2013/06/14

6月14日

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4年前にセーラーのキングプロフィットを買ってからあれこれ万年筆やインクに手を出してみた。
それで使えば使うほど使用頻度の高いペンに収斂していくのは不思議だが当然でもあって
それは結局モンブランでありペリカンという王道的定番だったりする。
いろいろ試してみなければ納得できなかったわけだから仕方がないにしても
値段が高くても評価の高いものには生き残ってきただけの理由があるわけで
それが結論だったりもする。
インクも僕のテーマカラーにすることに決めてどちらのペンにも海松藍を入れた。
上の写真は中屋ライターにセーラーの極黒を入れて書いたもの。
中屋ライターも極黒も、どちらもどうにも使いあぐねていたが
使いあぐねたもの同士を組み合わせてみたら面白い結果が出た。
まるで筆と墨で書いている感じがする。

2013/06/09

共鳴するトーン

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「昭和三十六年に開催されたその「美の美」展で、佐野乾山が初めて世間にお目見えしたのです。
いまでも忘れられないのですが、第一線の陶磁学者である林家晴三さんが、作品のキャプションに「乾山の深い詩情の世界に、深く深く魅せられてしまった」という賛辞を書かれていました。
しかし私はそれを一瞥して、真贋は別としてなんて騒々しい乾山なのだろうかと思いました。
乾山はああいうものではない。もっと華やかでありながら、その後には、なにか枯淡の精神が流れているように思っていたからです。」
『「ニセモノ師たち」中島誠之助著 講談社』からの引用。

僕はテレビのなんでも鑑定団が好きでよく観ます。
鑑定団の面々が持ち込まれた物品の真贋を説明をするときの言辞に僕は興味がある。
例えばそれが書画なら描かれた題材、筆の勢いやタッチ、銘や押印。
陶磁器なら形や色合い、大きさや肌触り、使われている土の性質、高台の造りなど、それまでに見つかっている名作との比較で理屈に合わない所がないかをチェックする。
こういう科学的アプローチは真贋を客観的に判定する手法として最も説得力のあるところです。
そのような説明のなかにそれこそ聞き手に強い印象を残すものがあって、それが冒頭にも引用した中島誠之助氏の抱く第一印象についての言明です。

予め断っておきますが、僕は帰納法的アプローチのほうがより精確だとか、印象による評価抜きにして真贋は語れないとかいう議論をしたいのではありません。
印象とひとことで言っても文字通り無数の修羅場をくぐってきた中島氏のような超一流の鑑定士だからこそ意味を持つわけで、我々のような素人の遊び半分の印象とは訳が違う。

ではなぜ素人である僕がこのあたりのことに興味が有るのか。
引用したのはニセモノにまつわる本ですが、僕に興味が有るのはニセモノのニセモノ性ではなくて、何をもって本物というのか、あるいは本物とは何か。

工業製品ならすべての製品は細部に至るまで同一です。
しかし作者の中には「揺れ」がある。
だから作品にはその「揺れ」の反映として色や形や取り上げる題材などが前作と全く同じではありえない。
だから鑑定士は作品を構成する個々のファクターについて同じかどうかを見ているのではなくて、その揺れが許容範囲かどうかを見ているのでしょう。
しかし作者によって揺れの振幅が違うわけです。
振幅の小さい作者は工業製品に近くなるので判定が容易ですが振幅の大きな作者は判定が難しい。
そこにこの帰納法的アプローチの限界がありそうです。

しかし作者が同一である以上取り上げる素材が変わってもテーマは殆ど変わらない。
テーマが変わらないとどうなるかというと作品の発するトーンが同じになる。
で、実はこのトーンというのが馬鹿にならない。
例えば音叉のA音は440Hzですが、別の音叉の固有振動数が441Hzでわずかに違ってもこの二つの音叉は共鳴しないのですね。
鑑定士は作者のテーマが発するトーンを肉体的な共鳴として自らの内にあらかじめ持っている。
それはかつて作品を観た時に感じた内なる振動であり(ひとはそれを感動という)、必要なときにすぐに内面に再現できるわけです。「ああ、あのとき観た乾山は本当に素晴らしかった」。
そしてそのトーンと目の前の物品が共鳴するかどうかで非常に精確に真贋を判断できるということになります。
これは仮定ですよ。そう仮定すればひと目で真贋を見抜く彼らの根拠をうまく説明できるという。

しかしこの仮定があながち出鱈目でないと思われるのは前述の引用文のしばらくあとに更にこんな記述があるからです。
「むろん骨董界のほとんどの人たちは、佐野乾山が「腹に入らない」(納得がいかない)ということで取り扱う人は少なかったようですが。」同引用。

腹に入らない、面白い表現です。腹にひびくという言葉もあるように、ひとは大切なものかどうかの判定にその多くを(理性ではなく)身体のひびきや反応で感知しているように思われます。
そしておそらくそれは非常に精確なのです。



2013/06/08

しもつけ六月

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF















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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF

白いシモツケをアングルファインダーで下から撮りました。













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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

下野と書いてシモツケと読みます。
その謂れについてはこちらをごらん下さい。なんともう5年も前の記事。
その時は秋で、赤いシモツケをDP1で撮っていました。











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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF















