2013/02/03

Twin Bells

蝋梅
Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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明日は立春です。

2013/02/01

2月1日

蝋梅
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2013/01/28

逃げる意味

"えー、昨日「(映画)大脱走」のところでお話したとおりですね、
「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアンを中心として全ての欲望は編成される」と。
「大脱走」の場合はですね、それが存在すると、それが何を意味するかということを知られた瞬間に
全てが瓦解してしまうためにですね、登場人物全員がそれがないことを欲望する、
あるいはそれがあることを否認するもの、トンネルですね、
それを中心として物語が編成されておりましたが、
えーここではですね、
「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアン」、
えーこれがですね、
実はトラウマでもなんでもですね、全部に共通する条件なんです。

「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアン」、
トラウマもそうですからね、それを中心として人間の欲望が構築されていると。
それについてラカンはこう書いていますな。
「シニフィアンというものは、その位置をずらしながらでなければ保持され得ないものである」。
うーん、こういう所にマーカーを引いてくださいね。
「その位置のずらしは原理的に次々と場所を入れ替えることで機能している。
一巡して元の場所に帰ってくるために、シニフィアンは最初の場所を離れなければならない。

シニフィアンの位置のずらしは、主体たちがどういう行動をするか、どういう命令に従うか、
何を拒絶するか、何を見誤るか、何に成功するか、どういう幸運を引き当てるか、
更にはどういう生得的な才能を備えているか、どういう後天的形質を獲得できるかまでをも決定し、
この決定には主体の性格も性別も全く関与しない。
そして心理学的な意見はすべていやもおうもなく、完全にシニフィアンの歩みに従うだろう」

すごいですね・・・。人間の中心、全てはこれ。まぁこれ非常にきっぱりとですね、
デカルト以来の心身二元論、コギトを中心とする自我論を根本から否定するような発言なんですね。
そうではなくて問題はシニフィアンなんだよ、運動するシニフィアン。
「転移」なんですね。ここで行われているのは、実はですね、シニフィアンのすり替え、
シニフィアンのすり替えのことを精神分析の現場では、治療の現場では「転移」と呼んでいます。"

2005年12月20日から4日間にわたって行われた「映画論」と題する内田樹氏の京都大学集中講義からの抜粋です。
この講演は汲めども尽きぬヒントの宝庫で、僕はこの7年あまりの間に
この講義をおそらく何百回、いやたぶん千回近く(笑)繰り返し聴いてきました。
そしてたぶんそのなかで一番コアな部分、それだけに一番わかりにくい箇所もここなんですが
それを耳ではなく目にして何度も掘り返したいと思いMP3から書き起こしてみました。
著作権を放棄しておられる内田先生のことだからたぶんクレームは来ないと思いますが
問題があれば削除します。
それにしてもこの講演内容を本にしてくれたらこんな苦労もいらないんだけど。
内田先生のサイトからはもうとっくの昔にこのMP3は購入できなくなっているし。

2013/01/27

rosehip

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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2013/01/25

写真論4 写らないカメラ

抜け落ちた夕暮れ
GRD4

前回も取り上げた鬼海弘雄氏の言葉について更に考えを進める。
鬼海弘雄氏が藤田一咲氏の「ハッセルブラッドの日々」の中で「デジタルはたしかによく写る。だが写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと具体的なものは見えてこない。
またプロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾(こ)したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない」「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる」と述べておられる。

「デジタルはよく写るが、写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと具体的なものは見えてこない」とはどう云う意味だろう。
普通に考えればそもそもカメラというのは写すための装置なのだから写らないカメラより、よく写るカメラのほうがいいに決まっている。

それなのに彼は写りすぎるのは良くないと言うのだ。
写りすぎると物事をよく考えないからだと。
ではその、よく考えなければならないモノゴトとは何なのか。

我々の欲望や知性は本質的に「欠落を埋める」というふうに働く。
作品を提示するということは「欠落を提示する」ということにほかならない。
彼が「物事は欠落した部分がないと、具体的なものは見えてこない」という、その「具体的なもの」とは写っている具象のことではない。
それは欠落を埋めようとする我々自身の想像力のことである。
その想像力がとりもなおさずリアリティーであり、彼の言う「具体的なもの」なのだ。

