例えばドーキンスが『利己的な遺伝子』で言うところの「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」という言説に対しても僕は僕なりに落とし前をつけておかなくてはならないのだが、この「何々にすぎない」という言い方がそもそもセンチメンタルなわけで、生命に何を期待していたのか、期待して裏切られたからこそまだ期待しているひとの背中を後ろからバッサリ斬りつけるような言い方もするのだろう。
だが問題は言明がセンチメンタルかどうかよりもむしろ生体と遺伝子の「どちらが主役なのか」を念頭に置いている点にある。
それから話は全然飛ぶけれども例えばヨーロッパの中世には天動説や地動説にまつわる議論というのがあって、地球が不動なのか太陽が不動なのかについてかつて裁判が行われた。
それはつまり地球と太陽のどちらが中心かということについての議論だったわけだが、今や地動説が正しいのは疑う余地は無いけれども、天動説が廃れて地動説が優勢になったのは地球にいる我々が惑星の軌道を計算する上で有利だから地動説が採用されたわけで、地球が動いていなくてその他すべての天体が動いていると仮定してもそれはそれでかまわない。
この宇宙に絶対不動の座標軸というものが仮に存在するとして(そんなものはないのだが)太陽がその絶対不動軸上で固定されているなら名実ともに地動説だが、もちろん太陽も地球も太陽系も天の川銀河も動いているわけで、太陽さえも地球によってその運行に影響が出るように多寡こそあれ星は全て互いに影響しあっている。それで影響の多寡の少ない視点のほうが軌道の近似値を計算しやすいから地動説を採っているわけだろう。
あるいはユダヤ・キリスト教にしても、この世界は神が作ったものなのか神は存在しないのか、そもそもそういう議論が起こってくる事自体が「この世界の主催者は誰か」ということから頭が離れていないことの証左である。
あるいは進化論で生物が多様なのは神がそう作ったからなのか突然変異と適者生存の結果なのかと議論するのがこの多様性という物語の裏で糸を引いているのは誰かというのがテーマだったりする。
我々が現象を説明するために「物語」を導入すると、必然的にそのプロットの主催者は誰なのかという問題が持ち上がってくる。
その物語の主人公は誰なのか。
それは現象にプロットを当てはめようとする行為が必然的に誘導する尋問である。
我々は言語を用いて創造したバーチャルモデルを現象と等価に扱うことで事象を理解する。
いや理解することや解釈することそのものが言語によるバーチャルモデル化であるとも言える。
そしてバーチャルモデルが自動能を獲得するためにはモデルのプロモーターが必要であってそれこそが主人公なのだ。すなわち「理解は主役を欲する」というわけだ。
「理解は主役を欲する」
だが現象は理解に先行し現象に主催者は存在せず、現象は現象だけでそこにある。
この世界に存在するのは現象だけなのだが、それを理解しようとした瞬間に主催者が召喚されるのである。
それがつまり西洋的思考の性(さが)なのだろう。