作る文明はみなそっくり同じかもしれない。

この広い宇宙の遙か彼方で、赤と青の信号が明滅している。
そこにはその星の生物の退屈な日常がある。




9 件のコメント:

  1. 匿名7/06/2008

    >どこまで行ってもここには誰もいないのだという寂寥感に胸が苦しくなる。

    私は逆です。
    誰もいないとは、なんと清々することだろうと感じてしまうんですよ。私がシュルレアリスムを好きなのも、そうした理由によると思います。

    この違いは面白いですね。

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  2. >とーしさん。
    コメントサンキュです。
    月面はそれほどでもないんですが、火星の景色はすごく日常的で、「まいど!」って誰かが登場しそうなのに誰もいないというのが僕の感じる寂しさの理由かもしれません。

    ところでとーしさんの、誰もいないすがすがしさとシュールレアリスムの関係がよくわかりません。
    確かにシュールレアリスムってドライな感じはします。
    ジョルジョ・デ・キリコの「街の神秘と憂愁」で輪っかを転がす少女の街には、少女のほかに誰もいない雰囲気がありますね。
    そういうことと関連があるんでしょうか。
    シュールレアリスム。謎です。

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  3. 匿名7/07/2008

    無人性というのは、私がシュルレアリスムに対して抱く感想であって、シュルレアリスムの定義にあるわけでもなんでもありません(と思う。。多分)

    代表的な人として、ちょっと画像検索してほしいんですが、タンギーなんて、まさに荒涼とした無人性を感じさせます。

    デ・キリコもデルヴォーもダリも、人は出てくるけれど、人の温みを感じさせませんね。

    進化論も精神分析も、人を物として見ることから生まれたんだと思います。人を物体として冷徹に観察することでしか見えてこない真実があるのではという姿勢ですね。

    そういう態度を私に喚起するのでシュルレアリスムが好きなのかなあ。。。自分のことはよく分かりません。

    そうそう。ついでに書きますが、唐突ですけど、死刑についてshinさんとやりとりしたことがありましたね。いま、shinさんの考え方が分かってきたように思います。

    私の考え方が、だいぶ変わってきました。存在している物にはそれなりの理由がある。思想でそれを変えたところで、あまり意味あることではない。そんな感じです。

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  4. 画像検索でイヴ・タンギーやポール・デルヴォーの絵を見ました。タンギーもデルヴォーも見たことがあります。

    僕にとってのシュルレアリスム絵画は、理性という城の外に広がる茫漠たる荒野です。
    城の周囲には高い塀がめぐらされていて、僕達はなかなか塀の外を見ることが出来ない。
    だがその塀にはいくつかの破綻がある。その破綻を通して僕達は塀の外の世界を垣間見ることが出来る。その破綻している箇所こそが「夢」と「狂気」なのだ。
    塀の外では、物たちは言語による関係性の絆を解かれてバラバラに浮遊している。
    僕達はかつて「あの世界」からやってきた。
    そしていつかまた「あの世界」に帰って行く。
    関係性を解かれた、寂しいけれども清々しく奇妙に自由な世界。
    あっ、そうか。そこにとーしさんが立っているのか。

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  5. 匿名7/07/2008

    これはまた、シュルレアリスムに対する正確な理解であり、これ以上ない的確な形容ですね・・・・・・・コレ、頂いちゃってもよろしいでしょうか。

    そーなんですよ。我々はみな、あそこから来た者である。人間が何者であるかを知るには、あそこに戻るしかない。

    きっと、そんな心情が私をシュルレアリスムに惹きつけるのだと思います。

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  6. 絵画もシュルレアリズムも門外漢ですが、シュルレアリズムっぽさって何だろうと考えると、やっぱりそれは、夢であり、狂気だよな。あの絵をじっと見ていると、ちょっと頭が変になるというか、どう見てもこれは夢の世界だよなと思います。
    夢も、狂気も、理性の終わりだよな。
    理性の世界の外の世界だ。
    理性の終わりって、関係性の解体だよな。
    そうか。みんなバラバラなんだ。だから清々しくて寂しいんだ。
    そんな推理でした。デルヴォーの絵を見ながらとーしさんの言ったことをぼんやり考えていたら、そんなことを考えました。だから僕の発言が妥当だとしたら、それはシュルレアリズムに蔵志の深いとーしさんに導かれたものです。感謝です。え~、引用自由です(笑)。

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  7. 匿名7/08/2008

    うーん、、実に見事に見通せたという感じですね。そんなによく分かるって、すごく勘がいいと言うことなのかなあ。

    とにかく、感心いたしました。

    え~、日記に引用させていただきました。感謝で~す。

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  8. 匿名7/08/2008

    shinさん 今晩は
    お久し振りです

    とーしさんから こちらでの話を聞いて読ませていただきに来ました
    shinさんの理解の深さに感動するばかりです

    今まで とーしさんのことをそこまで的確に言い表した人はいないと思います
    私も ウスラボンヤリと分かった積りでいても言い表すことはできないです
    なんだか嬉しいです♪

    十数年前 私たちが付き合い始めるようになるころ とーしさんが言った「こちらの世界の人たちと向こう岸の私、そこには橋はない」といったような言葉を思い出します

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  9. とーしさん、yuukoさん、いやそんなに褒めていただくと、すごく照れます。
    どうしてそんなにわかるのかって聞かれても、きっとやっぱりそれは‥‥
    とーしさんもyuukoさんもぼくもFool on the hillでしょ?
    それはfoolにしか見えない景色です(笑)。

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