作者が何を取り上げて何を取り上げなかったのか、何を取り上げようとして取り上げきれなかったのかを我々は作品から読み取ろうとする。
よく写るカメラはあたかもすべてが写っているかのようにみえる。
しかしそれは欠落が「ない」のではなくて、欠落が見えにくくなっているのだ。
鬼海氏にとって写りすぎる装置は作者の意図する欠落を隠蔽する。
提示する側も受け取る側も、写真がよく写っているために何が欠落しているのかがよく見えない。
おそらく彼はそのあたりの事情をこの文章で伝えようとしているのだ。

では「(デジタルでは)プロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない」とはどういう意味だろう。

「濾す」というのはおそらく零次リアリティーから夾雑物を取り除くことを意味している。
「寝かす」というのは撮影時の昂ぶりが沈静化してその中から欠落があらわになるのを待つということであり、「発酵させる」というのは虚としての欠落の周囲にそれを欠落たらしめる構造物を構築する過程のことであろう。
具体的には、
濾すという工程は(一次リアリティー標準装備の)低パフォーマンスカメラがやっていて、寝かすという工程は現像が上がるまで待つ時間のことであり、発酵させるというのはおそらく暗室での焼付けを含む作品作りのことだろう。
これらの作業はすべて彼にとって零次リアリティーを孵化させて一次リアリティーに成長させるためになくてはならない工程なのだ。

最後に「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる」とはどういう意味か。
おそらく写真は、普通に撮ったのでは「欠落が写らない」装置なのだ。

2013/01/22

写真論3 カメラの未来

winter cat

前回のお話の続きです。
最新のカメラに標準装備されている様々な仕様、例えば
高速シャッター、高ISO、撮像素子の大型化と高画素化、手振れ補正、
瞬速AF、HDR、防塵防滴、自動追尾、可動式液晶ライブモニターなどの技術は
以前なら撮れなかった被写体の撮影を可能にするための、いわば、
「生(ナマ)情報の拾い上げ能力の拡大のための進化」と言ってもよいでしょう。
前回私が、カメラはこれまで主に零(ゼロ)次リアリティを拡大する方向で進化してきたと述べたのはそういう意味です。

ここで藤田一咲氏の「ハッセルブラッドの日々」の中で、鬼海弘雄氏が
「カメラは人と人を結ぶ関係性のためにある」と述べていたことを思い出してみましょう。
前項で取り上げた考察に従えば、鬼海弘雄氏にとってカメラというのは
一次(以降の)リアリティを共有するための道具ということになります。

もちろんメーカーの立場から言えば、そもそも一次リアリティの拡大は撮影者側のテーマであり、
企業は零次リアリティを拡大していくことで撮影者の一次リアリティ拡大に間接的に寄与しているのだと言えなくもありません。

ただ問題は、零次リアリティの拡大は必然的に一次リアリティの介入を妨害するという点です。
撮りにくいカメラで撮ろうとする思いも含めて、
無駄や不可能との交渉そのものが、一次リアリティの産卵場だからです。
鬼海弘雄氏が前著のなかで、
「デジタルはたしかによく写る。だが、写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと、具体的なものは見えてこない。またプロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない。」あるいは「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる。」と述べておられるのも含味すべき言葉かと思います。

さて、では今後カメラはどの方向に向かうのでしょう。
おそらく零次リアリティを拡大していく流れは続くとしても
行き過ぎた零次リアリティの拡大は一次リアリティへ至る道をどんどん狭めていくと思われます。
「何でも撮れるけど何にも撮れない」あるいは「私は何を撮ったらいいんでしょう」というのはこのあたりの事情です。

車がどんどん高性能になって、もはや誰も車の夢を見なくなったように、
カメラの魅力もどんどん低下して、ついに人は写真を撮らなくなるのでしょうか。
プロは今までどおり仕事として高機能カメラを必要とするでしょう。
しかしアマチュアにカメラを使い続けてもらうために企業は何をすべきなのか。