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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF















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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF

西271度です。いや別に意味はありません。













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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

2013/06/06

あなたが思うよりずっと

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晩春夕刻

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18:10:51

春の夕方は昏さの中にとろんとした光のやわらかさを感じます。













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18:12:50

マクロプラナーはこういうとろみのあるやわらかさを表現するのにぴったりのレンズです。













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18:25:30

今日の写真はすべて50mmのマクロプラナーで撮っています。














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18:27:11















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18:28:18

minoltaSTF135mmの背景が磨りガラス様とすれば
マクロプラナーはうるんだ涙越しの世界。
どちらもとろとろ系ですがとろとろ感が違います。










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18:31:02

50mmと100mmのマクロプラナーを取っ替え引っ替えしながら
写真散歩することをちょっと夢見ています。

2013/06/02

悪魔と修行

「原罪」と同様我々日本人にとって馴染みにくい概念に「悪魔」がある。
オーメンやエクソシストといった映画を観ると「神」や「天使」と同様、「悪魔」というキャラクターは欧米人の脳内劇場の大看板として専用の楽屋を与えられているような気がする。
欧米人ではない我々には本当のところは分からないが、彼らの心のなかには常に天使と悪魔がいて天使が勝つと善行を、悪魔が勝つと悪行に走るという、ディズニーアニメのようなこと(これとか)が本当に行われているのかもしれない。
彼らの脳内ではイデアが人格化しやすいのだろう。

日本人にはこの、悪行を悪魔のせいにするという習慣があまり見られない。
少なくとも日本人にとって「悪」は分割統治の対象ではない。
それは我々には人格神がなく、また悪魔という人格悪も持っていないからだろう。

さてでは日本人にとって「悪」とは何だろう。
「あいつはワルだ」とか言うけれど、我々の中では「悪」は悪魔というキャラ以前に積極的なイデアとしてさえも存在していないような気がする。それはむしろ「非道さ」だったり「わがままさ」だったり「幼稚さ」だったりというふうに心の自己管理の問題として捉えられているような気がする。

この日本人の「自己管理」ということと深いつながりがあるのが「修行」という言葉で我々は何かというとすぐに「まだまだ修行が足りません」と言う。僕は写真が趣味だけれども、写真関係のブログやSNSには驚くほど頻繁にこの「修行」という言葉が登場するし、実際自分でも使う。前述の「まだまだ修行が足りません」を筆頭に、「修行中です」「修行したいと思います」など、ここは禅寺かと思うほど人々は修行に明け暮れている。

これは日本人だけに見られる現象だろうか。
「修行が足りない」は英語では"have more to learn"とか"require more training"ということになる(英辞郎)。
ここには学習や訓練というイメージはあっても自己研鑚的なイメージは弱い。
Flickrでも外人がこれに類することを書いているのはみたことがない(彼らは"Catching up soon"とか"Catching up slowly"とかは言うけど、これは大雑把に言えば勝ち負けの世界の言葉で自己研鑚的な意味合いは薄い)。

つまり趣味にしろ仕事にしろ日本人は自己研鑚という座標軸の中を生きているのではないか、そして「善」も「悪」も、もちろんその社会への影響を抜きには語れないけれども、概念の出自としては主に自己研鑚という座標軸のプラス極とマイナス極として存在しているのではないか。
というなんだか収まりの悪い結論のまま今日のお話は終了です。
まだまだ修行が足りませんね。


2013/06/01

「原罪」なんか怖くない

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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55

恐ろしいものは「地震・カミナリ・火事・オヤジ」、オヤジは絶滅危惧種だがその他は文字通り畏怖すべきもので、コミュニケーションの埒外にあるもの、その制御不能性、交渉不能性こそが、我々が自然界に感じる畏怖と神性の根幹である。

世界の大きな地震の2割が集中する日本。その地震による津波で営々と築いた家族と地域の歴史は更地となり石で家を作ると地震で下敷きになるからせっせと木の軽い家を立てても瞬く間に火事で燃えてしまう。台風の通り道にあるので、精魂込めて育てた収穫目前の稲が一夜で駄目になる。
水に流してチャラにして、またほがらかにイチからやり直す。
つまり日本に生きるということは制御不能、交渉不能の運命を甘受しながら生きるということで、我々は祈りはするが見返りは求めず恨みっこなしである。

それに対し自然は征服すべきもの、コオロギの声が雑音にしか聞こえない西洋人にとって
神性は自然界にはなく、むしろ怖いオヤジ系の人格神である。
怖いといっても西洋の神とヒトとの間にはちゃんと人格という連絡橋があって、そこに契約や義務や恩義といった交渉が存在する。
しかし交渉可能ならなぜ従わなければならないのかという当然出来(しゅつらい)する疑問に対し、乗り越えることの出来ない折り込み済みのハンデとして召喚される概念こそが「原罪」というもので、あんたは生まれた時から神に借金しているのだから彼に従うべきであり、返済を猶予してもらっているのだから感謝すべきだという理屈が成り立つ。
彼らが恐れているのは神ではなくて契約違反なのだろう。

人格神は原罪を要請する。
交渉不能性こそが神性である我々日本人にとって「原罪」という概念は永遠に理解不能だろう。







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