それはやはりローテクの洗練ということになるわけですが
「無駄や不可能との交渉そのものが私達のリアリティなのだ!」ということを一般に喧伝しつつ
例えばアップルの製品でUIそのものが悦楽であるように
視覚に麗しく触感が官能的で、ひとつひとつの操作に深い味わいのあるカメラ。
操作に快感を導入することで〈結果的に〉ローテクであるようなカメラ。
ちょっと今の富士フィルムの路線に似ているでしょうか。
コシナ製レンズのヘリコイドのエロティックな触感なんかも
あれはAFでなくてMFであることがむしろ積極的な喜びになってるでしょ?
たぶんそういう方向。
大上段に振りかぶった割にはこじんまりした結論ですが^^。

2013/01/20

写真論2 カメラの進歩とリアリティ

_1192037


リアリティとは内的真実のことではないかと昨日お話しました。
しかし人はそれぞれ体験する内容も違うし、仮に同じ体験をしても受け取り方が違います。
内的真実としてのリアリティも、各個人によって当然異なってくるわけです。

自分にとってはリアルでも、他人にとってはリアルではないということもあるし、圧倒的多数がリアルを感じる作品というのも存在します。その違いはどこにあるのでしょうか。それを説明するために「リアリティには階層がある」と仮定してみましょう。


第1章 リアリティには階層がある

リアリティには階層があると仮定します。
まず零次のリアリティ。これは個人の脳による記憶や変性といった編集がほとんど加わっていない情報のことです。
いわば未加工の生(ナマ)情報。リアリティを内的真実と定義している本ブログの立場からすると、これをリアリティに含めるのは妥当とは言えません。そこでこれを「零(ゼロ)次の」リアリティとします。

次に生情報が個人的体験として編集された内的真実、これを一次リアリティとしてみます。
今日夕方帰宅途中に見た夕焼けの色は大学浪人時代に見た京都の夕焼けとそっくりだった、みたいな。
ただしどれほど個人的といっても以下の二次や三次の地域的、時代的、人類的な修飾を受けないということはありえないので、厳密な意味で個人的というわけではなく、比較的広がりの限定された内的真実という意味合いで用います。

その次は地域的あるいは時代的に共有されている実感のプールとしての内的真実です。
大阪では一家に一台たこ焼き器がある的な(笑)。これを二次リアリティとします。

その次は人類が共通に持っているヒトとしての類的・種的なリアリティ。
ヒトという生物が持っている言語・血縁・財貨サービスによるコミュニティに底流する実感のプール。
ここには人間社会、冠婚葬祭、霊的なもの、快楽、苦痛、喜び、悲しみ、愛憎など、人類に共通する深くて広いテーマが全て含まれています。
これを三次リアリティとしましょう。

その次の四次リアリティは生物のプール。
食・睡眠・生殖・呼吸・生存・死など。

その次は存在のプール。これは生死を超えた、存在の根源に繋がる内的真実。これを五次リアリティとしましょう。これは難しいですね。本当にこんなプールがあるのかな。まぁ想像的なプールと言っておきましょう。

ただしこれら一次から五次のリアリティは明確に区別できるものではなく、お互いに深く関係しあっていると考えられます。なぜなら我々は種的、歴史的影響を抜きの単なる個人としては存在し得ないからです。しかしそう言ってしまっては全てが混沌のスープに溶けてしまうので科学の流儀に従って「分けます」。

以上まとめると
零次リアリティ:個人の脳による編集を受ける前の生情報。
一次リアリティ:個人の内的真実。
二次リアリティ:地域的あるいは時代的な内的真実。
三次リアリティ:人類的な内的真実。
四次リアリティ:生物的な内的真実。
五次リアリティ:存在的な内的真実。

そしてこの次数が下へ行くほど、そのリアリティはより広い普遍性を獲得します。
ある写真が普遍性を持つかどうかはどの次元まで通じているかという次数のパラメーターに還元できます。その写真の持つリアリティの階層の深さが、共感の深さと広さに関係しているというわけです。
さらにこういう仮説を設けるとカメラという装置が何をしているかがイメージしやすくなります。
カメラは零次リアリティに関わる装置なのです。


第2章 カメラの進歩は盗みの進歩

カメラの黎明期に喧伝された信憑に「写真を撮られると命が縮まる」というのがあります。
絵描きが絵を描く場合はモデルと向き合ってコミュニケーションが立ち上がる時間的余裕が有るのに対し、カメラは一瞬で全てを抜き取っていくという性質上、スリに掏られたような印象を被写体に与えてしまうわけです。
実際カメラには盗撮的側面があるわけで、今便宜上写真を撮るという行為を盗みに例えて考えることも許されるでしょう。

初期のカメラは暗いと撮れない、動くものは撮れない、近寄らないと細部はわからない、ヘタだと撮れないという様々な制約がありました。
しかしその後カメラは暗くても撮れる、動くものも撮れる、近寄らなくても細部が克明に撮れる、ヘタでも撮れるという方向に進歩してきたわけですね。
これを泥棒に例えると塀が高かったり鍵が頑丈だったり番犬がいたりしても、その家から家財一式まるごと盗むことが出来るようになったと。つまりカメラの進歩というのは、

自由度がアップした(どんな家からでも盗れる)
情報量が増えた(風呂敷が大きくなってがっぽり盗れる)

という二方向への拡充であったと考えることが出来るわけです。
するとカメラの進歩はリアリティとどのように関係するでしょうか。
それを次の最終章で考えてみましょう。


第三章 カメラの進歩とリアリティ

カメラの進歩が自由度のアップと情報量のアップにあるとすると
それは零次のリアリティの拡充に相当します。
われわれはそこから「ほかならぬ私にとって意味のある情報」を抜き出して編集することで一次以降のリアリティを獲得します。

再び話を泥棒に例えると、
泥棒が集めた盗品から何を捨て何を取り上げるかという作業をする時
盗品の量が多ければ多いほど泥棒の作業は煩雑を極め悩みは深くなります。

例を変えて引越しの場面を想像してみましょう。
本棚や押し入れから本や雑貨や思い出の品などがたくさん出てきて、それを見ているうちに面白くなり、どれを捨ててどれを次の家に持っていくか判断がつかなくなり部屋はどんどん散らかっていく。
妻にせかされてやむなく捨てることになっても未練が残ってしまうという状況に、それは似ています。

泥棒は途方に暮れる。
いっそすべてをそのままアップして、リアリティの獲得は見ている人に任せてしまおうかという甘い誘惑にも駆られます。
実際、零次のリアリティには零次のリアリティとしての魅力があって、例えば対象が何であれ過剰なほどの精細さで切り取られていると、それは視覚を超えて触覚に訴えるほどの魅力を持つことも稀ではありません。写真を零次のリアリティとして提示するというのは、カメラの性能がアップしたことで生まれてきたスタンスなのかもしれません。

しかし高機能カメラを用いて一次リアリティを獲得しようとすると
とたんに撮影者は零次から一次への繰り上げに難渋することになる。
ロモやピンホールなどのパフォーマンスの低いカメラが一部で強く支持されているのも
もう盗品は少なくていいんだという流れの中で生まれてきたのかもしれません。

低パフォーマンスのカメラの利点は単に盗品が少ないというだけではなく
実は撮影するという行為がすでに零次から一次リアリティへの繰り上げになっているという点です。
それは何を撮るか、どこにピントを合わせるかという手作業のことです。
撮りにくいカメラで、それでもどうしても撮っておきたいという強い思いはすでに一次リアリティですし、
どこにピントを合わせるかというのも、自分は何を強調したいのかという一次リアリティです。
低パフォーマンスカメラは、実は一次リアリティを装備したカメラと言えるかもしれません。

高機能カメラでもオートフォーカスでなくマニュアルフォーカスで撮ると一次リアリティが入りやすくなります。
それはどういうことかというと、特にマクロで実感することですが
オートフォーカスでは撮りたいと思ったものに瞬時にピントが合うわけですが、これがマニュアルだと、
ピントを合わせていく過程で様々なものへの合焦を通り過ぎながら目的の合焦点に到達します。
その途中に予定外の魅力的な合焦ポイントを見つけ出すことがあるわけです。
それは私が意識では知りえなかった、いわば無意識の呼び声のようなものをキャッチし得た瞬間です。

このように、無駄とも思えるそぞろ歩きのなかに、一次リアリティが入り込んでくる。
無駄や不可能との交渉そのものが、一次リアリティの産卵場なのかもしれません。

じゃあ高機能カメラの立場はどうなる?ということになるわけですが、
多すぎる自由の中で、本来われわれは何をしたかったのかを再考する一助になればと思って
この長々しい文章を書いてみました。

文章のヒントを下さったwataponzさんに感謝します。



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